第12話 海水浴の理由


 柴崎さんと肩を並べて歩を進める。燈香とは違った爽やかな匂いがして、左胸の奧がトクンと脈打つ。


「萩原さん、よかったらカフェに寄っていきませんか?」

「今からか?」


 海水浴をした帰りだ。砂浜ではあまり体を動かさなかったけど、人は座っているだけでも体力を消費する。


 俺と柴崎さんは体育会系じゃない。早めに帰宅して体を休めた方がいいと思うんだけど。


「だめ、ですか?」


 上目遣いを向けられた。


 神秘的な美貌に請われている。高嶺たかねにある花が下りてきたみたいで、頷きたい欲求に駆られる。


「門限は大丈夫?」

「大丈夫です。両親から許可はもらってますから」


 今からカフェに立ち寄るとなると完全に日が落ちる。良家のお嬢様みたいな雰囲気を放つ一方で、そこら辺は緩いようだ。


「じゃあ寄っていこうかな」

「やった!」


 小さなつぶやきとともに表情が綻んだ。声色に滲み出た歓喜の揺れが、疲れた体に活力を湧き上がらせる。


 女性と二人でカフェ。彼女がいる身としては気が進まない。


 でも柴崎さんは本を通して語り合った友人だ。浮気をするわけじゃない。カフェで語らうくらい許されるべきだ。


 俺たちは駅にあるコーヒーチェーン店に足を運んだ。柴崎さんに席取りを頼み、カウンターに赴いてラテとティーを注文する。


 手の平越しに冷たさを感じつつ、温かみのある木製のチェアに腰を下ろす。柴崎さんに透明な容器を手渡して蓋にストローを差し込む。


「柴崎さんはずっと本を読んでたね。海水浴場での読書はどうだった?」

「趣がありましたね」

「趣?」

「潮の匂いがあって、波の音に人の喧噪が混ざって、自室で読むのとは違った情緒がありました」


 小さく吹き出した。


 俺の発言は皮肉に捉えられると思っていた。そのつもりはなかったけど、人付き合いの苦手そうな柴崎さんだ。悪い方向に捉えられても仕方ないと思って言葉を吐いた。


 むっとされる覚悟はしていたのに、まさか素直な感想が返ってくるとは。


「柴崎さんって面白いんだね」


 まぶたがぱちぱちと上下した。


「面白いなんて、そんなこと初めて言われました」

「そうなのか? 燈香辺りに言われてない?」

「言われてません。数回しか言葉を交わしてませんし」


 俺と柴崎さんはほとんど海水に浸かっていない。大半の時間を読書談義に費やした。


 燈香は読書よりも運動が好きなタイプだ。他の客に混じってビーチバレーの試合をしたくらいアクティブだ。燈香と会話した回数が指で数えられる程度なのも頷ける。


「俺が仲良くなる機会を奪っちゃったか」

「そんなことありません! 萩原さんとの読書談義はとても充実した時間でした!」


 反射的に背筋を反らす。興奮した口調で擁護されるとは思わなかった。


「でも燈香はヒーローになっただろう? 柴崎さんも、色々と話したいことがあったんじゃないか?」


 颯爽と海に飛び込んで子供を救出した。あの海水浴場において、燈香はまごうことなきヒーローだった。


 本人がそそくさと逃げ出していなければ、後日表彰されていた可能性もある。人々が有名人に群がるように、少しくらいは言葉を交わしたいと思うのが人情だろう。


 艶のある黒髪が左右に揺れた。


「いえ、秋村さんと話したいことは特にありません」

「そうか? ならいいんだけど」


 遠くに感じられて声を掛けにくいのだろうか。柴崎さんと燈香は真逆なタイプだし、交流初日では臆すのも無理はない。


「秋村さんはともかく、萩原さんも凄かったですよ」

「俺が?」

「はい」


 明確な肯定に微笑みが続いた。


「褒めてくれるのは嬉しいけど、俺は何もしてないぞ?」

「秋村さんに浮き輪を渡したじゃないですか。本当は浮き輪を持ってた私が渡さなきゃいけなかったのに、頭の中が『どうしよう』で埋め尽くされちゃって、結局立ち尽くすことしかできませんでした」


 助けを求めて事態を知らせた両親を除けば、俺と燈香以外は何もしなかった。


 野次馬は見ていただけ。ライフセーバーは動きこそしたものの、出遅れてヒーローになり損ねた。


 観客に甘んじることが悪いわけじゃない。二次災害は一番避けるべき事態だ。一般人が手を出すのは本来下策中の下策。下手をすると子供に手脚を拘束されて溺れていた可能性もあった。今回はたまたま上手くいっただけにすぎない。


 それは浮き輪の必要性を知っていた俺だから言えることだ。


 野次馬の一人が燈香を非難しても、『でもお前何もしなかったじゃん』と言われたら口をつぐむしかない。やらない善行よりやる偽善。人を助けたという一点に置いて、燈香は誰よりも優位な位置に立っている。


 そういう意味では、俺は燈香の一段下にいる。柴崎さんにとっての俺は、自身よりも役に立った優位な人物だ。


 そんな俺の謙遜は、柴崎さんの評価を下げることに繋がる。自分を卑下するべきではないことに思い至った。


 柴崎さんが体の前で手を重ねる。


「だから、私は萩原さんも凄いと思います。皆が溺れる子供を眺めることしかできなかった中で、萩原さんはパニックに陥ることなく冷静に対処しました。もし萩原さんが浮き輪を渡してなかったら、秋村さんは子供にしがみつかれて溺れていたかもしれません。今回はたまたま救出できただけで再現性は皆無です。ライフセーバーの人だって、それを知っているから秋村さんを叱ろうとしたはずなんです。なのに周囲は秋村さんを持ち上げてばかりで、萩原さんには言葉の一つもない。納得できません」


 いつになく饒舌じょうぜつだ。口数の少なかった柴崎さんとは思えない。声にこもった熱が内に秘めた感情をうかがわせる。


 耳たぶが熱い。こんなに褒め千切られるなんて完全に予想してなかった。


 ラテを一口含み、香ばしい液体の苦みで思考をリセットする。


「俺をそこまで評価してくれるとは思わなかったよ。ありがとう柴崎さん」


 正直凄く嬉しい。心が体を離れて浮き上がるような錯覚すらあった。


 賞賛を一身に受けた燈香をねたんではいないけど、手放しに称賛する空気には思うところがあった。共感してくれる人の存在がこんなに温かく感じられたのは初めてだ。


「今日だけじゃありません。萩原さんはいつも冷静で、知的で、そんなあなたが、私は好きでした」

「……ん?」


 脳内が疑問符で満たされた。


 思考がオーバーフローした。言葉は聞こえたのに、何を言われたのか一瞬理解できなかった。


 桜色のくちびるが再び開いた。


「いえ、過去じゃありません。私は――」


 慌てて手の平をかざした。


「待ってくれ! 俺には付き合っている彼女がいる」

「知っています。秋村さんですよね?」

「ああ」

「でも、上手くいってないんでしょう?」


 思わず息を呑んだ。


 図星。知ってか知らずか言葉が続く。


「海辺を歩くまで、秋村さんとはほとんど会話してませんでしたよね?」

「それは、君と話していたから」

「丸田さんや魚見さんとは話していたのに、ですか? 秋村さんは水着姿だったんですよ? 彼氏として一言もないなんておかしいじゃないですか」


 ぐうの根も出ない正論だ。


 俺と燈香は、表向きでは喧嘩もしていないことになっている。友人に語りかけた以上、恋人と言葉を交わさないのは道理が通らない。


 さすが柴崎さん、丸田たちとは目の付け所が違う。サスペンス系小説を読みふけっているだけはある。


「萩原さんと秋村さんの関係は冷え切っている。違いますか?」

「冷え切ってるってほどじゃないよ。以前みたいにドキドキはしないだけで」

「それだけですか?」


 黒真珠のような瞳にじっと見据えられる。


 ブラックホールじみた引力を感じる。反論は全て聞き届ける、その上で否定してみせます。言外にそう告げられているみたいだ。


 俺は目を伏せる。


 言葉が喉の奥から引きずり出された。


「それだけ、じゃない。二人きりの時に笑い掛けることはないし、最近は気まずいと感じてる。正直言えば、どうして今も恋人関係を続けているのか分からない」


 口にしてハッとした。失言を悟ってとっさにおどける。


「急にこんな話をされたって驚くよな。不快にさせたなら謝るよ」


 柴崎さんがおもむろにかぶりを振った。


「いえ、むしろ嬉しいです。慣れないことをして海水浴に参加した甲斐がありました」


 俺はきょとんとする。


 追いつかない思考に反して、左胸の奧から伝わる鼓動が速まる。


 柴崎さんは別のクラス所属だ。今日の海水浴に参加するには、教室の外からアプローチを掛ける必要がある。


 そこまでして参加したわりには、柴崎さんはあまりに非活動的だった。浜辺の上で活字とにらめっこする始末だ。


 海に興味がないのに海水浴に参加したその理由。まさかとは思いつつも口が勝手に言葉を紡いだ。


「もしかして、君が今日海水浴に同行したのは」

「……はい」


 柴崎さんがまぶたを閉じて深く空気を吸い込む。新雪のような白い肌を赤らめて、艶やかなくちびるから思いの丈を発する。

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