8-1-2


 以前と同じ乗り換えを行ったはずなのに、なぜ初めて来たように見まがうのか。絶えず形を変え続ける人間迷路に視界を奪われながら、案内板を頼りに北口の改札を目指す。仕事終わりに尾行した時以上の疲労が身体にのしかかり、今にも身体を持っていかれそうだった。

 

 駅の出口横に店を構えるおむすび店近くでスマホを取り、地図アプリに目的地を入力する。目的地までの経路ほぼ真っすぐ。唯一の曲がり角の位置を記憶し、幸はスマホをポケットにしまった。

 

 この時期は夕方を過ぎてもまだ明るく、夜と呼ぶにはいささか物足りない。それでも街並みは昼間の装いを一転し、裏の顔をあらわにしていた。狭い路地を進めば進むほど、昼間シャッターで閉められていたであろうお店が賑やかしく看板の明かりをともしている。四面表示のスタンダードなものから、安いビニール提灯まで、格式も時代も混ぜ合わせたような異彩の飲み屋街と化していた。太陽を避けていたものたちが、月明かりのに照らされ本性を表す。これが、本来のこの街の顔なのかもしれないと思った。

 

 幸は客引きの手を避けながら、目的のスナック路まで進んだ。様相は次第にネオンライトの赤紫へと変色し、先ほどのような気安い雰囲気は無くなった。看板は怪しく輝り、錆びれていた外壁が妖しい色の背景に溶け込む。あれほど閑散としていた裏路地が、初めからそこにあったかのような馴染みの老舗の面持ちで幸を迎え、まるで獲物を狙い、値踏みされているような緊張感があった。

 

 『スナック ずる休み』の看板が頭上で青白く光を放つ中、幸はドアハンドルを引いた。店内には奥に伸びるカウンターテーブルと背もたれのないカウンターチェアが数席。テーブル席は設けられておらず、カウンターチェアと通路の間は人が一人通れるだけのスペースしかない。誰一人客のいないお店の中で一人、退屈そうにマウスホイールをスクロールしながら紫煙をまき散らす女がいた。黒いシャツの上に着られた白い襟シャツ。襟が張りよく羽折られ縦にプリーツが浮かび、ルビーを思わせる六角形の真紅のカフスが情熱的に燃えていた。幸の存在に気付いた女は首を傾け、やや黄色がかった眼鏡越しに幸を覗いた。淡い照明の灯りが反射し、右耳に打ち付けられた白銀のピアスがねめつけるように煌く。

 

 「やっと来たか。もうそろそろ営業時間になるとこだったよ。」

 

 開口一番何を言うかと思えば、出てきたのは理不尽な悪態だった。女の視線に圧されそうになるのを堪え、幸は彼女の正面に位置するカンターチェアに座った。

 

 「こっちはメールを見てからすぐ来たんですけど。場所も時間も書かれていないあのメールからここまで辿りついたことに感謝して欲しいです。」

 

 「別に、来なければそのままメールの内容通りにするだけだよ。心苦しいけどね。」

 

 「あんな文面を送り付ける人から出る言葉じゃないですね。」

 

 女は幸の言葉に鼻を鳴らした。眼鏡をケースにしまいタバコをガラスの灰皿に擦りつけると、すぐさま裏手に引っ込んだ。少しして、氷の入ったシャンデリアのような装飾のロックグラスを二つ手にして戻ってくると、棚に並ぶウイスキーの中からアードベックの十年ものを手にした。マカライトグリーンの瓶から琥珀色の液体が注がれ、氷は音を立てて身を溶かす。

 

 女はグラスの一つをこちらによこすと、グラスを合わせることなくすぐさま一口目を味わっていた。幸もつられて一口飲むが、アードベック特有の癖の強いピート香と痺れるような喉の刺激にやられ、思わずむせてしまう。幸は、久しぶりに口にしたクセモノとの再開に、初めて出会った時の痛烈な思い出が蘇る。

 

 「なんだ、ふてぶてしい顔して随分可愛らしいじゃないか。別に無理して飲まなくていいよ。」

 

 「無理なんか、してませんよ。ただ長らく飲んでいなかったので、身体が驚いただけです。」

 

 女は気にせず二口目を飲み、幸も追いかけるようにもう一口飲んだ。今度は上手く抑え込めた。

 

 「この酒はいい。酷くどうしようもない日でも、一杯飲み干すころにはどうでもいい日に変わる。どれだけつまらない話を聞かされていても、どれだけ退屈な時間が続いても、その期待値のボーダーを引き下げてくれる。それだけじゃない、後腐れが残ると面倒な物事も、どうにでもなると思わせてくる酔いがある。」

 

 「酔い任せの行動は身を亡ぼす結果にしか繋がらないと思いますけど。」

 

 「人間ってのは臆病だからさ、行動の責任や理由を何かに押し付けないと行動できない生き物なんだよ。それが自分に向けば鬱になり、他人に向けば私怨を生む。そんなことになるぐらいならいっそ、責任も何もかも、全て酔いに任せてしまった方が楽なんだよ。お酒は人間ほど執念深くないからね、二日もすればどこかに行っちまう。」

 

 遠くを見つめる女の姿が、過去に経験した背景を物語っていた。幸は、艱難辛苦を乗り越えた人間の、今もなお耐え続けている人間の生き様を垣間見ている気分だった。うっすらと流れるジャズソングを聞きながら、グラスの氷を回し、躍らせた。

 

 女が二杯目のアードベックを注ぎ終わったタイミングで話は唐突に本題へと戻される。

 

 「あんた、アイツに何をした。」

 

 カウンターテーブルを間に一枚挟んでいても、女と幸の距離は一メートルに満たない。女の視線が幸の喉元を正確に捉え、両手で絞められてようにさえ感じる緊張感があった。気道は開いているはずなのに、思うように息ができない。幸は興奮する心臓の鼓動を誤魔化すように、残りのアードベックを呷った。今にも咳き込みたくなる衝動を抑え込み、体中に染みわたるよう促すと、女の視線を身体の火照りでやり過ごした。

 

 「アイツって誰の事?」

 

 「しらばっくれるな。お前が注文した商品の事だ。」

 

 「カスタムドール、でしたっけ。あれって誰が名前考えたんですか?随分とマニア向けの名前にしましたよね。」

 

 「茶化すなよ。言っただろ、そろそろ営業時間だ。」

 

 「ここで酒を飲んでいる以上、私も客なのでは?」

 

 「いいから答えろ、アイツと何があった。お前達はどういう関係だ。」

 

 答えに困る質問だ。幸はその答えを知らないし、知りたいと思っている。そんなことはつゆ知らずと不躾に踏み込んでくるこの女が、どうにも癇に障った。

 

 「客と店員、あなたの言い方をすれば商品との関係ですよ。それ以上でもそれ以外でもありません。メグさんとはあの夜初めて会って喋った、それだけです。」

 

 幸は突っぱねるように、緊張を気取られないように言った。動揺は雄弁に答えを伝えてしまう。いつもの幸なら、女の眼光一つで簡単に息を乱していただろう。良くも悪くも、女の好みの酒が功を奏した。

 

 女は二杯目のアードベックを飲み終えると、ポケットから赤い箱を取り出し、その中の一本を取り出し火を付けた。薄っすらとアルファベットの記された純銀のジッポライターをカチっと鳴らし、たっぷりと吸い込んだ後、噛みしめるように吐き出した。

 

 「メール、読んだよな。」

 

 幸の喉元にナイフが押し込まれた。


 切れ時の悪い錆びたナイフを、執拗にえぐりこませてくる。


 幸は首に手をあて、何もないことを確認した。あったのは首筋から流れる汗と、うるさく鳴る脈の音だけ。


 女は指に挟んだタバコを、顔を覆うようにして口に運び、その間も一切幸からにらみを外すことない。酸素が足りないと脳が訴えるが、まるで大蛇に締め上げられてしまったかのように身動きがとれない。

 

 「次はない。答えろ、あいつと何があった。」

 

 女が視線を外すと、金縛りから解かれた幸はたっぷりと息を吸い込んだ。恐ろしい、と生まれて始めて実感した。この人を敵に回してはいけない、この人種と関わってはいけないと、平穏無事を享受してきた二十六年の歳月がそう告げていた。嘘を付けば、見抜かれる。だが、幸には答えられるだけの真実がない。いまだ幸にとって不明瞭で不明確なそれを伝えても、納得してはもらえない。

 

 私は、彼女の、何でありたかった?

 

 張り詰める空気をかっさらうかのように、店内にクラシックが流れる。重圧が圧し掛かるような、低く厚みのある音は女の方から聞こえてきた。女は耳に直接打ち付けるような舌打ちとともにスマホを取り出すと、少し離れたところで背を向けて通話を始めた。

 

 「ああ…、それで…、分かった。後処理はこっちでやる。お前は帰って…いや、駅の近くで待ってろ、迎えをよこす。」

 

 幸を覗いた女の視線には思惑が潜んでいた。嘆息すると同時に、眉間を揉み、通話を終えるとこちらに戻ってくる。射抜くように込められた眼光はそこになく、店内のBGMが耳に届く程度には幸も落ち着きを取り戻していた。

 

 「話が変わった、今すぐ新宿駅に行け。そこでアイツが待ってる。ここに連れてくる前に、あいつを使い物になるようにして帰ってこい。そうすればさっきまでの質問はなかったことにする。勿論、メールの内容も取り下げる。」

 

 「えっと、それはどういう。」

 

 「仕事でへまをやらかした。これで今週三度目だ。これ以上は信用に関わるし、何より後始末をする私が面倒だ。いいからさっさと行け。」

 

 捲くし立てる勢いに圧され、幸は立ち上がって出入口へと向かった。この店から出られるなら願ったり叶ったりだ。

 

 「おい、金を置いて行け。」

 

 幸が飲んでいたロックグラスを指でつつく。

 

 「勝手に注いでおいて結構なことですね。おいくらですか。」

 

 「五千円。」

 

 「私、一杯しか飲んでないんですけど。」

 

 「こっちが被った損失に比べれば破格の安さだ。勿論、あいつを元通りにできないのであれば一桁追加して再請求する。」

 

 「とりあえず、現金持ってきてないんで、これを形に置いていくってのは駄目ですか?」

 

 ビニール袋を掲げてみせると、女はいぶかしむ視線を向けた。

 

 「なんだ、それは。」

 

 「エッグスチーマー v3です。半熟、固ゆで、温泉卵を同時に六個作れます。」

 

 女の視線が再びねめつけるものへと変貌した。幸はスマホケースからクレジットカードを取り出し、一割増しされた加算料金を支払ってすぐさま新宿へと向かった。

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