第11話 青春
海難事故では、溺れている人間に真正面から近付くのは危険な行為とされる。
相手はパニックで状況を見る余裕がない。下手に前から行くと火事場の馬鹿力で体を拘束される。助けに行ったら海中に引きずり込まれて、二人とも助からなかったなんて悲惨な事例もある。
そこで必要となるのが、ビートバンや浮き輪などの水泳用具だ。
まずは相手にそれらをつかませて安堵を与え、視野を広げさせてから浜へ戻る。小説から得た知識だけど、何も知らないよりははるかにマシだ。
足が沈む。砂浜の上では思ったように走れない。
その条件は燈香も同じだ。この距離なら声は聞こえるはず。
深く空気を吸って肺を膨らませる。
「燈香! これを子供につかませろ!」
浮き輪をフリスビーの要領で投擲する。
小さな顔が振り向いた。細い腕が浮き輪を抱く。
「ありがとう!」
燈香が浮き輪をビートバン代わりにしてバタ足で進む。
華奢な人影が子供の前にたどり着いた。輪っかが差し出されるなり、小さな腕がそれを掻き抱くのが見えた。
少し遅れてライフセーバーが合流した。三人で波をかき分けて波打ち際に足を突き立てる。
野次馬が三人のもとに殺到した。夕焼けの浜が急激に騒がしさを増す。
「ひゅーっ、燈香さんかっけえ!」
浮谷さんもピュゥーイッ! と口笛を吹き鳴らした。今日一番の笑顔だ。まるで画面の向こう側にいるヒーローを見たかのように目を輝かせている。
人混みの中から燈香が出てきた。
「皆帰る準備して!」
労いの言葉をかけようとしたタイミングだった。華奢な姿が擦れ違ってせわしなく荷物をまとめ始める。他のメンバーも目を丸くした。
燈香が手を止めて振り向く。
「早く! ライフセーバーの人から逃げてきたんだから!」
「何で逃げるんだよ」
「追いつかれたら私が叱られちゃうでしょ!」
「ああ、そういうことか」
人混みに横目を向ける。
野次馬が壁を作っているから浜辺側が見えない。子を抱きしめる親に、肉壁と化して見守る野次馬。燈香を追いかけようとして足止めをくらっているセーバーの図が浮かぶ。
素人の救助活動には多大な危険が伴う。人命救助は褒められたことでも、結果論で片付けてはいずれ悲劇が起こる。勘違いヒーローを作らないためにも大事なことだ。燈香も自覚しているから離脱を急いでいるのだろう。
燈香は考えるよりも先に体が動くタイプだ。進学校に入れたくらいだから頭が良いのかと思えば、後先考えずに動く節が見られる。
典型的な勉強ができるだけのタイプだけど、ああいう時にすぐ動ける姿勢は羨ましい。考えて動く人間は基本ヒーローにはなれないから。
「帰っちゃっていいの? これ表彰ものっしょ?」
「いいよそんなの。真似して亡くなる人が出たら寝覚め悪いし」
友人の表情はもったいないと言いたげだけど、当の本人はどこ吹く風だ。
全く興味のなさそうな態度が周囲の興奮を冷ました。魚見が呆れたように肩を上下させる。
「もったいないなぁ、まあ燈香がいいならそれでいいんだけどさ。ほら、男ども準備して。撤収するよ」
「イエスマム」
丸田に続いて俺も片付けに取り掛かった。パラソルや浮き輪を返却し、荷物をまとめ上げて砂浜を駆ける。
燈香がニッと白い歯を露わにした。
「これいいね! 青春みたいで!」
「みたいというか、まごうことなく青春だけどな!」
「違いないね!」
速やかに泥を落として衣服を着込む。
忘れ物がないか確認して友人と鎌倉駅に向かった。
◇
「今日は楽しかったなー」
夕焼けに濡れた街並みを背景に、丸田が顔をくしゃっとさせる。海を堪能してご満悦といった顔だ。ナンパの成果が散々だったことには触れまい。
浮谷さんが白い歯を覗かせる。
「秋村さんかっこよかったしなー」
「ねー」
「ちょっとやめてよ、照れるから」
燈香が桃色のくちびるを尖らせる。鎌倉駅から同じ話題で誉めそやされたこともあって、端正な顔立ちが少し拗ねてきたようにも見える。
魚見が満足げに息を突く。
「たくさんいじってやったし、後は彼氏に任せるとしますか」
「そうだな。俺たちにいじられた分は彼氏になぐさめてもらえよ。んじゃな~~」
「ちょ、ちょっと華耶! 丸田!」
二人の背中が小さくなる。ごゆっくり~~と言いたげに手の甲が揺れる。
この流れだ、残る二人には同調圧力が掛かるわけで。
「それじゃ私たちも」
「また明後日会おうね、秋村さん」
柴崎さんと浮谷さんもそれぞれの帰路に就いた。二つの背中が俺たちを置き去りにして人混みに消える。
友人が一人残らず消え去ったのを視認して、俺は燈香に向き直る。
俺たちは恋人。気持ちは一つだ。
「じゃあな」
「ええ。また月曜日」
互いに背を向けて帰路をたどる。
待て待て待て! と引きとめる友人はどこにもいない。自宅を目指す多くの人影と擦れ違う。
時刻は帰宅ラッシュ。街が人工的な灯りに照らされて夜の顔へと化粧を施されている。自分が大人になったみたいな錯覚を受けて口元が緩む。
「あの、萩原さん!」
呼びかけられて振り向く。
日本人形のような和の気配。ついさっき帰ったはずの女の子が立っていた。
「柴崎さん?」
思わず目をしばたかせる。
柴崎さんが指をぎゅっと丸めた。ビーチバッグの取っ手にしわが寄る。
「どうしたの?」
「あ、あの、私もこっちなので」
声のトーンが少し乱れた。
こっちとは帰る方向のことだろう。
おそらくは帰り道を間違えたのだ。さっき別の方向に靴先を向けたから恥ずかしくなったに違いない。
すぐさま顔に微笑を貼り付ける。
隣に燈香がいないのをどう言い訳したものか。取りあえず口を開いて主導権を握ろう。
「そうだったんだ。早く言ってくれればよかったのに」
「勇気を出すまでに時間が必要だったので」
勇気?
首を傾げかけてなるほどと合点した。
柴崎さんと俺たちが交流したのは今日が初めてだ。海水浴で仲良くなったとはいえ、沈黙に気まずさを感じないレベルまで関係を深めてはいない。気軽に声を掛けるのも覚悟がいる。
それでも柴崎さんは呼びかけた。よほど大事な用事があると見た。
「少し歩きませんか?」
「いいよ。一緒に行こう」
俺も高揚した気分が収まらない。ちょうど会話相手が欲しかったところだ。柴崎さんの申し出を拒む理由はない。
「ありがとうございます!」
柴崎さんの表情がぱっと明るくなった。俺はただ首肯しただけなのに、何かいいことをした気分だ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます