第3話:見習同心小林海太郎義景
行き倒れを発見して一刻ほど経った頃、立派な長屋門をくぐり、趣向の限りを尽くした前庭を通り、表玄関から見習同心が入って来た。
「おう、朝っぱらから災難だったな」
「これは、これは、小林様。
番太からお聞きなって、わざわざ来てくだされたのですか」
表玄関横の事務室にいた大番頭は、所載なく銀の小粒を相場より多めに包み、見習同心小林海太郎の左袖に入れた。
「まあな、番太を門の内側には入れられないからな。
使いにするわけにもいかないからな」
小林海太郎は当然のような顔をして袖の下を受け取る。
「それは、それは、ありがとう存じます。
それで、家のお嬢さんの心配は当たっていたのでしょうか」
「ああ、まだ田辺や松坂からの知らせはないが、拝田と牛谷でも大体の事は分かっていたようだ」
「誰がどんな噂を広めたのでしょうか」
「誰が広めたかは分かっていない。
ただ、お伊勢参りをすると癩病が治ると言う噂が東国で広まっているそうだ」
「それは、それは、お伊勢様は霊験あらたかではございますが、神々にはそれぞれ役割がございます。
癩病には四国八十八所と加藤清正公の肥後本妙寺と決まっておりますものを」
「俺に文句を言ってもどうにもなるまい」
「そこを何とか、小林様の御力で、せめて山田三方に入り込まないようにして頂けないでしょうか」
「山田を素通りさせて宇治に向かわせろと言うのか」
「そこまでは申しませんが、行き倒れなどがあると、心優しいお嬢さんが胸を痛めてしまわれますので」
「ゆうが哀しむとなれば、見過ごす訳にも行かないが、見習同心に過ぎない私独りでは、やれる事とやれない事があるぞ」
「御父上はもちろん、他の旦那方にも改めてご挨拶に伺わせていただきますが、前もって根回しをお願いしたいのです」
「分かった、父上や年寄りの方々には話を通しておく。
だが、私も手ぶらではお願いし難い」
「分かっております、後ほどちゃんとした形でお持ちさせていただきます」
「そうか、それでこそ檜垣屋の大番頭だ。
ところで、ゆうはいないのか」
「本当なら一番にご挨拶させていただかなければいけないのですが、伊勢神楽の者共と一緒に、神楽殿で大神楽を舞っておられるのです」
「大神楽だと、あれは七十五両もするのではなかったか」
「東国の信心深い御隠居が来ておられるのです。
御隠居も主人もそろって御挨拶させていただいており、私ごときで申し訳ありませんが、小林様をお待ちさせいただいておりました」
「そう言いう事ならしかたがないな。
松阪や田辺の非人小屋からの話が集まるのを待って、改めて話をしに来る」
「はい、何卒宜しくお願いしたします」
小林海太郎はゆうの顔を見る事ができず、肩を落として帰って行った。
山田奉行所の同心家の長男とは言え、跡を継いでも役高三十俵二人扶持では、貧乏暮らしをするしかない。
普通の年でも四十万から五十万の参詣客が来る伊勢山田だ。
一人千文の銭を伊勢山田の落とすだけで十万両の金になる。
その余禄は奉行所の同心にも行き渡っている。
だが同心家に渡る余禄よりは、御師宿に直接渡される講料の方がはるかに多い。
家格が足軽でしかない同心家を継ぐよりは、神宮家と縁戚で、従五位上権禰宜の家格を持つ檜垣屋に婿入りした方が良いと考えていた。
檜垣屋の隠居も主人も大番頭も、若い見習同心に全て任せきるほど愚かではない。
特に八日市場町の年寄りを務める隠居は、木戸番を直接差配する立場にある。
主人も御師宿内の銭拾いを拝田衆に許可する立場だ。
見習同心小林海太郎が神領外の非人小屋から話しを集める前に、必要な話を集め終わっていた。
「お爺様、お父様、ゆうでございます。
行き倒れの件で話があるとの事ですが、入って宜しいでしょうか」
最近のゆうの言動が気になっていた隠居と檜垣屋の当主である父親は、ゆうを別棟の茶庵に呼び出した。
「ああ、入りなさい」
ゆうは祖父、檜垣常央の許可を受け、祖父と父親の待つ茶庵に入った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます