第16話 楽しい運動
硬くて重いボールを床に叩きつける。重みのある音を連れて、ゼッケンを着用した上級生の間をかいくぐる。
前方に見える輪っかを見据えて跳躍した。焦げ茶色の球体を放物線上に放り、口を引き結んでその行く末を見守る。
短い、されど私には長く感じる時間を経てボールが輪っかを素通りした。垂れ下がったリングネットが揺れてピーッと甲高い音が響き渡る。
「すげぇ! これで三回連続3ポイント成功だぞ⁉」
「バスケ部員でもないのにすごい!」
ところどころで感嘆の声が上がった。
聞き慣れた歓声。私が聞きたいのはそんな声じゃない。
試合終了のブザーが伝播して一際大きな歓声が上がった。チームメイトの労いをよそに、私は観客の一点に視線を向ける。
恋人の顔には笑みが浮かんでいた。尊敬と親愛が込められた視線を受けて、内心ほっと胸をなで下ろす。
3ポイントシュートは難しい。ボールは重く、相手選手はシュートを妨害しようと動く。プロの選手でも成功率は五割に満たないのがザラだ。
私はバスケ部員じゃないけど、球技大会ではバスケットボールに推された。敦は何でもできる私を好いている。球技大会と言えど情けない姿は見せられない。
この日に備えて、運動施設を活用して練習を積んだ。シュートポイントを絞り、そこでなら高い確率でシュートが成功するように調整した。
付け焼き刃もいいところだけど努力は報われた。これで敦に幻滅されずに済む。
緊張が解けてどっと疲労感が押し寄せた。手脚が鉛と化したかのように重い。ああ疲れた、早くシャワーを浴びて横になりたい。
……あれ。
スポーツって、こんなに疲れるものだったっけ。
◇
「うーみだーっ!」
強烈な既視感に襲われた。
同級生の叫び声が波の騒めきに消える。昨日嗅いだばかりの潮と砂の匂い。二度目となると感動も薄まる。
「昨日も来たじゃない」
はしゃぐ背中にジト目を向ける。
そこにあるのは大きな背中。先日の水着姿とは異なり、浮谷さんは半袖半ズボンのウェットスーツを着用している。サーフィンのボードを脇に抱えて、波打つ水面を真っ直ぐに見据えている。
こみ上げる眠気を感じて口元に手を当てた。口が開いて目がじわっと
今日は浮谷さんと二人で材木座海岸に来た。時刻は確認してないけどまだ七時頃じゃないだろうか。
眠い。どうして日曜日に早起きしなきゃいけないんだろう。
「何で土曜日にサーフィンしなかったの?」
「ここは九時になったら十七時までサーフィン禁止になっちゃうんだよ」
「だからこんなに早くても人がいるのね」
波が引く方を見ると、人口密度の薄い海上にサーファーが点在している。映画で見るような、波のトンネルをかいくぐる姿は見られない。
「予想よりも地味ね」
思ったことがそのまま口を突いた。
決して波は高くない。もっと白い飛沫が覆いかぶさる光景を想像していた。サーファーに抱いていた格好いいイメージが早くも揺らぎかけている。
浮谷さんがハハッと肩を揺らした。
「材木座エリアは初心者に適してる場所だからね。波が来てもその高さは程度が知れるんだよ。でも南風が強くなるとウィンドサーファーが増えてくるんだ。ローカルサーファーとの兼ね合いもあるし、慣れるまで一人で来るのはやめた方がいいかもね」
「結構面倒なのね」
縄張り争いみたいなものだろうか? スポーツをやるためにエリアを取り合うなんて、それこそ新感覚スポーツとして売り出せるんじゃないだろうか。
「確かに準備は面倒だけど、その分波に乗ると楽しいぜ? 早速やろう。俺についてきて」
「うん」
長めのボードを持って浮谷さんの背中に続く。
大きな足が浜辺に差し掛かり、拘束から解かれたボードが重力に引かれて海面を鳴らした。ぷかぷかと揺れて存在を主張する。
浮谷さんがボードの上に胸板を付けた。クロールするように海水を掻く。
「これをパドリングって言うんだ。体がグラグラしないようにするとスムーズに進むぜ」
「私もこれをすればいいの?」
「ああ」
海水に足を踏み入れる。腕の拘束を緩めて、ロングボードにひと時の自由を与えた。
ぷかぷかするボードに胸のふくらみを押し付けた。浮谷さんに視線を振って両腕を回す。
やってることはクロールと同じなのに想像を超えて揺れる。
ボードの上に乗ってるだけじゃ駄目だ。ボードの輪郭をなぞるように泳ぐと力が抜けるし、膝から下は浮かせた方がいいかもしれない。
背を適度に反らして、手はボードの下をかくようにして……。
「お、いいじゃん秋村さん。やっぱ呑み込み早いねー」
顔を上げると、浮谷さんが振り返って口角を上げていた。
「これでいいの?」
「バッチリだよ! 初心者はここまで来るのも時間かかるんだぜ? その調子でもう少し奥に行こう」
「うん」
二人でパドリングを続ける。
前方で立った波がぬーっと迫る。
「お、波が来たな。乗るから見てて」
浮谷さんが膝をたたんで体を起こした。左右から白い軌跡を残し、ボードが波と一体化したように突き進む。
いまいちダイナミックさに欠ける光景。でもパドリングの難しさを体験した今となっては、立ち上がるだけでも小難しいのが分かる。
浮谷さんが海面をかいて戻る。
「見ててくれた?」
「うん、すごく上手だった。今度は私がやってみていい?」
「もちろんさ。いいね、チャレンジ精神旺盛で。秋村さんはそうでなくちゃ」
「私ってそんなに負けん気たっぷりに見える?」
「わりとね。俺は好きだよ」
不意打ちを受けて頬が火照った。
どうしてスラスラとその手の言葉を口に出せるんだろう。耐え兼ねて視線を逸らす。
「ありがと」
おどけたように返して波を待つ。
体を起こそうとしてボードがぐらついた。このまま膝を曲げても前のめりで倒れそうだ。重心は後ろを意識した方がいいかもしれない。
重心の位置を調整してそっと体を起こす。
成った。無様にボシャンとなる未来図を回避して安堵の息を突く。
後方でパチパチと音が鳴った。
「すごいね! テイクオフを一回で成功させる人なんて初めて見たよ!」
浮谷さんが泳ぎ寄ってきた。
表情は晴天のように晴れやかだ。子供のように純粋な笑みで褒められると照れてしまう。
「本当にサーフィン初めてなの? 信じられないよ」
「色んなスポーツをした経験があるからかな。体をどう動かせばいいか感覚で分かるというか」
どのスポーツも使うのは自分の体だ。力の加減や重心を意識して最大の効果を出力する。それさえできれば大半のスポーツは高水準でこなせる。
「感覚か。やっぱり秋村さんは運動神経がいいんだね」
「やっぱりって?」
「前々から見てたからさ。昨晩言ったっしょ? 羨むことしかできなかったって。俺ずっと見てきたんだよ、秋村さんのこと」
浮谷さんが白い歯をむき出しにして笑む。
顔がお風呂でのぼせたように火照った。本当にためらいなく歯が浮くようなセリフを告げるなぁ、浮谷さんは。
私の恋人とは大違いだ。敦も最初こそ言葉少なに褒めてくれたけど、付き合いを重ねるにつれて賛辞を口にしなくなった。
照れくさいのは分かる。分かるけど、こっちは褒めてもらいたくて自分を磨いたんだ。口にしてくれないと不安になる。
その点、浮谷さんは誉め言葉を口にすることに抵抗がなさそうだ。思ったことを直接言葉にしてくれる。認められていると実感できて安心できる。
「もっと乗ってみようぜ。サーフィンにも技があるんだ。秋村さんならすぐ修得できるはずだよ」
「うん。もっと色々教えて」
「もちろんさ!」
私は未知のスポーツに身を投じる。
楽しい。
気分よくスポーツに興じれるのは久しぶりだ。敦とのデートでは、新しいスポーツに挑戦する機会がない。未知ゆえの新鮮さはやみつきになる
やっぱり体を動かすのは楽しい。海水を浴びるたびに、心に付着していた汚れが洗い落されるみたいだ。
楽しい時間はあっという間だった。午前九時前になって浜から離れる。鎌倉駅から渋谷駅へ移動し、カフェで一服してからボウリングで連続ストライクを出した。
浮谷さんも運動神経が良い。敦と違って張り合いがあった。
もちろん負けたら悔しいけど、いいプレイをしたら自分のことのように喜んでくれる。一緒にいて気分がいい。
さよならバイバイ沈んだ心。体も気分も絶好調。
今日は来てよかった。心の底からそう思えた。
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