第11話 ライフハック
まったく賑やかな夜だ。五十メートルの距離もないに等しい。秋嶺山荘に、赤色灯を回してサイレンを鳴らす警察車両が次々に入って行く。それを少し開いた引き戸の隙間からうかがいながら、小柄な、しかしガッシリとした体格の筋肉質な老人は、広い土間の奥にある炭焼き
ここで焼くのは安い黒炭である。山向こうのキャンプ場などから注文を受けて格安で焼いている。仕事ではあるが毎日焼きはしない。寄る年波には勝てず体力も年々落ちているのだ、休み休みでなければもう続けられない。半ば趣味のレベルで働くのが精いっぱいな現状だった。
警察は一通り到着したのだろう、秋嶺山荘を見ればまだ赤色灯の光が
いい加減もういいのかも知れない。こうやって炭を焼く必要はもうないのでは。年金もあるし、老い先短い自分がつつましく暮らして行ける程度の貯えもある。必死になって、石にかじりつく思いで生きて行くことなど、もう考えなくてもいいようにも思える。そこまでして生きる理由や目的はすでに失われた。仏壇の中の娘も怒りはすまい。
とは言え、恩も義理もあるのだ、筋だけは通しておきたい。いましばらくはここで炭を焼こう。一段落がつくまでは。老人は顔を上げ、仏壇の中の少女の写真に微笑みかけた。
「もうじきそっちに行くよ」
そうつぶやきながら。
さて夜も更けた。後は風呂にでも入って寝るか。そんな考えが頭をよぎって、老人は思わず吹き出してしまった。
さすがに風呂はないな、と。
「N県警捜査一課の
地味なスーツ姿で恰幅の良い亀森は、白手袋をはめながら秋嶺山荘のエレベーター前に立った。迎えた鶴樹はやや緊張の面持ち。
「T県警の鶴樹警部補です。どうぞこちらへ」
ドアが開放されたままのエレベーターの中では天井の点検口が開けられ、脚立に立つ捜査員の足が見えている。そこから聞こえる声。
「よし下ろすぞ、ゆっくり、ゆっくりだ」
見えている足が脚立を一段一段、確かめながら降りて来る。やがて捜査員の上半身が現れたとき、その両腕には別の人物の足が抱えられていた。
捜査員がさらに下りると周囲から手が伸び、天井からぶら下がっている人物を支える。そしてエレベーターのかごの上にいる者が手を離したのだろう、それ、すなわち首にロープを巻き付けた狭庭真一郎の死体が全身を光の下に現し、エレベーター前のブルーシートの上に横たえられた。
亀森は言う。
「検視官は少し遅れるので、それまでに情報のすり合わせをしておきたい。現時点で犯罪性は確認されていますか」
鶴樹は首を振った。
「いえ、いまの段階では自殺の線を否定できません。首を絞められて苦しんだ跡が見当たりませんから、ほぼ即死に近い状況だったのではと。ただ」
「ただ?」
「はい、我々は日和義人氏の警護任務で数日前からこの館内に居たのですが、エレベーターよりも上の空間に入るための出入口を確認できていないのです」
亀森の視線が鋭くなった。
「なるほど。狭庭真一郎氏でしたな、この人物がもし自殺をしたというのなら、そこに入る方法を知っていたことになる」
鶴樹はうなずいた。
「ええ、一応ここに暮らしている子どもたちにも聞いてみたところ、二階より上の空間について知っている者はいませんでした。誰も嘘をついていなければの話ですが。後はオーナーの日和義人氏と支配人の八科祥子氏ですね」
「その二人はいま総合医療センターでしたか」
「勝手ながら、うちの県警から身柄確保の要員を送っています。可能なら今夜中にでもここに戻せるようにと」
「ご配慮助かります」
亀森は満足げに微笑んだ。お世辞ではなく本心なのだろう。鶴樹も警察組織の中では決して無能ではない。独断専行を良しとしないタイプなのだ。
「では一階は鑑識に任せて、件のフリーライター、狭庭氏の死体の存在を示唆したという男に話を聞いてみましょう」
亀森の言葉に鶴樹はうなずいた。
「ではご案内します。こちらへどうぞ」
二階に向かう奥の階段へと誘導する。途中、亀森は子どもたちの顔が並ぶ四つの部屋の入口を横目で眺めた。泣いている少女は狭庭真一郎の孫娘だろうか。感傷に浸りそうになって、亀森は頭を切り替えた。いま一番になすべきことは事件の解決である。そのために全力を尽くすのだと。
鶴樹が二階の防災監視室のドアを開けると、手前両脇に二人の刑事が立ち、奥に事務椅子に座った二人の男。一人は疲れ切った顔でうつむき、背を向けているもう一人は室内に並ぶモニターの映像を面白そうに見比べていた。
鶴樹は背を向けている男を手で指し示す。
「彼が五十坂氏です」
だが亀森の目はその向こう側でうつむく男に向けられていた。
「君は……式村くんか」
式村憲明はすべてを諦めきった顔で立ち上がり、小さく頭を下げた。
「ご無沙汰しています、警部」
「どうして君がここに」
これには鶴樹が驚いた。
「彼をご存じなのですか」
「ん、ああ」
N県警の少年課だ、と言っても良かったはずなのだが、何かを察したのだろうか亀森は話を変えた。
「それより、五十坂さん。面倒をかけて申し訳ないが、もう一度詳しいことを聞かせていただけますか」
それを聞いた五十坂は初めて振り返り、うんざりした顔で椅子をクルリと回して亀森に向き直った。もう一度詳しいことを、と言うからには何度も同じ話をさせられている事実を理解しているのだ。その上でたずねられている以上、さっき話したは通用しない。
「どこから話したもんでしょうかね。死体を見つけられた理由だけでいいですか」
「いや、最初から。事件の可能な限り始まりの時点から理解していることを教えていただきたい」
亀森とて忙しい身だ、同じ話を何度も聞きたくはない。だから順を追って全部話せというのである。一見合理的だが、話す側はたまったものではない。とは言え話さない訳にも行かないのだ、五十坂はやれやれとため息をつくと、頭の中を整理しながら語り始めた。
「始まりは二十年ほど前、十六歳の女の子が頭のイカレた通り魔に刺し殺される事件が起きました。娘を奪われた父親は法の裁きを期待したものの、現実は非情だ。通り魔は不起訴処分で措置入院になってしまった。そのとき不起訴を決めた担当検察官の名前が狭庭真一郎。娘を奪われた父親の名前は葦河宏和、これがいまの日和義人です。不起訴になった通り魔の名前が空場巧。そしておそらく空葉巧が後にT県で殺人事件を起こして逮捕されたとき、自称した名前が唐島源治」
「なっ」
鶴樹が動揺する。
「五十坂さん、そんな、唐島の話は初めて聞きましたよ」
「そりゃこっちだって聞かれてないことまで話しませんよ、面倒臭い」
「めめめ面倒臭いですと!」
激高しそうになった鶴樹の肩をポンと叩き、亀森は話の続きを促した。
「それで」
五十坂は小さな笑みを浮かべてまた話す。
「娘を殺された父親は復讐を誓いました。狭庭真一郎と空場巧への復讐、そして自分と娘を裏切った社会に対する復讐をね。そのために、どうやって金を工面したのかは知りませんが、この秋嶺山荘を買い取って障碍や病気のある子どもを集め出した。社会への復讐を優先したんだ。まあ個人に対するより社会的復讐の方が手を付けやすかったんでしょう。これが十五年ほど前の話」
「ふむ、それから」
どこでどうやってこんな情報を仕入れたのか、とはたずねない。当然疑問には思っているのだろうが、亀森は真剣に聞き入っている。こうなると、さしもの五十坂もおちゃらける訳には行かなかった。
「どうやったのか、方法はわかりません。わかりませんが最近になってこの父親、つまり葦河宏和、いや日和義人は狭庭真一郎の居場所を知った。しかもその孫娘が吃音で苦しんでいるという。この辺は単なる偶然だったのかも知れない。うん、まあただの偶然なんでしょうが、とにかく日和義人には願ったり叶ったりの状況があった訳だ。これを利用しない手はない。復讐の炎が日和義人の心に燃え盛ったに違いない」
亀森はもはや声もかけない。ただうなずき五十坂を見つめている。
「一方それと同じ頃、退院してしばらくなりを潜めていた空葉巧がT県で殺人事件を起こして逮捕され、留置場から逃走しました。これも何をどうやったのか方法はわからないんですが、日和義人はこの逃走した男、自称唐島源治が空葉巧の偽名であると気付いたんだ。そして予測した。ヤツなら目撃者を殺すはずだと。この辺はかなりヤッツケで自信はないですがね。ただ結果を見る限り日和義人はその予測に従って行動し、目撃者の近くで唐島源治が現れるのを待っていたはずだ。予測はビンゴ、日和義人は唐島源治と出くわすことに成功した訳です」
これを聞いて鶴樹が慌てる。
「待ってください。日和義人が唐島源治と出会ったのは、狭庭真一郎の家の前のはず」
「つまりこの目撃証言は」
亀森の問いに今度は五十坂が、ニッと歯を見せうなずいた。
「半分嘘ですかね」
「半分」
「唐島源治が狭庭真一郎の家の近所まで行ったのは事実かも知れない。それを日和義人は確認したのかも知れない。だが時刻は夜の八時過ぎ、顔がハッキリ見えた可能性は極めて低いでしょう」
「……続けて」
五十坂はもう一度うなずきそれに応える。
「日和義人は二つの罠を仕掛けました。自分を殺しにやって来るであろう唐島源治に対する罠と、自分に助けを求めてやって来るであろう狭庭真一郎に対する罠を。唐島に対する罠が成功したのかどうかはわからない。これは唐島を捕まえてみなきゃわからんでしょう。だが狭庭に対する罠は成功した。日和義人は狭庭真一郎を言葉巧みに二階の上、まあ普通に考えりゃ三階ですね、そこへ誘い込んで首に縄をかけ、エレベーターの縦穴に蹴り落としたんだ」
「だけど」
思わずつぶやいてしまって、式村憲明はハッと顔を上げた。注目が集まってしまっている。
「あ、いや、その」
「いいじゃないですか式村さん。この際だ、気が付いたことは何でも出してみりゃいい。遠慮してる場合じゃないですよ」
五十坂はそう言う。鶴樹は疑わしげだが、亀森はうなずいている。式村は思いきって胸に引っかかっていることを口にした。
「さっきカンジくんが言ってたんです。部屋の前を狭庭真一郎が通ったからコーヒーを二〇一号室に持って行ったのに、誰も居なかったって。私はカンジくんがコーヒーを持って来る前に、二〇一号室からドアの開け閉めする音を聞いています。普通に考えるなら、狭庭真一郎はエレベーターを上がって二〇一号室までたどり着いているはず。なのに」
「なのに狭庭真一郎は部屋におらず、エレベーターの上でぶら下がっていた」
五十坂の言葉に式村はうなずく。これに鶴樹が口を挟んだ。
「あのカンジは注意力が欠落しているのです。何かを見間違えたんでしょう」
すると五十坂は同意の笑みを口元に浮かべる。
「そうですね、見間違いはあったんでしょう。白い髪で白いヒゲの男が部屋の前を通ったなら、カンジは狭庭真一郎だと確信したはず。それが本人でなかったとしても」
亀森が眉を寄せた。
「変装だとでも言う気かね」
「ええ、狭庭真一郎はこの秋嶺山荘から姿を消してしまった、と皆に印象づけるための簡単なトリックでしょうね。ここのビデオを確認したら残ってんじゃないですか、変装した日和義人が二〇一号室を開け閉めしてエレベーターに戻って行く場面が。ドアを開け閉めしたのも式村さんに印象づけるため」
そう五十坂にハッキリ言われてしまうと、式村は不安になる。
「それはいったい何のために」
「そりゃ何かの際に式村さんの証言を利用するためでしょう。実際にはその時点ですでに狭庭真一郎は死んでいた訳ですが、運が良ければ警察を騙せる、くらいのつもりだったんじゃないですか。まあ下手くそなアリバイ工作ですよ」
五十坂の言葉通りなら、まさに大胆不敵と言える。
「動きすぎては返ってバレると考えなかったんだろうか、日和義人は」
そう問う亀森に、五十坂はいささか呆れたような笑みを見せた。
「復讐さえできれば、後はどうでも良かったんじゃないですかね。もしかしたら狭庭殺しを唐島の犯行だと見せかける程度の仕掛けは用意してたのかも知れませんが、そんなのは二の次、三の次の話だ。殺したい奴らさえ殺せれば、後は野となれ山となれ」
「遠大で
つぶやいた亀森は、鶴樹にたずねた。
「唐島源治の行方は、いまだ不明でしたね」
これに鶴樹は一瞬、宿題を忘れて戦々恐々としている小学生のような顔を浮かべる。
「はあ、まったく面目次第もございません」
「いや、恐縮することではないです。言い換えれば、まだ事件の全容解明の可能性が残っている訳ですから」
「全容解明? しかし」
事件の全容ならいま解明されたのではないか、そう言いたげな鶴樹に、亀森は笑顔を向ける。
「証拠のない推測では裁判は戦えないでしょう。我々の仕事は一つでも確証を探すことではありませんか。唐島源治が逮捕できれば、そして自白を取ることができれば、足りないピースは一気に埋まります。全容は芋づる式に解明されるはずですよ」
それはまったくもって亀森の言う通りだった。理屈がわかる、物語として理解できる、それだけでは話にならないのだ。客観的に見て疑いようのない確実な証拠を揃えてこそ警察の仕事である。鶴樹は自分を恥じた。
「しかし、それにしても」
呆れたような感心したような顔で、亀森は五十坂を見つめている。
「良かったのかな、フリーライターがこうも何から何まで話してしまって。たずねた私が言うのもなんだが、特ダネを報じるチャンスを失ったんじゃないかね」
五十坂はまったくその通りだよ、との思いを素直に表情に浮かべながらこう答えた。
「厄介な事件に巻き込まれたときは、とにかく容疑者とか参考人とかいう立場から一刻も早く抜け出しませんとね。警察相手に手持ちの情報惜しさでごまかそうなんてすれば、必ず自分の首を閉めることになる。これもライフハックってヤツですよ」
この言葉がどこまで本心なのかはわからない。とは言え亀森の立場からすれば、ありがたいライフハックではある。
と、ちょうどそのとき。鶴樹のポケットが振動した。
「失礼」
取り出したのはスマホではなく衛星電話、鶴樹の眉が寄った。日和義人と八科祥子の身柄確保のために総合医療センターへと向かわせたT県警の人員には、衛星電話を持って行くよう命じてある。この秋嶺山荘は携帯電話の圏外だからだ。その衛星電話を通じて鶴樹に連絡が入ったということは。
「もしもし鶴樹だ。何があった」
やや早口の問いかけに、電話の向こうは何と告げたのだろうか。鶴樹警部補の顔面は音を立てるかのように一瞬で蒼白になった。宙を泳ぐ目が亀森警部に向けられる。
「……日和義人が病院内で刺殺されました」
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