8-3-3

 「私さ、コンビニで働く前はここら辺に勤めてたんだ。」

 

 彼女は言葉を止めた。

 

 「システムエンジニアってやつ。何十階だったかな、無駄にたっかいビルのフロアの一角で、長机の端っこの二畳が私の仕事場だった。母親は特に喜んでくれたよ。娘が大学を無事卒業して、大手IT企業に就職したって。会社名を教えてもピンとは来てなかったけど、ビルの写真見せたら大喜び。『立派な会社に就職したね』って、ほんの一部を借りているだけなんだけど。」

 

 母は難関校でも受験したぐらいの感覚で考えていたのだろう。実際はそんな大したものではなかった。もともと従業員数が多く、理系文系問わずに毎年百人近くの新卒採用実績のある会社で、プログラミング試験という関門があるような所ではなかった。


 大学内の企業説明会に参加していた幸はたまたま説明会に参加し、書類選考を優遇されると聞いて応募。二度の面接を受けた末、初めて内定を獲得した企業だった。

 

 「私は私立理系の四年生に通ってたし、研究でもプログラミングをしていたから、新卒の中ではそれなりにできた方だったと思う。新入社員でやる合同研修があって、そこでは各社員の現段階の技術レベルを測っていたの。レベルに応じた仕事を振るようになっていて、バリバリ出来ちゃう人は直ぐ現場入りしてた。」


 因みに私はトップ5に入ってた、と手のひらをめいっぱい広げて見せる。


 「まあ最初は全然ついていけなくて、仕事で使う技術は改めて勉強した。でもいち早く現場入りしたおかげもあって、自分でも成長を実感できるぐらいには充実して仕事をしていた。」

 

 「…信じられない。」

 

 反論しようと思ったが、あの部屋の惨状を見れば想像できないのも仕方のないことだった。

 

 「世間の物差しでいえば順風満帆、恋人や特別仲のいい友人はいなかったけど、会社の人達ともいい距離感で仕事ができていたと思う。すごく、恵まれていた。私立理系の大学を四年間、奨学金なしで全額親に払ってもらえた。いつか働いて返す、沢山とはいえない給料だけど、何年かかってでも。仕事を続けていれば、このまま頑張ればって。ただ、結果は御覧の通り。」

 

 幸は顔を引きつらせて肩をすくめた。

 

 「…どうして、辞めちゃったの?」

 

 「ん、そうだな。一言でいえば臆病おくびょうだったから、かな。」

 

 「臆病、あなたが?。」

 

 「なんか前にもこんな反応をされた気がする。みんな私の事がどう見えてるんだ。」

 

 幸の脳裏に生駒翠とスナックの女店主の顔がちらつく。

 

 「四年目になるとリーダー業務を任された。ん、ああ、リーダー業務ってのは簡単にいうと全体を取り仕切るような感じかな。クライアントと業務内容を連携して、スケジュール作って、それに間に合うようにメンバーに向けて指示を出す、みたいな。」


 自分がやっていたことを、門外漢の人間に説明するのは簡単そうで難しかった。幸は言葉を慎重に選んで話を続ける。


 「初めて任されたチームリーダーとしての業務に四苦八苦だった。いままで指示を受けてプログラムを作る立場から、指示を出してプログラムを作らせる立場に変わって、如何いかに自分がぬるい環境で作業させてもらっていたのかが分かったよ。開発するアプリの仕様確認、スケジュールの作成、クライアントへの進捗報告、各メンバーの進捗確認と指示出し。何一つ思い通りにはいかなかった。スケジュールは遅れるし、要件定義書がめちゃくちゃでタスクの見直しを何度もさせられたし、派遣で来た年配のメンバーは指示通りに動かないし。あ、やばい、思い出しただけでまたイライラしてきた。」

 

 「た、大変だったね。でも、それって臆病とは関係ないんじゃないの。」

 

 「そうだな、大変だったけどサポートがなかったわけじゃない。入社してからずっと面倒を見てくれた先輩が付きっきりでヘルプに入ってくれたから、一様はそれっぽくできていたと思う。実際どうだったのかよく分かんないけど。」

 

 「じゃあ、なんで。」

 

 「…これは理解されないと思うけど、いいか。」

 

 幸は自らの口が軽くなっているのを自覚していながらも、止めようとはしなかった。饒舌に語る自分に酔い、一回りも歳の離れた学生に過去の苦労話を聞かせている痛い奴。それでも、内をさらけ出さない事には進めないと思った。

 

 「一言、たった一言だった。私はその日ミスをした。それは緊急を要する仕事でも、ボトルネックになるような大きな障害でもなかった。ただ、クライアントへの進捗報告の時にそのミスが発覚した。社内で気づいていれば改めて指示を出して修正すれば終わりだけど、クライアントから見れば虚偽の報告をしたことに変わりはない。」


 

 「その時言われたの、『ちゃんとしてくださいね』って。」


 

 「…それだけ?」

 

 彼女は目をしばたたかせ、いかにも素っ頓狂な顔で幸を見つめた。予想はしていたが、感情の浮き彫りになった彼女の顔を見れたので良しとした。

 

 「そう、それだけ。たったその一言で、私は次の日から会社に行けなくなった。いつものように朝ごはんを食べて、いつものようにスーツを着て、いつものように身だしなみを整えて、いつものように靴を履いた。次の瞬間、会社から電話がかかってきた。「どうしたのか、体調でも悪いのか」って聞かれて、最初は何を言っているのか解らなかったけど、腕時計で時間を確認したらとっくに始業時間を過ぎていた。昨日のことを知っている先輩はそのことを察してか、理由を聞く前に『病欠として先方には伝えてある、大丈夫だから今日はゆっくり休んで』って、そう言って電話を切った。」


 それが、先輩との最後の会話だった。


 「今ってさ、退職代行なんてのが仕事としてあるんだよ。私はその日の午後に退職を依頼して、数時間後には退職することが決まった。厳密には溜まった有給を消化してからの退職だから四週間後だったけど。あっけなかったなぁ、三年勤めた会社を数時間で辞めて、しかも部長にも課長にも、あれほどお世話になった先輩にも、お詫びも感謝も言わず仕事を丸投げ。ははは、とんだ疫病神だよ。」

 

 投げやりに言葉を放って話を終えると、思いのほか清々しい気分だった。誰にも話せず、忘れることのできなかった汚点を洗いざらい吐きだした。紫煙と共に夜陰に溶けていく。幸は、これが本来の煙草の使い方なのかもしれないと思った。

 

 「なんで、そんな話を聞かせたの。」


 恐る恐るといった表情で尋ねる。如何にも畏まっている彼女は、どこか気を遣っているように見えた。

 

 「義務、なんてたいそうな名目掲げて話すことでもないんだよ、こんなこと。仕事や愚痴を言い合うなんて、ちょっと親しいぐらいの人間ならみんなやってる。」

 

 それに、と付け加えて言葉を続ける。

 

 「私たちは小さな共犯者だ。あの小さなマンションの一室で、互いに互いの犯罪を助長しあった共犯者。互いに互いの命綱を握ってるようなもんなんだよ。だから、私たちは同じ立場にいる、いわば対等な関係ってことになる。だからさ、私と話すときは、まあ、なんだ、今まで通りの感じでいいってこと。」

 

 幸はこそばゆくなって顔を指でかいた。髪をかき上げ、煙草を灰皿にやる。彼女の顔を見れないまま。

 

 「ほんと、めちゃくちゃ。」


 ポツリ、呟く声が聞こえた。

 

 幸は未だに彼女の方を見れなかったが、彼女が微笑んでいるが伝わる。それがmayaとしてのものなのか、それとも彼女自身のものなのかは分からない。


 ただ、もう少しだけ、このままでいたかった。幸は煙草を口に運び、じりじりと焼き焦げる残り時間を噛み締める。

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