第2話 秋嶺山荘
自分の父親ほどの年齢の運転手が困り果てているのを見て、
憲明は腕力になどまったく自信がない。おそらくこの老運転手も同じだろう。車体を持ち上げるなど絶望的である。つまりロードサービスを呼ぶしかないのだが、その時間先方を待たせるのは非常に心苦しい。何とかできないのかと怒鳴りたい気持ちを抑えてため息をついていると。
クネクネと曲がりくねる一本道の林道の向こうから、銀色のセダンが走って来るのが見えた。目的地とは逆の方角、ということはこのセダンもあの「
セダンは少し古い、型落ちのクラウン。こちらに気付いたのか速度を落とし、路肩に停止する。
「落輪ですか」
窓を下ろすなり声をかけてきた三十がらみの男は、ボサボサの髪の隙間からのぞく鋭い目でタクシーを見据えた。車内からはムッとするタバコの強烈な匂い。しかし憲明はそれを顔に出すことなく、自分より三つ四つは若いだろうその男に微笑みかけた。
「申し訳ないんですが、手伝ってもらえないでしょうか」
だが男の返事はそっけない。
「時間の無駄ですよ。俺は腕っぷしには自信がなくてね。ロードサービスを呼んだ方がはるかに早い」
やはりそうか。想定の範囲内とは言え、がっくりと肩を落とす式村憲明に、クラウンの男はこうたずねた。
「おたくも行先は秋嶺山荘ですか」
「ええ、まあ娘と二人で」
「だったら後ろに乗るといい。俺が送って行きますよ」
憲明の顔がぱっと明るくなる。本心を言えばそれを頼みたかったのだが、どう言えば不審がらずに乗せてくれるだろうかと気を揉んでいたのだ。
「それは大変にありがたい。本当にいいんですか」
「ちょっとヤニ臭いですがね、そこさえ我慢してもらえるなら」
「いえいえ、是非お願いします。
タクシーの後部座席から降りてきた少女は、十二、三歳だろうか、風に折れそうな細い身体に青白い顔を乗せて、危なっかしい足取りでゆっくりクラウンに近づいてきた。そして悲しげな目を伏せると頭を下げる。
「よろしくお願いします」
その顔には旅行に向かう家族の楽しさなど
式村沙良は男を見上げた。しかし、ビックリするほど大柄ではない。中肉中背といったところか。グレーのスーツに黒のネクタイ、極めて没個性的。特徴のないのが特徴とも言える。
男はクラウンの後部ドアを開き、少女を誘った。
「さあどうぞ、お嬢様」
沙良は笑顔も見せずに黙って座席につく。と、その目の前に、男は指に挟んだ名刺を差し出した。角の部分がヨレヨレになっているそれにはこう書かれてある。
――フリーライター 五十坂孝雄
「旅は道連れって言うしな。短い旅だがよろしく」
名刺を手渡し振り返れば、父親の憲明はタクシーの清算を済ませたところだった。
「
林道を走るクラウンの中で、式村沙良の発した言葉が五十坂の関心を引いた。紗良は表情も変えず、静かに言葉を続ける。
「この地方には昔、夜叉姫が住んでいた伝説があるらしいんです。村人を神隠しにしたとか、旅人を襲って食べてしまったとか。最後は都から来た武将に討伐されるっていうありがちな物語ですけど」
運転席の五十坂がふっと笑った。
「確かにありがちな話だ。話の筋は
「それは有名な話なんですか」
紗良が思わず食いついた。父親の式村憲明は目を丸くしている。自分の娘にこんな積極性があるとは今日まで知らなかったのだ。彼の知る紗良は、いつもベッドで天井を静かに見つめているだけの少女だったから。
五十坂はルームミラーで後ろをチラリとのぞいて笑みを浮かべた。
「能の演目に『紅葉狩』ってのがあってな。平安時代に都で初代清和源氏の源
「何だか玉藻の前に似てますね」
「九尾の狐か。まあおそらく物語の筋立ては、もっと古い時代からあったんだろう。源流は同じじゃないかね」
「じゃあ、この地方の夜叉姫伝説も」
紗良の問いに、五十坂は正面を向きながらうなずく。
「流れとしちゃそうだろうな。ただ、夜叉ってのは元々インドの神話に出てくる種族の名前だ。向こうじゃ角は生えてない。それが仏教の説話に混じって日本にまで伝来し、鬼の一種として庶民にまで伝わるのには相応の時間がかかったはずだろ。つまり夜叉が登場するってことは、その伝説は比較的新しい時代の創作なんじゃないかと思うがね」
そのとき紗良の顔に浮かんでいた表情を言い表すなら、感嘆。これもまた父親の知らない顔だった。嫉妬というほどでもなかったのだろうが、自分も会話に参加したくなった式村憲明は、ついこんな意味もないことを口にしてしまう。
「随分とお詳しいんですね」
「いや、詳しくはない」
五十坂はそう言い切った。
「俺はただ、オカルトってヤツが死ぬほど嫌いなだけでね」
「はあ」
いまいち意味はわからなかったが、憲明にも一つだけ確実にわかったことがある。会話は終了してしまったということだ。
クラウンのフロントウインドウの先に、目的地が見えてきた。いや、見えてはいない。
秋嶺山荘は見えない山荘。元は
外側から建物の外観を確認することはできない。何故ならこの山荘は、山の斜面をえぐってから元の形に合わせた鉄筋コンクリートの建物、すなわち横から見ると直角三角形の建物を建設し、その上から元通り土をかぶせて木を植えているのだから。
近くに寄ってまじまじと見つめれば、木々の間の地面に縦長の明かり取り用の細長い窓を見つけることができるだろう。だが、ほんの十メートルも下がればもうただの山の斜面。口さがない地元の住民などは、秋嶺山荘というより幽霊山荘だと噂している。
とは言っても林道を道なりに走った突き当り、行き止まりにこの山荘がある。隣接する民家や施設はない。五十メートルほど離れた場所に、さほど高さのない滝があり、その脇に炭焼き小屋がポツンと建っているのが一番近い人間の生活の痕跡。ちなみに最寄りのコンビニは山を一つ越えた向こうだ。したがって近隣住民との接触はほとんど生じない。故に大きなトラブルを抱えたという話は聞こえて来なかった。
秋嶺山荘はホテル業を営んでいるが、近くに観光地もないこんな場所を訪れる者は少ない。それでも経営が成り立っているのは、別の「売り」があるから。それが「大地の輪 子ども健康道場」である。
山荘内部は二階建てで、客室は二階の五部屋だけ。一階部分は大半が子ども健康道場のために使われている。ここでは預けられている子どもたちが、日がな一日体操をしたり芸術作品を作ったりしながら時を過ごす。
無論、健康道場に来ているのだから、その子どもたちには「健康」とは言い難い部分がある。つまり病気や障碍を持っているのだ。
やっていることをザックリ見れば、いわゆる障碍者福祉施設とそう大きくは変わらない。だが秋嶺山荘は障碍者福祉施設ではない。
公的に認められた施設であれば自治体の認可を得て支援も受けられるものの、反面、法律や条例などで厳しく活動内容が制限される。これを嫌った日和義人は障碍者福祉施設としての認可を取らず、あくまで私塾として子ども健康道場を開いた。秋嶺山荘では塾生の年長組を山荘の住み込みアルバイトとして雇用している。認可施設では難しい対応だろう。
もちろん、秋嶺山荘の従業員が全員子どもであるはずはない。責任者は成人だ。山荘の支配人は
激しい希死念慮に取り憑かれ、自殺未遂を繰り返していた彼女がここに預けられたのは十五歳のとき。その二年後には年長塾生としてスタッフ採用されている。彼女と同期、および先輩の塾生はもう他に誰も居ない。彼女はこの秋嶺山荘の実質的ナンバー2として君臨しているのだ。
そんな八科祥子が秋嶺山荘の入り口門の近くに立っている。気の強そうな眼と短い髪、黒いブラウスにロングスカート。声をかけるのもはばかられる雰囲気だが、そのとき山荘の玄関から出て来た線の細い神経質そうな男は、構わず声をかけた。雰囲気など気にしていては警察の仕事はできないのだから。
「八科さん、こんなところでお仕事ですか」
鶴樹警部補の声に驚いた様子もなく、八科祥子は半身で振り返る。
「今日はあと二組お越しになる予定です。どうやら遅れているようですけど」
「のんびりした話ですな。オーナーが殺人鬼に狙われているかも知れないというのに」
「それは警察の皆さんがいらっしゃるのですから、安心しております」
八科祥子は微笑んだが、慈母の如きというよりは不敵な笑みにも見える。実際、鶴樹はやや鼻白んだ。
「安心されては困るのです。当面は万全の注意態勢をですな」
「あ、来られたようですね」
山荘に至る一本道の林道、その大きなカーブの向こう側から銀色のセダンが姿を見せた。
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