大罪人は誰だ?
原 みりん
『暴食』
1 逃亡者達の日常
もうどのくらい離れたのか。今も追手は向けられているのか。はたまた追手の手が気付かないほどまで近付いているのか。幾度となく、形を変えて言葉に出来ない不安は常にある。だが仁野(じんの)は一人ではなかった。この頭が狂いそうになるほどの逃亡劇を始めることになったきっかけでもあるが、不本意ながら精神面で救われている部分もある。それはきっと、お互いにそうなのだろうけれど。
「リタ。……アムリタ」
仁野が買い物から帰った時、少女は一人部屋の中央に座り、べたりと両足を伸ばしてベッドにもたれかかりぬいぐるみの腕を齧っていた。
当然、中からは綿が飛び出てくるわけだが。アムリタ、と名前を呼ばれた少女は仁野の帰宅に無防備に頰を緩めながら駆け寄るが、その口内はぬいぐるみの綿でいっぱいになりもごもごと言語になっていない声が聞こえた。普通の人間なら、すぐに口から綿を吐き出させようとするだろう。そんな物は食べてはいけない、食べ物ではないのだから、と。
しかしアムリタの場合はそうではない。彼女は食べ物でない物であっても食べてしまうのだ。
「おかえりなさい、じんの!!」
ようやく口内の綿を全て飲み込めたらしいアムリタが笑顔で仁野に抱き付く。その頭をがしがしと荒っぽく撫でながら、仁野は片腕がなくなり部屋の床に放り出された状態のぬいぐるみに何とも言い難い視線を向けた。
「お前ソレ昨日どっかのガキに貰ってた熊だろうが」
「だれ? しらない。おいしいよ」
この街に滞在し始めて三週間。ありとあらゆらゆる情報を得るため、旅の者として街の人間と多少なりとも接触をしていたがそろそろ移動を考えた方が良さそうだ。
いつの間にかぬいぐるみを拾い上げて無事な方の腕を、むいっむいっと仁野の唇に押し付けてくるアムリタ。その手からぬいぐるみを取り上げて、燃える暖炉の中へシュート。
火の勢いが増したのを見て、仁野は少女の方へ向き直った。
「暖炉の火が消えたら次へ行くぞ」
「じんの、ごはんは?」
「食ったよ」
「それでおいしそうなにおいがするの!」
荷物の整理を始めた背中に張り付くアムリタを無視して、仁野は窓の外へ目をやった。一雨来そうだが、雨に紛れての移動はメリットもあるがデメリットも大きい。
仁野の薬指を甘噛みしはじめたアムリタをころんと膝の上に転ばせ、空いている方の手で外を指差した。そうすれば素直に彼女の視線が動き、どうしたのと言わんばかりに首を傾げる。
「腹は減ってるか?」
仁野の問いに、アムリタは満面の笑みで即答した。
「おなか、すいた!!」
そして少女はこの部屋にあったありとあらゆる物を食べ、残されたのは唯一彼女が消化できない金属類のみ。それ以外は彼女の『暴食』を満たすための餌。
食事が終わる頃には暖炉の火も消え、外は小雨が降り始める。そうして、何もない部屋だけが残り二人の人間の存在はまるでこの街に最初からなかったかのように、忽然と消えた。
「あ、あむちゃん!! こっ。こ、ここれ……!!」
あむちゃん。そう呼ばれた少女はきょろきょろと周囲を見渡した後に、あっと口を開け何かに気づいたようで声をかけてきた少年にようやく向き合った。
顔を耳まで赤く染めた少年の手には一つの可愛らしいクマのぬいぐるみが抱えられていた。その首には綺麗に赤いリボンが結われている。
少年は少女……この街では『あむ』と名乗っているアムリタに向けて、ぬいぐるみを差し出していた。
「これ、なあに?」
純粋な問いかけだった。少年の先程の言葉は"これ"で止まっていたからその先を促す意味でもあり、ぬいぐるみを見せられてどうしたいのかという意味を問うものでもあったし、そもそも誰?という問い……は悲しいことにこの場に置いて二の次であった。
「も、もももっ」
「もも? たべたーい!」
もらってください。そう続けるはずだった言葉は少年の口から出るよりも先に少女によってへし折られてしまった。ちょうど最近、桃のアイスを売り始めた店が近くにできたのだ。この街の子どもはみんなそれを知っていて、開いたら食べに行こうねなどと話していた。
一目散に駆け出した少女に呆気をとられつつも、少年は慌ててその小さな背中を追いかける。
「ちがっ、あの、うんっ。桃アイス、一緒にたべる?」
幸いなことに店はすぐ近くだったので二人並んで財布を取り出す。少年の腕の中にいるぬいぐるみがその大きさをこの時ばかりは主張して若干動きにくかったけれど、そんな事を今更口に出せる勇気もなく。ただ隣にいる少女がニコニコしているのを見ることしかできなかった。
「いいよ〜! おこずかいね、じんのにもらったんだ」
「へ、へえ〜!! 良かったね……や、やさしいね……」
少年の脳裏に、一度だけ見た無愛想な大人の姿を思い浮かべる。数秒だけ目があって興味なさげに逸らされたそれが、とても恐ろしく数日夜は寝付けなかったことを彼は覚えている。あれは人に向ける目なのだろうかと、思い出しただけでも恐ろしくなる。けれど目の前の少女はあの男をそれはもうとてもとても、誰よりも慕っているのだ。
それを理解している少年は自分の恐怖心から目を逸らすことにした。些か棒読みな『やさしいね』という言葉だったが、少女は気にした様子もない。それどころか少年の言葉を聞いてピタリと動きを止めて、全ての感情がその顔から一瞬にして消え去った。
「うん。でも、じんの、あげないよ」
明確な強い強い拒絶。
少年は返す言葉をなくし何度か口を開けたり閉じたりした後、唾を飲み込んでからゆっくりと掠れた声を振り絞った。
「……えっ…と、ととらない、よ?」
「そっかあ〜!!」
一瞬にしてその場の空気が変わった。
アムリタはにこにこと先程までの楽しそうな表情に戻り、店先にいた店員にさっさと桃アイスの注文を告げている。
一方の声を振り絞った少年は、ドクドクと早鐘を打つ心臓と滝のように溢れ出る冷や汗に胸を抑えつつ、今にも倒れそうなほど真っ青な顔で何とか呼吸をしていた。
「ねー」
ぽん、と背中に少女の手が触れる。大きく震えてしまったが、この場合少年に非はないだろう。ゆっくりと少年が声の方へ顔を向ければ、そこにはいつも通りの可愛らしい、無邪気な笑顔の少女と目があって。
「桃アイス、たべないの?」
恐怖と好きという感情が少年の中でぐちゃぐちゃに混ぜられて、淡く頬が染まったことだけは自覚していた。
ただ、その後の桃アイスの味も、どうやって当初の目的であったぬいぐるみを渡したのかも、家に帰ってようやく我に返った少年の記憶には一切残っていなかった。
これが、翌日彼女の腹を満たすことになるクマのぬいぐるみの哀れな未来が決まった瞬間であった。
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