第17話 別れ話と実行委員


 休みが明けて月曜日がやってきた。


 憂鬱なはずだった。朝早くに自宅を出るのはだるいのに、登校したらまた燈香と仲睦まじい振りをしなきゃいけない。億劫になるに決まってる。


 そのはずだったのに、今日は不思議と腕が軽い。踏み出す脚どころか気分すら軽い。今なら空も飛べそうだ。こんな平日はいつぶりだろう。気を抜くと鼻歌すら奏でそうになる。


 リビングには妹がいる。浮ついた気分は兄のプライド的によろしくない。


 威厳! 兄の威厳を保たねば!


 気を落ち着けて制服のシャツに袖を通した。着替えを済ませてスリッパにつま先蹴りを繰り出し、履き物の裏で廊下の床を踏み鳴らす。


 階段を経てリビングの光景を視界に収めた。妹に向けて手を上げる。


「おはよう朱音」

「おは、よう?」


 妹が振り向いて目をぱちくりさせる。


「どうした?」

「いやお兄ちゃんがどうした? 最近は死んだ魚のような目をしてたのに」

「そんなことないさ。俺はいつもこんなだ」

「いやどんなだ。いいから顔洗ってきなよ、鏡を見れば分かるから」


 失礼な妹だ。兄を何だと思っているんだか。


 洗面所に足を運んだ。手ですくった冷水を顔に叩き付けてタオルで拭き拭き拭きーっ!


 ダイニングルームに戻ってチェアに座す。


「分かった?」

「さっぱり分からん」

「じゃ何かあった?」

「何かって?」

「昨日だよ。今のお兄ちゃん、明らかに学校行くの楽しみにしてるし」

「学校は楽しいもんだろう」

「嘘。最近は明らかに行きたくなーいって顔してたもん」

「もんって、いやもんって」

「文句あんの?」


 ジロっと睨まれた。昔からこの視線を向けられると何も言えなくなったものだ。


 今は違う。この身には何でもできそうな万能感がみなぎっている。妹の指摘を跳ね除けるくらいわけはない。


「文句はないけど俺はいつも通りだ。そこは履き違えてもらっちゃ困る」


 妹がビシッと人差し指の先端を向けた。


「ほらやっぱり! こういう時お兄ちゃんはいつもひれ伏すのに!」

「前々から思ってたけど、お前は大概お兄ちゃんに失礼だよな」

「もしかして、やった?」

「さあね」

「ねぇ教えてよー!」


 妹の追及をのらりくらりとかわして朝食を腹に収めた。通学カバンの取っ手を握って玄関を後にする。


 通学路の地面を踏み鳴らす内に、似た制服をまとう同年代が点在する。同じ制服を身にまとう同志。それらの背中に陽気な声であいさつの言葉を投げかけた。


 学び舎の門をくぐって昇降口にイン。心なしか普段よりも早く到着した気がする。歩行ペースが速かったのかもしれない。


 体の芯からわき上がる熱に突き動かされる感覚。エネルギーが満ちあふれるようなこの感じには覚えがある。


 すなわち恋がもらたす気分の高揚。柴崎さんに会いたい。その欲求が俺の足を突き動かしている。


 俺と柴崎さんの関係は二人きりの秘密だ。燈香にはもちろん友人にも明かせない。俺と柴崎さんは土曜日に知り合ってそれっきりの設定だ。


 そんな不義理も今日まで。とっくに心は燈香から離れていたんだ。


 教室に着いたら燈香と話をしよう。冷え切った関係を維持することに意味はない。別れ話を打ち明けて形ばかりの恋人関係を終わらせよう。


 上履きに足を通して廊下の床を踏み付ける。


 急に足が鈍くなった。土日と連続して出歩いたからだろうか? それとも歩行速度がハイペースだったから疲れが蓄積したのか。


 この程度の疲れ、特に気にするまでもない。教室のドアを開けて丸田や魚見におはようの四文字を告げた。


 返答を耳にして違和感を覚えた。


「燈香は来てないのか?」

「来てないぞ」


 道理で鈴を鳴らしたような声がないわけだ。いつもは俺より早く来るのに珍しい。


「なんだ、気になるのか?」


 丸田が意地悪く目を細めた。


「何だその目は」

「だってよ、一時期話題になったじゃん。付き合い当初は競うように登校してさ、後半は運動部もびっくりの時刻に登校してたろ。またあの珍妙な競争が見られると思うとなぁ」


 丸田が感慨深そうに頷く。


 胸の奥がチリッとした。衝動に身を任せて坊主頭をわしづかみにする。人工芝のごとき手触りがチクチクして心地いい。


「やめろ! 頭を触るなっ!」

「なでてるんだ」

「なお悪いわ! 初めてはお姉さんのなでなでに捧げると決めてたのにっ!」

「そうやってがっつくからお前はモテないんだぞ」

「ウザっ! 超ウザっ!」


 みぞおちに一発もらって肺の空気が抜けた。胸の下をなでながら自分の席に着く。


 鈍い痛みでリセットされた思考を回転させて、別れ話の切り出し方を吟味する。


 教室は大勢の目がある。燈香を振るにしても、クラスメイトの前で恥をかかせるのは忍びない。先生が来る前に人気のない廊下にでも連れ出して、そこで別れ話を切り出そう。


 腰元でバイブレーションが鳴った。


 俺はポケットに手を突っ込んでスマートフォンを引き抜いた。液晶画面に視線を落として眉を上げる。


 柴崎さんとのグループチャットが更新されていた。おはようございますの文字列を見て、口の端がヘリウムガスと化したかのごとく浮き上がる。


 俺は親指で画面をタップしてあいさつを返し、そのままチャットを用いた雑談へと移行する。日曜日は楽しかった。次の休みはどこに行く? そんな他愛もないことを話し合った。


 ガラッと軽快な音が鳴った。視線を上げて音の主を視認し、あらためて意識をスマートフォンの画面に戻す。


 思わず顔を上げた。


 何故か教室の景観に、友人と言葉を交わす燈香の姿が付け足されていた。


「いつの間に」


 つぶやいて、とっさに時刻を確認する。


 ショートホームルームが始まるまであと一分もない。柴崎さんとのチャットに夢中になって、燈香が教室に踏み入った瞬間を見逃してしまったようだ。


 俺は小さく息を突く。


 何、焦る必要はない。時間はたっぷりとあるんだ。先生の話が終わった後にでも燈香を連れ出そう。


 担任教師が室内に踏み入った。朝礼を済ませるなり背を向けてチョークを握る。


 白い先端が黒板に叩き付けられて、カッカッと軽い打撃音が鳴り響く。


「文化祭が近付いてきた。本日の授業は早めに切り上げて、放課後に実行委員の集会を開く。一時間目は実行委員の選出にあてる。男女一名ずつだ」


 視界の隅でクラスメイトが顔をしかめた。壇の上に立つ教師には、俺の視界に映る数倍のしかめ顔が見えたに違いない。


 精力的に準備するのは楽しいだろうけど、実行委員はあっちこっちに奔走するから忙しい。好んでなりたがる者は少数だ。


 担任と委員長が入れ替わった。クラスのまとめ役が教壇に立ち、隅で椅子に腰かける担任をよそに希望者を募る。


 希望者はいない。教師がポケットからスマートフォンを取り出した。


 俺たちの高校では、こういった委員決めには帰宅部の人間があてがわれる。


 クラスメイト大半は何らかの部員。選定の対象はかなり絞られる。


 当たりませんように。用いられるであろう抽選アプリに祈る。


「男子は萩原にお願いしたい」


 祈っても無意味だった。現実は残酷だ。


「萩原、今日は何か予定あるか?」

「いえ……ありません」


 嘘をついて逃げるにしてもばれた後が面倒だ。教師だけでなくクラスメイトからの信用も失う。燈香はともかく柴崎さんにその話が伝わるのは嫌だ。


 それにしても嫌らしいやり方だ。アプリを使う前に予定の有無を問いかけていれば、一人挙手したのを皮切りに他の生徒も続いたはずだ。責任を分散できる分、同じ境遇の仲間を増やせた。


 指名された身ではそれもできない。俺一人が予定をでっちあげるにはとてつもない勇気がいる。


 さすが教師、伊達に何百人もの生徒を相手してきていない。年齢を重ねた分だけ小賢しい。


「次は女子だ。こっちもアプリで決めるぞ」


 教師がスマートフォンの液晶画面をタップする。


「女子の実行委員は秋村にお願いする」

「はぁっ⁉」


 素っ頓きょうな声が伝播した。燈香が腰を浮かせて椅子をガタンと鳴らす。


「いいねえ! お似合いじゃんカップル選出!」


 丸田が口笛をピュ~~ゥッと伝播させた。いつも空気をフスフス言わせるくせに、こういう時だけ口笛を成功させるのはわざとなのか? 


 いらっとしたけど言い返せない。あんなでも発端は善意だ。下手に言い返して不仲を疑われるのもまずい。


「秋村、予定は?」


 問いかけに遅れて、俺も燈香に視線を向ける。


 燈香! 予定、予定だ! 予定をもって実行委員を断るんだ!


「……ありません」


 思わず額に手を当てた。


 これから先、俺は燈香と二人一組で実行委員の仕事をこなすことになる。うかつに別れ話なんて切り出そうものなら空気が壊れる。協力して作業にあたるのもおぼつかない。


 向こうも別れを望んでいる可能性はある。最後に二人で出かけたのは半月以上前だ。仲が冷めているのは燈香も自覚しているはず。


 でも別れを告げることと、別れを告げられることの間には大きな差がある。燈香はプライドが高い女性だ。俺から別れを切り出したら関係がこじれるリスクは高い。


 人の気も知らずに担任教師が笑んだ。


「こんなにすんなり決まるとは珍しい。今年の諸君は利口で助かるぞ。空いた時間は自習にする。現代文の質問であれば気軽に質問してくれ」


 教室が賑やかさを取り戻した。


 語られる話題は文化祭関連が多くを占めている。小学生の集会を想像させるくらい騒々しいけど、俺の頭は別の話題でいっぱいだ。


 こうなったら秋村の口から別れ話を切り出させるしかない。問題はどうやって実現させるかだけど……。


「よかったな萩原! カップル委員なんて羨ましいぞこのー」


 視界に坊主頭が飛び込んだ。


 おのれ丸田、さては頭なでなでをした腹いせに思考の邪魔をするきだな? そうはいくか。


「丸田、さっき沢田先生が呼んでたぞ?」

「沢田そこにいるじゃん。さっきっていつ?」

「……いつ、だろうな?」

「なーに言ってんだお前」


 おにぎりが呆れ混じりに目を細めた。


 くそ、何も言い返せない。丸田のくせに生意気だ。


「大丈夫か? 嬉しすぎるのは分かるけど、あまり羽目を外しすぎるなよ?」


 俺は腕を伸ばして再びおにぎりをわしづかみにした。力の限りわしゃわしゃして苛立ちをぶつける。


 落ち着け、冷静になれ。


 別に今日中じゃなくても構わないんだ。休み時間、明日、なんなら明後日以降もチャンスはある。


 最優先すべきは、燈香との仲をこじらせずに関係を終わらせること。機会は慎重に見極めなければ。

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