第3話 日和義人

 また哀れな獲物がやって来た。


――古来よりのパワースポットで、大地のエネルギーを直に浴びましょう


 そんな宣伝文句に釣られた悩める親が、病気や障碍を持つ子どもを連れて来るのだ。おぼれる者はわらをもつかむと言うが、ここは本当にろくでもない藁だと思う。


 パワースポットなどという言葉に定義はないし、大地のエネルギーがいったい何なのかは誰も知らない。ましてそれで病気や障碍が治ったり改善したりするなどとはどこにも書かれていないのだ、当然、誰かが効果効能を保証してくれる訳でもない。


 それでも我が子に「普通ではない」と烙印を押されてしまった親は、苦しみの果てに、万が一の奇跡が起こることに賭けてこの秋嶺山荘へやって来る。多額の寄付金をたずさえて。


 山荘の門から入ってきた銀色のセダンは、線も引かれていない草だらけの駐車スペース――奥の方には刑事たちの乗って来たワンボックスがある――に停まった。まず後部座席のドアが開いて父親と娘らしき姿が降り、一拍遅れて運転席のドアが開くとグレーのスーツの男が降りて来る。この男がフリーライターだろうか。離れていても漂ってくるタバコの匂い。


「式村様でしょうか」


 親子連れの方に先に声をかければ、真面目そうだが気弱そうな父親は探るような目でうなずいた。


「あ、はい」


「秋嶺山荘支配人の八科と申します。このたびは遠路はるばるお越しいただき、ありがとうございます」


 こちらが頭を下げるのを見て、相手も慌てて頭を下げた。


「こちらこそ、どうぞよろしくお願いします」


 そんな父親の隣で、風に手折られそうなほど痩せ細った少女は不審を目に浮かべて立ち尽くしている。


「沙良、おまえからもお願いしなさい」


 しかし娘は、そう促されても頑として頭を下げようとしない。体は弱っていても意志の力はまだ残っているのだろう、結構なことだ。私は車にもたれかかっているフリーライターに目を向けた。


「五十坂様、でよろしいでしょうか」


「ええ、五十坂です。五十坂孝雄、よろしく」


「当山荘を取材いただけると聞いております。オーナーの日和からも協力するようにと言い付かっておりますので、気になることがございましたら何なりとおたずねください」


「そりゃ助かります。日和さんにはお礼を言わないと」


「いえ、それには及びません」


 そして再び式村親子に目をやった。


「日和はいま、他の子どもさんを預かるかどうかで保護者の方と面談しております。そちらが終わり次第、式村様ともお話させていただくことになるでしょう。その際には内線電話で連絡差し上げるので、それまでしばらくは館内を見学でもしてお待ちください」


 すると五十坂が身を乗り出す。


「ああ、そりゃいいですな。私も館内見学に同行させてもらえませんか。取材をそこから始めるのもいいかも知れない」


 いかにも能天気で軽佻浮薄な感じだが、どこか油断ならない。根拠はない。けれど信用はするなと直感が警鐘を鳴らしている。


「承りました、日和の方には私から伝えますので、どうぞ館内をご自由に取材なさってください。ただ、子どもたちにプライバシーがあることはご理解ください」


「ええ、そりゃもう」


 五十坂は笑顔を返してきた。素直に受け取れない絶妙な笑顔を。


 鶴樹警部補は離れた位置から、そんな私たちを黙って見つめている。




「先日は当方にお越しいただいた際、あんな事件に巻き込まれるなどとは思いもよらず、本当に申し訳ございませんでした」


「いえいえ、それはあなたに謝っていただくことではありません。さ、頭を上げてください」


 秋嶺山荘のオーナーにそう言われて、狭庭さにわ真一郎しんいちろうは恐る恐る頭を上げた。四角い顔に真っ白い髪。綺麗に白いヒゲを整えた顔に刻まれた皺は、人生の年季を感じさせる。


 先般「大地の輪 子ども健康道場」について問い合わせのメールを送ったところ、後日オーナーである日和義人自身が直々に狭庭家を訪れ、施設の運営理念や概要を説明したのだ。


 そして説明が終わり帰ろうとした日和が道路に出たとき、たまたま逃亡中の殺人容疑者、唐島源治と遭遇してしまった。現場に狭庭ら家族が見送りに出ていなければ、日和はその場で殺された可能性もある。不幸中の幸いと言っていいのだろうか。運がいいのか悪いのかよくわからない話である。


 その日和の元に狭庭は今日、孫娘の夕里江を連れてやって来た。中学生にもなって吃音で苦しんでいる孫娘を、どうにかできないかと考えたからだ。


「どうか、どうか孫を治してやってください」


 そう言ってまた頭を下げる。


 日和義人は、六十を過ぎているとは思えない若々しい顔に、少々の困惑を浮かべて微笑みかけた。


「法律は狭庭さんがお詳しいですから釈迦に説法でしょうが、厚生労働省の承認も得ずに治療効果をうたう訳には行きませんでね。だから治すなどとは口が裂けても言えんのです。ただ、子どもの体は大人のそれより柔軟で成長が速い。その肉体を、パワースポットの大地のエネルギーを直に浴びることのできるこの山荘に置いたなら、ときとして劇的な変化があるかも知れない。私に言えるのはそれだけです」


 これはしまった。血の気の引いた青ざめた顔を狭庭真一郎は押さえている。悪気があった訳ではない。確かに狭庭はかつて地検で検事を務めていた法律の専門家だ。だがもう引退して何年も経つ。いつまでも法律家の常識を中心にして暮らしている訳ではなくなっていた。


「失礼しました。確かにおっしゃる通り。これは私の勝手な願望です。期待でも要請でもありません。ただしばらく、この子をここに置いていただければ」


「ええ、それにつきましては問題ありません。お孫さんには当面ここで都会の喧騒を離れ、自然の中でのびのびと健康的な生活をしていただきます。夕里江さんもそれでよろしいかな?」


 祖父の隣に小さく座った狭庭夕里江が不安そうな顔でうなずくのを見て、日和義人は満面の笑みを浮かべた。


 大柄な体に、後ろに撫でつけた黒々とした髪と優しそうな笑顔。尊大さや横柄さも感じられない。良き父性を体現したかのような日和義人には、誰しもが安心感を抱くのだ。そこに本質があるのかはともかく。




「式村様ですね、八科から言付かっております」


 十七、八歳だろうか、すらりとした笑顔のまぶしい少年はケンタと名乗った。それがニックネームなのか、それとも姓を名乗ってはいけない決まりでもあるのかは不明だったが、とにかく彼が山荘内を案内するらしい。


「お荷物お預かりしましょうか」


「いやいや、大丈夫です」


 荷物は自分のバックパックと娘の小さなリュックに二日分の着替えだけ、式村憲明はさすがに遠慮した。


 ケンタは後ろに立つフリーライターにも笑顔を向ける。


「五十坂様、お荷物は?」


「俺も遠慮するよ。これ一つだからな」


 そう言って革のブリーフケースを持ち上げてみせた。ケンタはうなずき、「ではまずお部屋にご案内します」と先に立って歩きかけて、止まった。振り返るその視線は、五十坂の後ろの男に向いている。


「刑事さんも一緒に来るんですか」


 式村憲明の心臓がキュッと縮んだ。カタギのサラリーマンには見えなかったのだが、やはり刑事だったのか、あの男。思わず振り返りそうになったものの、下手に目を合わせるのはマズい。いまはやめておこうと憲明は自分に言い聞かせる。


「私が一緒だと問題あるかね」


 刑事の不満そうな声に、ケンタは少し困ったような表情を浮かべている。


「問題はないですけど、ついて来られるのは何か、ね」


「刑事さんがいるってことは、何か事件でも?」


 そうたずねたのは五十坂の声だ。


「捜査上の秘密なのでね、ご理解いただきたい」


 刑事の声には、ほんのり横柄さが混じっている。五十坂の風体が気に入らないのか、あるいはもしかしたらフリーライターという職業に不信感があるのかも知れないが、いささかセルフコントロールが苦手なタイプなのだろう。


 ケンタは小さく肩をすくめ、今度は黙って歩き出した。




 意外と立派な広さを持ったエレベーターで二階に上がると、敷かれた厚い絨毯を踏みしめつつ、先導するケンタは話し出す。


「こちらが客室階です。四人部屋が二つに二人部屋が三つの五室。今日は珍しく満室になっています」


 廊下の向かって右側にはドアが五つ並び、向かって左の壁面は下広がりに斜めになっている。おかげで天井は高いのに、少し圧迫感を覚える。


「天井はあるんだな」


 そうつぶやいたのは五十坂か。ケンタは不思議そうな顔で振り返ったが、首を傾げただけでまた前を向いた。


「二〇一号室は別のお客様がご利用中です。二〇二号室は式村様、二〇三号室は五十坂様のお部屋になります」


 ケンタは二〇二号室のドアをカードキーで開錠すると、押し開けて部屋の照明を点け、カードキーを式村憲明に手渡した。


「どうぞ」


 部屋の中に入れば、そこは見慣れたビジネスホテルの風景。右手にクローゼット、左手にトイレとユニットバス、奥に進めばベッドが二つ並んでいる。ただビジネスホテルと違うのは、窓がない。真正面奥は壁に覆われていて、少なからず息苦しさを感じた。


 クローゼットの中に荷物を置いて憲明と沙良が出てくると、隣の二〇三号室からはほぼ同時に、五十坂が姿を現した。


「ここネットは使えるのかな」


 ケンタは笑顔でうなずく。


「はい、WiーFiが使えます。携帯電話は残念ながら圏外ですけど」


「いやいや、それで十分。さすがに陸の孤島はキツイからね」


 その言い草は少し失礼だろうと式村憲明は思わないでもなかったが、ケンタは特に気分を害した様子もない。


「では一階に戻って施設をご案内します。階段を使いましょう。もし万が一、何か災害などが起こった際、避難するときにはこちらの階段を使用してください」


 ケンタの誘導に従ってエレベーターとは反対側に廊下を歩いて行くと、真正面突き当りの階段手前の壁に、部屋番号がないドアがある。


「あの部屋は?」


「ああ、防災監視室です」


「なるほど」


 五十坂とケンタのそんな会話を聞きながら、一同は階段を下った。すると途中の踊り場に、壁に向かって立つ少年が一人。


 薄汚れたスタジャンにジーンズ姿、髪型は素人がカットしたのか襟足がガタガタだ。ケンタはまるでそこに誰もいないかのように通り過ぎようとしたが、式村沙良が立ち止まってその少年を見つめている。他の面々の足も止まらざるを得ない。


 それに気付いたケンタは、ちょっと苦笑じみた表情を浮かべて振り返った。


「彼はジロー。ここの仲間です」


 ケンタがそう言った直後、ジローと呼ばれた少年はクルリと振り返った。式村憲明は思わず息を呑む。


 歳は十四、五歳だろうか、まるで人形のように整った顔、磁器のようになめらかな白い肌、そして水晶のように透き通った大きな瞳。そのハッとするほど美しい顔に苦笑じみた表情を、そう、ケンタと同じ表情を浮かべてジローはこう言った。


「彼はジロー、ここの仲間です」


 同じ口調、同じ抑揚で、ケンタの言葉を丸々コピーしたかのように真似しているのだ。ケンタは式村たちにうなずいた。


「こういう、まあ病気というか何と言うのか」


 すかさずジローもうなずく。


「こういう、まあ病気というか何と言うのか」


「本人に悪意はないんです、気にしないでください」


「本人に悪意はないんです、気にしないでください」


 なるほど、ここに預けられるのも納得できる。天は二物を与えずとは言うが、人間集団の中で生きる上で、このハンディキャップは非常に大きいだろう。式村憲明は他人に同情できる立場ではないものの、これは本人も周囲の人間も大変だなとしか思えなかった。


「彼は君の真似しかしないのかい」


 五十坂のその質問は、いささか無神経に過ぎた気がしたが、周りが非難めいた目を向ける必要はなかった。


「彼は君の真似しかしないのかい」


 ジローの発した言葉は五十坂のそれそのまま。つまりケンタが答えるまでもない。五十坂は小さな笑みを浮かべてうなずく。


「へえ、了解。よくわかった」


「へえ、了解。よくわかった」


 もう十分だろう、ケンタの無言の笑顔にはそんな思いが見えた。沙良もジローから目をそらし、歩き始める。一同はジローをそこに残してまた階段を下りて行った。

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