2 逃亡者達の味方
「じんの。じんの」
白衣を纏った青年は、名前を呼ぶ少女の頭を撫でる。その傍ら、空いている方の手で何やらタブレット画面を見つめている。
全くこちらを見ない相手に少女は一度首を傾げて、口を閉じた。そして頭を撫でてくれていた大きさの違う手を両手でそっと掴むと、あーんと口を開けその手首に齧り付こうとしたところで。
「待て。食うな」
ようやく青年——仁野が少女の方を向き、可愛らしい顔面を容赦なく掴んだ。さながら犬に躾をする時のような声色で。
待てをされた少女、アムリタは痛いと声を上げることもなく、すんなりと開けていた口を閉じ、齧り付くのをやめた。そこでようやく二人の目が合う。
「だめ? だめ? おなか、すいた」
「駄目だ。俺はお前の食糧じゃない。研究ができないのは困る」
「じんの、こまるの。こまる?」
「ああ。良くない」
アムリタは同じ単語を二度繰り返す事が癖になっているらしい。
タブレットにペンタブでそう記入しながら、仁野は内線で彼女用の食事を用意するように伝える。
本人は食欲を満たす為の行為であると思っている食事も、仁野にとっては研究の一部である。
彼女は『暴食』。
能力は未知数。どこまで許容できるのか。どこからは許容外なのか。暴走はあるのか。安定させる手立てはあるのか。……人類にとって、『暴食』は有用なのか。
全てを見極める必要がある。その為の研究。その為の仁野玲那のこれまでの人生。その為の、トウトイギセイ。
仁野は研究員でアムリタは能力者。研究所にいた時は、ただそれだけの関係だったというのに。
未来というものは分からないらしい。
「……おい。食うな」
「おふぁおう、ひんふお」
仁野が微睡から目を覚ますと彼の腕を服の上から甘噛みする少女、アムリタの姿があった。何を言っているのか一瞬分からなかったが、すぐに『おはよう』と言っているのだと理解できてしまう程には彼女との付き合いも長くなったらしい。仁野は軽く息を吐いて、噛まれていない方の腕でアムリタの頭を撫でる。撫でられたアムリタは特に気にした様子もなく首を傾げているが、仁野が特に何を言わないのを良いことにまた甘噛みを再開させた。
本当に、何がどうなるのか分からないものだ。
研修者と実験体。ただそれだけの関係で、深入りするつもりはなかった。仁野は今もそう言える。だが、他の実験体と目の前のアムリタを比べた時にどちらを優先するのか? と問われると当然こちらのアムリタだと即答してしまうだろう。なんせ自分の研究の成果が彼女である。……まだ完成形ではないが。自分の研究とはつまり、自分の人生のすべてであると仁野は確信している。人生のすべて。他の事は大抵が些事。絆される程に仁野は誰かに好かれる性格ではないことを理解していたので、本当に彼女の事は実験体としてしか見ていなかった。研究中は特にそうだ。決して口には出せないような非人道的な扱いをしてきた自覚はある。けれど何がどうなって、誰がどう見ても分かるほどに懐かれてしまっているのか。どうして自分は彼女に小指を食わせたのか。……まあ、この点については自分でも理由ははっきりと理解しているので追求しないでおこう。
「どのくらい寝ていた」
「んー……? じんのがおこしてね、っていったのよりすごーくはやいよ」
「そうか」
アムリタの言葉から時間を想定する。大体10分程度だろう。起こせと彼女に仁野が告げたのは30分後である。時計がないこの部屋では、そうするしかない。窓の外はまだ明るい。仁野の腕の中にいるアムリタは退く気配が一切ない。それを仁野も特に何とも思わず、ぼんやりとしたいようにさせていた。
今、目を閉じてしまったら確実に寝入ってしまう。
それは良くない。せめて最低限の安全を確保しなくては寝られない。アムリタはそうでもないだろうが、仁野が眠れないのだ。
「出かける」
「ついてく? いい? だめ?」
「……あー……今日の宿を確保しにいくからな」
「まじまくん、あえる?」
”宿”といった瞬間、アムリタの表情がキラキラと輝いた。思わず仁野の表情が僅かに引きつったが、一つ頷きを返す。
「あいつらに会うために此処に来たんだよ」
「じゃあついてくー!! あいこちゃんとあそぶ!」
既に決定事項らしい言葉に拒絶を示すこともなく、好きにさせることにした。
この街にくるのはもう何度目か分からない。逃亡生活を始めてから、何度も同じ街を訪れるのは良くないのかもしれない。けれど、此処は港が傍にあるため人の出入りが頻繁だ。そして贔屓にしている何でも屋があるせいか。困った時、ほとぼりを冷ましたい時などはこの街を利用するようにしていた。そして、この街は訳ありの人間が多い。自分が生きていくことに精いっぱいで他者の事を気に掛ける余裕がない者が多い。その点も有難かった。
空き家をひっそりと後にした仁野とアムリタが向かった先は、港のすぐ近く。一本裏に入った路地に、それはあった。
「あいこちゃん、あーそーぼ!!」
カラン、と可愛らしいベルの音をさせながらアムリタが声を上げる。その後ろから仁野がついて店に見えない、一見普通の民家に見える店に入店した。もちろん、店内にいた人間の目は突然やってきた小さな台風に注がれるわけで。
「あら~~~!! 久しぶりねえ! イラッシャイマセ!!」
高めのピンヒールをカツカツと鳴らしながらアムリタの前にしゃがんだ『あいこちゃん』と呼ばれた男は笑顔を浮かべている。仁野はそんな二人の横を通り過ぎ、奥のカウンターでじっとこちらを静観していた背の高い顔色の悪そうな男に声をかけた。
「宿をとりたい」
「はいよ。弾の補充は? メンテナンスしとくか?」
「いや……メンテナンスだけ頼む」
胸元から銃を取り出し、男に預ける。メンテナンス中のスペアだと言わんばかりに別の銃を差し出されたため、それを受け取って仁野は握ってみる。……やはり、違う銃だと多少の違いはあるようで。気付かない内に眉間に皺が寄っていたらしい。見兼ねた男が口を開いた。
「オマエが宿にいる間は使うこともねえよ。安心しとけ」
「『何でも屋』が保証してくれるのか?」
「ああ」
「そりゃ安心だな」
本当はそんなことをこれっぽっちも思っていないが。この『何でも屋』をしている男二人と仁野は、昔からの付き合いがあった。探ればこちらが消される危険があるため深い付き合いはしていないつもりだが、何だかんだと頼りに奴らである。そしてアムリタがなぜか懐いている。女装をしている方は『あいこちゃん』という名前であり、顔色が悪く愛想も悪い方の男は『まじまくん』と言う。くん・ちゃんまでが名前だと言われた時には仁野も何を言っているのか全く分からなかったが、顔色の悪い男がさらに顔色を悪くしながら社長命令だからなと言うのでそれ以上の詮索はしないでおいた。アムリタは躊躇なく呼んでいるが。仁野は頑として呼ぼうとしなかった。
「んじゃ今日の宿のご案内だ」
まじまくんが地図らしきものをカウンターに広げ、トン、と指である一点を指さす。それはこの店の位置を示していた。どこかに問い合わせていたような様子は今のやり取りの中で一切なかったが、宿は既に用意されているらしい。”そういう奴ら”向けのものなのだろう、と察することは簡単だった。
「此処を北へ30m、左へ曲がって南西の方角へ50m。右に曲がって真っ直ぐ400m。二階の204だ。船がよく見える」
「分かった」
そして金貨が入った袋をドンとカウンターに置く。まじまは中を確かめて「まいどあり」とだけ短く答えた。これにて取引終了。後は宿に行って休むだけ。後日メンテナンス終わりの銃を引き取りにくれば良いだろう。ふと仁野がアムリタの方へ目をやれば、あいことあやとりをしていた。アムリタはそんな物を持っていないので、あいこの持ち物なのだろう。
「オマエそんなん持ってたか」
思ったことは同じだったらしい。仁野が口を開くよりも先にまじまがそうそっけなく聞いた。するとアムリタに見せていた優しい表情から般若のようにぐわっと表情を険しく一瞬で変え声を荒げた。
「そうよぉ~!! アムリタちゃんとするために作ったんだから」
「あいこちゃん、やさしい」
「んっふっふ、でしょぉ~!! アムリタちゃんってば分かってる~!!」
まじまの方を向いていた顔をくるりとアムリタの方へ向け勢いよく抱き着いた。女装していても身長は高く体格は良いので、急に抱き着かれたアムリタから呻くような声が聞こえた気がしたが、あいこもまじまも特に気にする素振りはなく、仁野だけが顔を歪めていた。
「騙されてる」
「喧嘩は客がいなくなってからしてくれ」
アムリタの両脇に腕を通しひょいっとその身をあいこから解放してやる。今にも喧嘩に発展しそうなまじまとあいこをそのままに放置し、さっさと店を後にした。
あの二人は気が付けば喧嘩しているし殺し合いにまで発展している事もよくある。巻き込まれてはロクなことにならないと仁野は分かっている。アムリタが後ろからついてくるのを横目で確認してから、先程聞いた通りの道を歩いていく。
「まじまくんとおしゃべり、できなかった」
心なしかしょんぼりしているようにも見えるアムリタの言葉を、仁野は聞かなかったことにした。
そんなに話すことが何があるのだろうか。あの男たちは確かに頼りになるが、本業があることも知っている。深入りしても良い事にはならない。利用は計画的に、とはまじまの口癖である。深入りしてもお互いに良いことはないぞと暗に言っているのだ。
仁野はアムリタに”まじまに幼女趣味はないぞ”と言ってやるべきか否か、少しだけ悩んだ。
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