8-3-2

 胸の奥底から立ち込める霧に、幸は覆われようとしていた。大きく煙を吸い、短くなった煙草を灰皿に擦り付けるとクズとなって溝に落ちていった。

 

 (彼女が、彼女の意思で『カスタムドール』を立ち上げた?無理だ、彼女は中学二年から始めたと言った。もし仮にビジネスとインターネットに長けていて、サービスの基盤を一から構築したとしても、どうしたってクリアできない問題がある。)

 

 それはつまり、大金を欲するか何かの理由に漬け込み、若かりし彼女に歩み寄って甘い蜜を得ようとした人間がいたということだ。その人間の見当は、先ほど嫌というほど肌で味あわされた幸自身がよく知っていた。

 

 改札へ向かう足音、周囲の談笑、暗雲に吸い込まれる電車の音。その全てが確かに聞こえているはずなのに、どこか蚊帳の外で、幸は意識の世界へと深く潜り込んでいく。逡巡する思考の速度が早くなる。瞳の奥の裏側を覗いているような、焦点がどこにも定まらない感覚。幸は二本目の煙草を手に取り、素早く火を付けて大きく吸った。自然に、動揺を気取られないように。

 

 「そっか、中学の頃から。それにしても、今日はよく話してくれるな。」

 

 「別に、聞かれなかったし。それに私は、あなたの言う事を聞く義務がある。」

 

 「義務?」

 

 彼女は次の言葉に詰まったようだった。しばらくの間続き、沈黙が段々と重苦しくなると同時に彼女の口を塞いでいった。何度か口を開こうと試みるも、過去の負い目が彼女の言葉の壁となって立ち塞いでいる。

 

 「部屋の鍵のことを言ってるなら忘れていいって言ったでしょ。あれは私自身にも落ち度があった。」

 

 「そんなはずない!どう考えたって、私が。」

 

 幸は彼女の言葉を遮って話を続ける。

 

 「そもそも、未成年を家に連れ込んだ時点で私に情状酌量の余地はないんだよ。あの時、然るべき対処が分かっていながらそれをしなかった。疲れていたのはただの言い訳に過ぎないし、連れ帰ったその後も私は何度もあなたを家に泊めている。仕方がなかったでは済まされない。」

 

 「でも、それでも、私が、私が」

 

 掠れ聞こえる声をよそに、どうしたものかと幸は考える。彼女にとってあの日のことは重く、罪の意識として残ってしまっているらしい。それは幸が赦したとしても、彼女自身が赦せなければ取り去ることはできないのだろう。死ぬまで残る痣となり、記憶ごと消し去る以外に対処のしようがない。

 

 時間が解決する、なんて安い慰めは使いたくなかった。解決するまでの時間を、ただ悔いに苛まれるさいなまれる時間をやり過ごす人生なんて、無為に消費しているに過ぎない。不意に訪れる後悔を、スマホと労働を繰り返して誤魔化す日々に価値などない。それは、幸自身が痛いほど良く知っている。

 

 忘れることも、無かった事にすることも、すぐに癒すこともできない。

 

 それでも、義務なんて言葉で今の関係を形成しようなんて。

 

 (なんか、腹立つ。)

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