切り捨てられた世界で

柚緒駆

第1話 シガーカフェ わかば

 三角形の闇の奥、誰もいないはずの暗い場所からノートPCの光が漏れている。


「やあみんな、元気だったかな。ピロロ三世だよ。今日は本題に入る前に、みんなにお願いがあるんだ。教えてもらいたいことがあってさ。だいたい二十年前。二十年ほど前のこと、覚えてる人いるかな。N県の県庁所在地で真昼間、女子高生が通り魔に刺し殺された事件があったんだけど、その事件の担当した検事っていま何してるのか調べててね。何か情報がある人はコメントくれると助かる。さて前置きはこれくらいにして、今回のターゲットはT県警。ニュースで知ってる人もいるだろうけど、また現行犯で捕まえた犯人を留置場から逃がしたらしい。これは僕たち無辜むこの市民が怒りの声を上げなきゃいけないよね……」


 小さくはあったものの、滔々とうとうと流れるように語っていた声がふいに止んだ。ノートPCを閉じる音。三角形の暗闇の中は静寂が支配した。そこにかすかな音が聞こえる。規則的なその柔らかい音は、おそらく厚手のスリッパを履いた足音。それがこの三角形の暗闇にまで、階段を上って来るのだ。


 背の低い扉が開き、下からの逆光に照らされた大柄な人影が一つ、三角形の闇に侵入した。いや、正しくは一人ではない。大柄な影の背に、小柄な別の人影が背負われている。しかし背中の小さな影には力感がなく、ピクリとも動かなかった。


 ついさっきまでノートPCを開いていた声は口を完全につぐみ、吐息すら漏らさない。大柄な人影はまるっきりそちらに気付いていないようで、ひたすらに斜めになった壁を探っていた。やがて何かを見つけたのだろう、ガチャガチャと音を立てたかと思うと、暗闇の壁が内側に開く。うっすらと差し込むのは月光。大柄な影は小柄な影を背負ったまま月光に身を浸し、そこから外へと出て行った。


 おそらく大柄な影はじきに戻って来るはずだ。もちろん一人で。それまではこの三角形の暗闇の中で、じっと息をひそめていなければならない。焦って見つかるような間抜けな真似はゴメンだからだ。


 想像していた通り、大柄な影は五分とせずに一人で戻ってきた。そして月光差し込む出口を閉ざし、背の低い扉から階段をまた下りて行く。再び三角形の暗闇の中に戻る静寂。しかし、ふっと笑った気配があった。


「編集箇所が増えてしまった」


 そんなつぶやきと共に。




 T県警から逃亡した殺人事件の容疑者は、三週間経ってもまだ足取りがつかめていなかった。正確に言えば逃亡一週間後にどこにいたのか、そして二週間後にどこにいたのかは確定している。けれど、それ以外が闇の中に消えているのだ。


 一週間後には間違いなくT県内にいた。何故そう言い切れるか。この容疑者、唐島からしま源治げんじの起こした殺人事件の目撃者がT県内で殺害されたからだ。


 警察も手を抜いていた訳ではない。そもそも唐島と目撃者とは知人関係にないのだ、住んでいる場所だって知らないはずだし、まさか自宅で刺殺されるなどとは誰も考えていなかった。しかしおそらく唐島は警察の動きをどこかで観察していたのだろう、いうなれば裏をかかれたのである。


 これは全国ニュースのトップで報じられるほどの大失態。ことにT県警が留置場から容疑者を逃走させたのは今年二回目ということもあり、国家公安委員会と警察庁からはT県警に極めて厳しい言葉が下された。これによりT県警の本部長は事実上、今後の出世の道が絶たれたと考えてもいい。彼の怒りは天をかんが如しであった。


「唐島源治を逮捕しろ! 何としてもだ!」


 唐島が目撃者を殺した後、さらに一週間経った頃に、県内の別の場所で別の人物に目撃されている。N県在住のその男性が、次に唐島に狙われると考えることに、無理も不自然さもないだろう。


 T県警はN県警の協力を仰ぎながら、警護要員を派遣した。鶴樹つるぎ警部補以下五名はN県在住の男性、日和ひわ義人よしとの住居兼職場である「秋嶺しゅうれい山荘」へと張り付いたのだった。




 そこは「シガーカフェ わかば」。その名の通り、喫煙者にのみ入店が許された、いまや数少なくなったタバコ飲みのための駆け込み寺的カフェであった。


 しかしいまは午前9時で開店した直後、前の道路にゾロゾロと行列を作って並ぶような店ではないし、客席の埋まり具合はポツリポツリ。薄暗い店内に漂う紫煙は、まだ雲を形成していない。


 店の黒い木製のドアが静かに開いた。新たな客の来店である。


 入ってきたのはグレーのスーツに黒ネクタイで体格は中肉中背、ボサボサの頭と無精ヒゲがかろうじて最低限の個性を主張しているものの、どこにでも居そうな没個性的な男。ただここまで没個性的だと、個性のないのが個性だとも言えそうな、ある種のインパクトはあった。


 男は店内のボックス席になど目もくれず、まっすぐカウンター席にやって来る。腰掛けてタバコを咥え、ライターで火を点けて一口ふかすと、カウンターの中のマスターに向かってこう言った。


「ブレンド」


 オリジナルブレンドのコーヒーをホットで。それはいつも必ず口にする注文。ただ今日は少し様子が違うようだ。


「あとサンドイッチもくれ」


 カウンターの中でフランネルのフィルターを手にしたマスターは、白いヒゲに覆われた口元を少し緩めた。


「どうしたのですか、今日は豪勢ですね、ミスターファイブ」


「その呼び方はやめろって言ってんだろ。俺まで変なヤツだと思われたらどうするよ」


 そうは言いながらも、男の顔には余裕がある。それを見てマスターは、赤いベストと蝶ネクタイを輝かせながら、軽やかなステップを踏むように食パンを重ねて耳を落とした。


「見たところ、何かいいことがありましたね」


 トマトをスライスし、ちぎったレタスをギュッと押す。


 男はそれを眺めながらニッと笑った。


「いいことは何もないが、これからあるかも知れん。前々から取り組んでた仕事が、ようやく実を結びそうな感じでな」


 少し厚手のハムをパンに乗せ、砕いたゆで卵とマヨネーズを合わせたペーストをたっぷり塗り重ねる。そしてすべてを合わせてパンを対角線に切れば、わかば特製のサンドイッチの出来上がりだ。


「はい、お待ちどおさま」


 白い皿に乗ったサンドイッチをカウンターに置くと、マスターは一仕事終えた感を出しながら、ふうとため息をついた。


「今度の仕事は儲かるといいですね」


 男は小さく笑みを浮かべながら、サンドイッチを手に取り口に運んでかぶりつく。極めて素朴な味わいだが、それで十分と思わせる説得力があった。


「今度の仕事が上手く行きゃ、そりゃあ結構な儲けになる。もっとも、上手く行きゃの話だ。失敗する可能性は常に頭に入れとかないとな」


「おやおや、随分と弱気ですね」


「リスクマネジメントだよ。勝つことを前提で行動することと、負けたときの想定を立てておくことは両立するんだ。いま現在の時点での俺がそうだろ。『腹が減っては戦はできぬ』、勝つつもりだからサンドイッチを食ってる。負けるのを怖がってたら飯なんて食えねえさ」


「ホウホウ、随分もっともらしいことをおっしゃる」


 顔には微笑みをたたえながら、マスターはろくに話を聞いていないようだ。まあ、このマスターはいつものことなので、男は腹を立てたりしないのだが。


 男は胸のポケットから名刺を一枚取り出した。隅が少しヨレヨレになった名刺を。そこにはこう書かれてある。


――フリーライター 五十坂いそざか孝雄たかお


「頑張ってくれよ、五十坂さん」


 男はそう小さくつぶやいて名刺を胸に戻し、残ったサンドイッチを全部口に詰め込むと、少し冷めたコーヒーを一気に飲み干してしまった。


「さあ、勝負だ。行って来るか」

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