赤い虎がいる

おがさわら りえ

赤い虎がいる。

 初冬の夕暮れは早い。恵子は寒い時期の車の運転にドライビンググローブを使うが、ハンドルを握る指先は冷たかった。暖房がなかなか効かず車内は寒い。暗くなる前に帰宅したかったので、近道になる山間の狭い道を走っていた。すでに日は落ちている。交通量の多い道にしておけばよかったと恵子は後悔した。山道沿いの田畑からお年寄りが背中を伸ばしてこちらを見ていた。


 田畑の真ん中に野焼きの煙が立ち上る。農作業の人達も帰り支度の時間なのだろう。日没からまだ数分しかたっていないが、残光が山にさえぎられて、辺りはとっぷりと日が暮れていた。


 助手席の息子のたかしはランドセルを後部座席に放り投げて、ダッシュボードから取り出したゲーム機に噛り付いていた。静かな車内にゲーム機の音声だけが響く。ダウンジャケットのジッパーを引きあげてマフラーの中に顎まで沈み込んでいた。今日は学校を早退して特養にいるおばあちゃんのお見舞いに行った帰りだ。


 今朝、たかしが小学校への登校に玄関を出た直後に電話が鳴った。祖母の様態が急変したとの連絡だった。祖母は心臓が悪く、面会に行っても力なくぼそぼそ話をするだけになっていた。海外赴任中の夫にも連絡したが、すぐには帰国できないという。たかしを迎えに行き、おばあちゃんのお見舞いに連れて行くと先生に伝えて学校を出た。


 新型の疫病が流行っているせいか、祖母が運ばれた病院は市街地から離れた別の街だった。祖母はまだ微熱があったが意識ははっきりとしているそうだ。流行している感染症の陽性反応が出たため、病室に近寄ることは許されなかった。肺炎や血栓症の兆候はないので軽症だが、様子を見ると医師から説明があった。


 「昼過ぎの検査結果で陽性となりました。容体は落ち着いています。わざわざ来ていただいて申し訳ありませんが、面会はできません」と病院はいった。

 「わざわざ学校休んできたのに、おばあちゃんに会えないって、どうなのさ」とたかしは口を尖らせた。しばらく押し問答となったが、入院用のための下着やパジャマ、簡単な日用品をあずけて帰るしかなかった。


 小学校を早退させてまでたかしを連れてくるんじゃなかったと恵子は悔やんだが、後悔先に立たずだ。仕方がない。夕闇に車のヘッドライトがAUTOで点灯した。対向車すらない狭い山間の道だ。その町の氏神様だろうか、少し広い駐車場がある大きな鳥居の神社が傍らに見えた。国内で最も多い八幡神社の分祀だった。生きとし生けるものすべての平安と幸福を願う神様、土着神と誉田別尊(ほんだわけのみこと)、あるいは応神天皇(おうじんてんのう)の祭神が結びついた八幡神の社だ。簡単にいえばたくさんの神様がいる神社ってことになる。古くから日本中で大事にされてきた神社だ。


 「暗くなってきたねー」とたかしに声をかけた。

 ちらっと目をやると彼はゲーム機を膝の上において窓をじっと見ていた。

 

 「母さん、赤い虎がいるね」

 「赤い虎?」

 

 最初は神社の狛犬のことを言っているのかと恵子は思った。だが、赤い狛犬なんて神社にはない。沖縄のシーサーを玄関先に置いている家でもあるのだろうか。


 「どこにいたの?赤い虎」

 「もう通り過ぎたよ。田んぼの横にいた。赤い虎」

 「母さん、驚いてないから、見えてないのかなとおもった。赤い虎、こっち見てたのに、母さん、全然、気づかないんだ」

 「そんなのいなかったよ。やめてよ。そんな見えないものが見えてるようなこと。気持ち悪いでしょ」

 暗い山道はただでさえ不気味だ。山林の隙間に見えてはいけないものが居るような気がする。恵子はヘッドライトが照らしている路面だけまっすぐ見て車を走らせた。


 「たかし、虎は日本にはいない動物だからね。田んぼにいないよ」

 「動物園の虎じゃないよ。さっきいた赤い虎は小さい。」たかしは、両手を中型犬くらいの大きさに広げた。本当の虎はもっと大きい。子供の虎なら小さいのだろうけれど、日本の山の中で虎が繁殖しているはずがない。やはり、シーサーのような置物の話なんだろうなと思った。


 山裾ぎりぎりの田んぼの畔に何かが素早く動くのが見えた。カラスがざわめきながら飛び立った。


 じっと窓を見ていたたかしが何かを見つけたのだろう。再び、「赤い虎だ」嬉しそうにたかしが叫んだ。


 「虎なんていないってばぁ。もう、おかしなこと言わないで」

 異世界モノのアニメを思い出した。たかしは別世界のナニカが見えるのかしらと疑った。


 運転中の恵子はそれほど周囲を注意深く確認できないが、たかしが見つめる先には何も見えない。飛び立ったカラスはまた元の場所に集まってきているようだ。黒い大きな鳥の群れは確認できたが、獣の姿はみえない。


 「お母さんには赤い虎が見えてないの?」

 たかしは、間違いなくカラスが集まるあたりを指さしていた。


 あたりはもうすっかり暗くなった。指さす方向はわずかに点在する街灯が頼りだ。ヘッドライトが照らし出す恵子の進行方向に赤色灯が見えた。土砂崩れのため、数週間前からこの先の道は通行止めになっていると立て看板があった。


 カーナビにもそんな情報はなかった。こんな細い山間のルートの工事は表示されないのか?


 「たかし、この道は通行止め。通れないんだって。母さん、道を選ぶの失敗したね」とあきらめて、車のギアをリアに入れて、方向を変えることにした。


 「母さん、後ろに戻る?」

 「少し戻って、広い道に出たら高速道路使って帰る。遅くなっちゃったし山の道は怖いからね」

 たかしは不安そうに通行止めの標識をみた。


 道の先までずっと赤色灯が点いていた。そういえば一台の対向車も来なかった。道が封鎖されていたからだと気づいた。この近道は利用する人達が一定数いるため、山道なのにトラックなどの大型車もよく通る道だ。いつもと様子が違っていたことに今になって気いた。


 「元の道に戻るの? バックするの?でも、母さん、赤い虎がいるよ」


 たかしがハンドルを握る手にふれた。何か言いたそうなたかしの手を静かに外して、ハンドルを動かした。彼はおびえているように見えた。子供の作り話に付き合っている時間はない。車は何回か切り返しをして元の方向に引き返した。しばらく走れば大通りに戻れる。かなりの時間のロスになるが、通行止めならほかに手はない。


 「母さん、虎がいるんだ」

 「たかし、変な遊びはやめて。母さんもそんな虎がいる気分になってくるじゃない」

 「でも……」

 まだ何か物言いたげなたかしに、ゲーム機を渡した。


 「いいからゲームしてなさい。ちょっと飛ばすよー。急いで家に帰ろう」と恵子は行った。


 引き返して走り始めるとカラスが大騒ぎを始めていた。山裾の田んぼはドライバー側から見える。カラスの群れの騒ぎはさらに手前にも広がってきた。


 たちのぼっていた煙も白い靄のようにたなびき、ひろがって消えそうだ。田んぼの人影も消えた。もう帰ってしまったのだろう。対向車も無い。民家が立ち並ぶ辺りまでにはまだ遠い。


 恵子はゲーム機の音が聞こえてこないことに気づいた。たかしは身をよじって窓にしがみついていた。


 「たかし、どうしたの?」

 「虎がずっと前のほうにいる」

 「どこ?」

 「神社の前」

 

 神社の近くで恵子は気になって速度を落とした。徐行しながら、たかしを見た。

 たかしは恵子の側の窓を指さした。


 「その柵の下にいる」

 たかしが指さす方向には何も見えない。


 「たかし、母さんをだましたね。何もいないじゃない。」と恵子は笑った。

 「いるよ。車を止めて窓の下をみて」とたかしが言った。

 

 田んぼや水路が真っ暗だ。

 

 「暗くてよく見えない」と恵子がドアを開けようとしたが、たかしは飛びついて止めた。

 「ドアを開けちゃダメ。」

 上からのぞき込むんだと、たかしは指を下に向けて、何度も「下。下。下」といった。

 言われるままに恵子は目線を下にむけて、目を凝らした。


 白いイノシシ除けの1mほどの柵と、そこにまかれた白いロープの陰に、赤い虎はいた。田んぼのあぜ道の上で、赤い虎はロープで柵に縛られているようだった。


 その赤い虎をじっくりと確認して恵子はほっと胸をなでおろした。

 その赤い虎は子犬ほどの大きさのビニール風船だった。虎模様をしているが、形は虎というよりも犬に近い。顔も丸みを帯びているが、オオカミや犬に近い長い鼻をもっていた。暗い中でどうにか縞模様が確認できた。

 製作者は虎のつもりで作ったのだろうが、明るいところで見るとその造形が虎に見えるかすら怪しい。


 残念だが、虎のつもりで作ったにしては出来損ないの風船だった。


 「赤い虎だ。たかしのいう通り、赤い虎はいました。ごめんなさい。母さん疑って悪かったわ」恵子はそういって、ケラケラわらった。これまでの薄気味悪さが消えた。


 スズメ除けに猛禽類の風船を田畑に置いているのを見ることはあるが、イノシシ除けの柵に赤い虎。害獣除けのおまじない効果くらいはあるのだろうか?田畑を守るために考えられた苦肉の策なのかもしれない。再びアクセルを踏んで車のスピードをあげた。


 「母さん、早くいこう。僕怖いよ」


 たかしはダッシュボードに手をついて、食い入るように前方に集中していた。

 前方の道沿いに明りのついていない古民家が見えた。廃屋なのだろうか。カラスがその古民家を目指して集まっている。

 どこからこんなにたくさんのカラスが来るのだろう。背後からも山の中からも、カラスが飛んできて車を追い越していった。その真っ暗な古民家の玄関先の電柱や屋根にたくさんのカラスが群れていた。


 民家に向かう細い一本道の先には街灯が見えた。その街灯の下に軽トラックのハイゼットがドアを開けっぱなしで停車していた。恵子はその民家の大きな掃き出しまどが割れていることに気づいた。カーテンがひらひら舞っていた。


 カラスはその車に群がっていた。速度を緩めた。


「何か、カラスのエサでもあるの?」不気味な考えが頭をよぎった。


 車を止めて何が起こっているのか確認しなきゃと思ったが、たかしがぎゅっと腕を握りしめた。


 「母さん、虎がいるよ。ダメだ」

 「だって、たかし。」

 たかしは震えていた。


 「母さん、虎は小さいのだけじゃない。大きなのもいるんだ」

 たかしの目は大きく見開いていた。ここに留まるな。早く行き過ぎるんだという強い意志を彼から感じた。


 「たかしっ!おかしなことを言うんじゃないの!ちょっと黙っていて。」

 「母さん、早く走って!」

 そう、恵子は大声をあげて叱ったが、たかしの声に驚き、車の速度を一気にあげた。


 その古民家の方向から、身の毛のよだつような邪悪な何かがこちらに向かってくるような気配を感じた。叫ばないではいられなかった。


 何かがこちらを見ている。

 暗い夜道に大きな黒い塊がこちらに向かってくるのが見えた。


 「たかし、何? 何が?」

 「母さん、早くいって。追いつかれる」

 確かに車を追いかけて何かが走っていた。バックミラーで恐々みたが、獣のような赤黒いなにかが見えた。恐ろしくて前方だけに集中した。


 「たかし、たかし、虎はいる?まだいる?」

 「母さん、逃げてっ!」


 恵子はアクセルを踏んだ。一刻も早くこの道から抜け出さなければ危険だ。心臓が激しく胸を打ち付けて息が苦しい。彼女はハンドルにしがみついて走った。


 おわり

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