翻訳さん。

南村知深

第0話 私の彼女

 本校舎から渡り廊下で繋がっている特別教室棟の三階。

 物理実験室、化学実験室などが並ぶ一角に、その部屋はあった。

 それらの部屋に比べて手狭な上に、背の高い書架がいくつも押し込まれているせいで酷く窮屈に感じるそこは『第二図書室』と呼ばれている。

 図書室と言っても名ばかりで、第一図書室に納めきれない不人気蔵書を詰め込んであるだけの、実質的には倉庫扱いである。

 普段は施錠され、利用するには職員室で鍵を借りてこなければならないが、そうまでしてこの部屋を使いたいという者はほとんどおらず、人の出入りは極端に少ないのが現状だ。

 私は二年生になるまで存在すら知らなかったが、実際に入ってみるとそうなる理由がすぐわかった。面白いものがあるわけではない、狭い、埃っぽい、薄暗い、空調設備無し、となれば誰だって敬遠するだろう。

 それを逆手にとったのは、さすがというかなんというか。

 一人だけ、昼休みや放課後に第二図書室を利用している変わり者の女子がいた。不人気蔵書に用がある……わけではなく、単に人が来ないからという理由で。

 その変わり者の彼女は、周囲から『翻訳ほんやくさん』と呼ばれている。極端な人見知りで、少し変わった彼女を端的に表した変わったあだ名である。

 今日も今日とて、放課後の薄暗い第二図書室の一角を陣取り、彼女は自前のタブレット端末を操作しながらノートにカリカリと文字を書き込んでいた。


「あのねぇ、ミカ。まーた猫背になってるよ。気をつけなって言ったよね?」


 はあ、とため息をつきながら天井照明のスイッチを入れて声をかけると、彼女は「ひっ」と小さくしゃっくりのような悲鳴を上げて私を見た。集中しすぎて私が部屋に入ってきたことに気づいていなかったらしい。


「あ、浅茅あそうさん……。入ってくるならノックしてくださいって、いつも言っているじゃないですか……」

「したよ。ミカが気づかなかっただけ」


 本当はしてないけど。うっかりして忘れたのだ。


「それより、猫背。それと、薄暗い中でタブレットの文字とにらめっこしてたら、冗談抜きで目が悪くなるよ。部屋の明かりつけなよ」

「それは……その」


 言い返そうと口を開く……が、結局何も言えずに桜色の小さな唇をきゅっと結ぶ。

 蔵書に直射日光は厳禁だということで、第二図書室のすべての窓には遮光カーテンがかけられている。そのため室内は日中でも薄暗く、天井照明が必須である。

 ところが彼女は、明かりをつけると廊下から部屋を使用しているのがわかってしまうからという意味不明な理由で天井照明はつけず、隅に一つだけ置かれている小さな事務机のデスクライトの明かりのみを頼りに作業しているのだ。それでは目も悪くなるし猫背にもなる。


「目を悪くして眉間にシワを作ったり、猫背で姿勢が悪くなったらどうすんの。いくら猫が好きだからって、そこは似なくていいところだから」

「ごめんなさい……以後、気をつけます……」

「そのセリフ、何度目だっけ?」

「うぅ……ごめんなさい」


 消え入りそうな声で言って、彼女は顔を伏せた。そんなふうにされたら、なんだか私がいじめているみたいではないか。勘弁して欲しい。


「そんな顔しないでよ。ミカのことが心配で言ってるだけだから。ね?」


 決して怒っているわけではないことを殊更にアピールするように笑顔を作り、彼女のつやつやした黒髪の頭を撫でた。くせっ毛な上にカラーを入れて少し痛んだ髪の私と違って、絹糸のような柔らかい手触りが心地よさを通り越して官能的ですらある。

 いつまでも永遠に撫でていたい気持ちを無理矢理抑え込んで、彼女の手元に視線を落とす。デスクライトに照らされたノートには『物語』が綴られていた。


「それで? 今はどんな話を訳してんの?」


 訊くと、彼女は待ってましたとばかりに口角を上げて、嬉しそうにページをめくり始めた。


「これは、長い間旅に出たままだった父から突然一冊の絵本が届いて、その中に挟まっていた栞に魔法の呪文が書かれていて、それを呟いた娘が絵本の世界に転移してしまうお話、なんですけど」


 若干早口になりながら、彼女は熱っぽく語る。

 普段は教室の片隅でひっそりと存在感を消し、ひたすら本を読んでいるか外国語文と向き合うことで自分の世界に入り込み、他人との関わりを断とうとする彼女。

 だが、自分の得意分野の話となると、急に元気になって饒舌じょうぜつになる――身も蓋もない言い方をするなら、彼女は典型的な『オタク気質』の人間だった。


「ふぅん……ラノベ業界で流行はやりの異世界転生モノ?」

「そう言われればそうかも……です。でも作者がフランス人なので海外の古典童話に近い感じで、古いファンタジーゲームのストーリーを読んでいるような読書感になりますよ。スキルやステータスなんて最近の売れ筋作に多用される単語は出てきませんし」

「フランス? ああ、そっか。前から勉強してたもんね」


 からそれほど時間は経っていないと思っていたが、すでにフランス語は実用レベルに達するところまで習得しているらしい。さすが、情熱が半端ではない。


「その小説、面白い?」

「私は面白いと思っています。だからこそ和訳しているわけですし。仕上がったら浅茅さんもぜひ読んでみて、作者に感想を送ってあげてください」

「あー……私はいいよ。小説は苦手だし」


 文字ばかりの本なんて、数ページくらいで挫折するに決まっている。


「そう……でしたね。すみません」


 すげなく断る私に、しょぼんとうなだれる彼女。垂れた耳やしっぽを幻視しそうな落ち込みっぷりだった。

 まったくこの子は……そんな顔をされたら、本当に悪いことをしているみたいな気分になる。私は彼女にそんな顔をして欲しいわけじゃないのだ。


「読まないけど、ミカが朗読してくれるなら聞くよ。感想も書くし」

「本当ですか! ありがとうございます、浅茅さん」


 一転して、ぱあっと彼女の表情が明るくなる。うん、いい笑顔だ。とても可愛い。


「それはそうとして、ミカ」

「はい」

「二人きりのときは、私のことを『リコ』って呼んでって言ったよね?」

「えっ……でも、廊下に人がいますし……」

「関係ない。他人はいないんだから」

「…………」

「二人で決めたルールは守ってもらわないとね?」


 恥ずかしそうにうつむく彼女の顎を持ち上げると、彼女はきゅっと目を閉じた。こうなったらからか、白い頬にさっと紅がさした。


「さ、呼んでみよっか。私を」

「ぅう……でも……」

「呼んでくれないと、キスしちゃうけど?」

「…………。リコ……」


 彼女の囁くような声で名前を呼ばれた瞬間、心臓が跳ね上がったように強く鼓動を打った。嬉しさと欲求が満たされていくのがはっきりとわかる。


「よくできました。ご褒美をあげるね」


 照れて真っ赤になった彼女の耳元で囁いてから、私を二人だけの呼び名で呼んでくれた桜色の小さな可愛らしい唇にキスをした。




 これは、『翻訳さん』が私の最愛の人になるまでを綴った物語。

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