8-3-1
「ねえ、帰らないの?」
「少しだけ付き合って、すぐに終わるから。」
お店を出てから向かった先は駅ホーム、ではなく、改札を出た正面に設置されている喫煙所スペースだった。幸は彼女を連れていき、初めて買った煙草の封を切り、一本取り出す。
(あ、火ないや)
頭をがしかし掻くと、隣で吸っているスーツの女性に火を拝借しようと声をかけた。女性は予備のライターがあると言って、淡いピンクの百円ライターをそのままプレゼントしてくれた。
手に持つタバコの先に小さな炎を近づけると、炎はほんのりと明るく燃え上がる。煙草の香りが漂い、その香りはどこか懐かしさを呼び起こした。幸は深呼吸をして、初めて吸う瞬間を迎える覚悟をする。
「煙草、吸うんだ。」
「いや、これが初めて。」
最初の吸い込みは戸惑いと苦しさを伴い、幸は喉が焼けたと思った。徐々に慣れていく感覚に少しずつ息も整っていった。最初の一吸いで微かな苦みが舌の上に広がり、やがて甘さと混ざり合う。その苦味は刺激的でありながら、どこか魅惑的でもあった。吸うたびに感じる興奮は身体全体に伝染し、心を高揚させる。
「本当に初めてなんだ。」と幸のたどたどしい一連のやり取りを見て、彼女がそうつぶやいた。
たっぷり五秒は煙を吐き出すと、決意のような覚悟のようなあやふやな何かが形を成した。灰皿へノックするように灰を落とし、わざとらしく中空を見つめたまま話を始める。
「最近、どう?」
「どうって、何が。」
「仕事の方。」
「…あの人から聞いたんだ。随分仲が良いんだね。」
「いや、今日が二回目。メールで呼びつけられたんだ。」
脅迫文の事が頭をよぎったが、話がややこしくなりそうなので伏せておいた。
「別に、何でもないよ。」
「じゃあその傷は?」
「…転んだ。」
「うそつき、目を見なくてもわかる。」
彼女に嘘を見抜かれたあの日の出会いが脳裏によぎる。幸はこぼれた笑みを隠しきれず声がでた。彼女は幸に目を向けるが、幸は指に挟んだ煙草を顔に近づけてそれを隠す。
「で、本当のところは?」
「…殴られた、今日のお客に。」
「それまたどうして。」
理由はおおよそ見当がついていた。それでも、彼女の口から聞かされるまでは憶測に過ぎない。彼女は渋々といった表情でいいあぐねていたが、幸が彼女の言葉を待つ素振りを見て諦めたようだった。
「その人はリピート客で、もう何度も同じ設定で注文してる。今日は新曲のレコーディングをしたいってことで呼ばれたの。」
「レコーディング?音楽関係の人ってこと。」
「そう、詳しくは言えないけど。なんでも今の仕事が一区切りつくタイミングを狙って前々から予約していたみたい。」
それを聞き、幸の憶測は確信に変わった。彼女の演技を前から知っており、何度も注文を繰り返す程の太客。前々から予約していたところを考えても、かなり期待値が高まっていたに違いない。
「いつも通りmayaを演じた。mayaって言うのはこの子の名前。いつも通りにやっていたつもりなんだけど、アーティストならではの感性っていうのかな、『なんだその腑抜けた声は』って怒鳴られた。怒鳴られてからも『そんなことない、いつも通りだ』って言ったんだけど、それがまた火に油だったみたい。その結果がこの痕。」
幸はアーティストが指摘した内容よりも、彼女が『カスタムドール』をする過程で歌唱を、しかも普段はプロが認めるほどのレベルで歌えていることに驚いていた。
(もしかすると、演劇とかそっち方面の才能があるのかも。それより、アーティストが客にいることの方が異質だ。その手の業界にコネがあると考えると、あの女店主はもともと芸能関係の出身?)
『カスタムドール』を利用する前、幸はサービスについて調べていた。無論、素人が調べられることなど検索エンジンにサービス名を打ち込むか、匿名掲示板サイトを見て回るのが精々。ダークウェブのようなアンダーグラウンドに潜り込んで調査する技術も度胸も無かった。
その結果分かったことは、『カスタムドール』はインターネットに広く出回っていないサービスであるということ。となれば、『スナック ずる休み』の女店主を知る第三者に斡旋してもらい、直々にQRコードを得るしか方法がない。
幸は邪推の域に入りかけた思考を止めて、話に戻る。
「前々からってことは、あのサービスって結構長いことやってるの?」
「私が中学二年の頃に始めたから、もう三年になる。」
幸の胸がざわついた。思惑の外から投げ込まれた答えに一瞬たじろぐが、すぐに取り繕う。
「待って、私はサービス自体の歴を聞いたんだ、勤めた歴を聞いたんじゃない。」
「あのサービスは私とあの人だけでやってるの。勿論、あの人は予約管理とか私のコーディネート一式の手配とか裏方が専門で、現地に行くのは私だけ。私がいなければ成り立たないサービスなの。つまり、私が勤めた年数イコールサービスの歴と同じ。」
言葉が出なかった。『カスタムドール』事態の異質性は承知しているつもりだった。しかしそれは、あくまで女店主が統括するサービスの、数ある従業員の一人であるという、ある種の常識からは逸れないものだと思っていたからだ。
高時給の代わりに自らの身体を使う事に、共感できずとも理解は示せる。彼女がそれを自らの意思で選択したのであれば、幸には口を挟む余地などない。
しかし、これではまるで。
(彼女のために、サービスが作られた。)
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