第2話 谷底、遭遇

2.


「――っ!」


 僕は突き出した岩肌や木々に当たらないようなんとか身をよじりながら、ものすごい速さで落下する。崖上はみるみる離れていき、周囲は次第に薄暗くなっていく。


 このままでは、いずれ谷底へと到達する。


「く、そ!」


 僕は歯を食いしばり、呆然としていた気持ちをすぐ切り替える。そして、急いで魔法の構築準備を始めた。


 剣が無くなったいま、僕が助かる方法があるとすれば魔法だけだ。それでも地面はみるみる近づいてきて、すぐに手を打たなければ助からない。


 使える手札は、火水風土の四属性魔法。可能性があるとすれば、地面に向けて強烈に風を吹き付けて衝撃を殺すことだろうか。それに加えて、水と土の複合で地面をぬかるませ、クッションにするのも良いだろう。


 しかし、三属性並行の魔法行使を短時間でなど、果たして魔法使いとして凡な僕にできるものか――


 ――……いや。できるできないじゃ、ない。やらなければ、ここで死ぬだけだ!


 僕はまさに死ぬ気で魔法陣の構築を開始する。使用する魔法は二つ。風属性魔法【大風】と、水・土属性複合魔法【泥沼】だ。


 いつかリエッタに聞いた二魔法の同時行使のコツ、右手と左手で一つずつ魔法陣を構築する方法を必死に行う。これまで練習でも一度もできなかった技術だ。しかしここで二つとも成功させなければ、おそらくこの速度の落下に僕の体は耐えられない。


 僕は必死に魔法陣を構築していく。まず右手の【大風】は難しい魔法でないこともあって、それでも過去一番の速度で構築に完了する。あとは魔力を流し込んで励起すればすぐ魔法を発動できる状態を維持しておく。


 しかし、問題は左手の【泥沼】だ。この魔法は二属性の複合魔法ということもあって、そもそも別の魔法と並行発動でなくとも僕には難易度が高い。時間や気持ちに余裕を持って単一魔法として構築できれば問題ないが、いまの状況でこれほど複雑な魔力操作を【大風】の魔法陣を維持したまま行うのは難しかった。


 そう、まさに至難の業だ。いままでの、仲間たちにフォローされつつ、命に危険がないよう戦ってきた僕ならば、決して発動することはできなかっただろう。


 ――しかし。仲間もおらず、自分の命が潰える瞬間も間近となったこの時。


 まさに火事場の馬鹿力とでも言うべき速度で、僕の左手の先へ見る間に【泥沼】の魔法陣が構築されていく。こんな時でもなければ、大いに自画自賛できる見事な手際であった。


 そして、僕はもう数瞬の後に到達するであろう地面を視線の先に捉える。魔法陣が浮かぶ両手を真下に伸ばすと、体内で瞬時に練り上げた各属性の魔力を手を通して魔法陣に流し込んだ。


 瞬間、発動する暴風と、着地点に生まれるぬかるんだ泥濘。


 ――その後、瞬きの間もなく、僕は地面へと到達した。


「――ぐううぅぅ!」


 地面へ吹き付ける風の反動が僕の体を襲う。風とはいえ、高所から高速で落下する人体を受け止めるため、全身に大きな力がかかる。ずっと身体強化魔法を発動しっぱなしではあったが、それでも僕の体がぎしぎしと軋むような音を立てた。


 加えて、やはり風の力だけで体を受け止めることはできなかったらしい。だいぶ速さは落としたものの、それでも未だ落下を止まらない。


 僕はすぐに体を丸めて衝撃に備え、自分が生み出した【泥沼】を信じて目を閉じた。


 ――――そして、全身を叩く大きな衝撃。


 僕は泥濘に叩き付けられ、何度か地面をバウンドし、やがて転がる体が停止する。


 頭が回っている。衝撃で視界が歪み、平衡感覚が狂っているのか、うまく立ちあがることができない。


 ――それでも、生きている。


 僕はどろどろに汚れた体で地面に手をつき、なんとか体を起こして小さく笑い声を上げた。


「生き、残った。あんな高いところから落ちて、生きている……」


 生と死の瀬戸際にいたせいか、ひどく興奮している。体を強く打ったはずだが、痛みもあまり感じない。


 それより今は、絶体絶命の状況から生きながらえたことを喜びたい。僕はしばらく地面に座り込んだまま、なんとか生き残った事実と、この土壇場で魔法の腕が一皮むけた実感を噛みしめていた。




 そうして、どれだけの時間が経っただろうか。


 やがて極度の興奮状態も落ち着いてきて、周囲の状況をうかがうだけの余裕もできてくる。同時に、体のあちこちが痛みと熱を持っていることも徐々に感じ始める。


 ――さあ、これからどうしようか……。


 僕はぼろぼろの体に鞭打って立ちあがり、体についた半乾きの土を払った。


 とりあえず、崖上まで上るのは不可能な高さなので、谷に沿って進んで外を目指すしかない。


 暗くなる前にせめて休める場所を見つけようと、僕は痛む体を進めようとした。しかし、その時だった。


 ――足音……。


 僕は背後から聞こえてきた音に振り返る。視線の先には、銀色の体毛を持った大きな狼が複数体。


 狼たち――グレイウルフの上位種たるシルバーウルフは、口の端からよだれを垂らし、ぐるぐると喉を鳴らしながら僕を睨んでいた。


 ――谷底へ降りたら、そこは強力な魔物の巣窟だったってわけか。……今の僕は剣もなく、満身創痍。それでも、生き抜くためには戦うしかない……。


 僕は覚悟を決めて、全身の魔力を高める。いつでも魔法を発動できるよう、静かに、そして迅速に魔法陣を構築する。


 そして、徐々に距離を縮めてくるシルバーウルフたちに、僕は無言で立ち向かった。




 ――こうして、僕の長い一人きりでの戦いが幕を上げる。この先一か月以上にわたって谷底での戦いが続くことになるなんて、今の僕は予想だにしていなかった。


 そして同時に、崖上に残した仲間たちが僕にどんな感情を抱いていたのか、僕を失ったと思ってどうなってしまうのか、そんなことをちっとも理解できていなかった。


 この行動の大きなツケは、なんとかこの地獄から生還した後、他ならぬ僕自身が支払うことになる――



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