7-1
自分の選んだ選択肢は結局何だったのか考えた時、その答えは出てこなかった。幸は彼女の事を、少なくともどうでもいい人間とは認識していない。しかし自分の身可愛さ故に彼女との関係を終わらせたわけでもない。家にまで泊めておいていまさら彼女との関係を勘ぐられても、幸には言い訳の術を持たない。彼女の間違いを正したかったかと聞かれれば、それも違う。私には彼女の人生にどうだこうだと入り込むだけの資格も、価値もない。
鍵を回収してから彼女は一度もマンションには来ていない。毎日帰宅しては部屋の隅々の扉を開けてみるが、髪の毛一つ見つけることはできなかった。大きなキャリーケースもブレザーのリボンもピンクのエクステも黒のチョーカーも剥がれたネイルも残ってはいなかった。
幸は答えが欲しかった。彼女を家に泊めたあの日から、今に至るまでに辿った軌跡によって、彼女との間にできた関係が何か、何と称されるものなのか。レッテルさえ張り終えてしまえば、そういうものだったと自分を言い聞かせることができる。時折思い出してはさざ波のように小さく、優しく、何度も心刺されることも無くなる。訪れを知らせる春風が、じりつく日差しと蝉の音に塗りつぶされる頃には、何もかも元通りになる。この木偶の棒も、命令通りに動く機械ぐらいにはマシになる。
曖昧不十分な答えに意味はない。ただ、それだけだと確信できる唯一無二の名前が、欲しかった。彼女との関係に、この感情に名前を付けたかった。そうすれば淀み揺らぐ心を、名前の付いた感情に押し込むことができる。名前が付けば、そういうものだと立ち居振る舞うことができる。幸には何をどうすればいいか、どうすれば良かったのか分からなかった。歓喜もない、達成もない、失意もない、憐憫もない。たまたま偶発的に紛れ込み、何を残すわけでもなく、痕だけを刻んで消えていった彼女。
(消したのは、私か。)
彼女がコンビニに来なくなって一週間が経った。相変わらず幸は朝昼夜を問わず、予定時刻を余裕で超過するシフトを働きぬき、束の間の休日を過ごしていた。幸にとって久しぶりの二連休。翌日の勤務を考えずに、ただ一日を棒に振ることができる連休の初日。眩しい朝だと思ったら昼で、買い置きしてあると思ったカップ麺は底をついていた。ペットボトルのお茶と、スティックコーヒーが二本にボトル一杯のキシリトールガム。これでも半日は過ごるが、どのみち買い出しに行くことには変わりない。身体は栄養を欲し、胃に響く腹の音を鳴らして幸に訴えかける。
「行くか、外。」
灰色のスウェットを勢い任せに脱ぎ、折れたタオルケットの上に散らかした。幸はジーンズと白のプリントTシャツに着替え、洗面台で簡単に身なりを整えるとマンションを後にした。着替えの途中、何度も出前アプリに手を伸ばしかけたが、今は一秒でも早く家から出たかった。時折かおる紫の香水から目を背け、幸は玄関の扉に鍵を閉める。
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駅前には数々の飲食店が並び、テイクアウトを目的に長蛇の列ができている。駅と駅前スーパーの駐輪場は満車になっており、幸は今日が土曜日であることを察した。幸はポケットのBluetoothイヤホンを耳にさし、宗教勧誘らしきチラシを配っている集団から目を背けて駅構内に向かった。音楽の流れないイヤホンから「少しお時間よろしいですか」とはっきり聞こえたが、気づいてない振りを装った。澄ました顔で、どうでもいい人間をやり過ごすのはいとも簡単だった。
ドラッグストアで買った栄養ドリンクの空瓶をゴミ箱に捨てようとしたら、電光掲示板下にあるゴミ箱が撤去されていた。幸は仕事柄、ゴミ箱を捨てたい人間の気持ちは痛いほど理解できた。
長野県民にとってゴミの分別は生活する上での必須スキルといっていい。例え段ボールの切れ端一つさせ燃えるごみの袋に入れようものなら、地方自治体から容赦なく電話が掛かり、散々愚痴を言われた挙句、回収にくるよう命令が下る。ゴミ袋に名前を書かないことを知った時は本当に驚いた。案の定、大学の知人はろくに分別もせずゴミを捨てており、現場を目撃する度に胸がざわつくのを抑えるのに必死だった。
(はぁ、しょうがない。)
幸は後ろのポケットに空瓶をしまい、そのまま一番線へと向かった。階段を下るとちょうど電車が停まり、各車両に二、三人の塊ができている。幸は後ろから追いかけるように電車へと流れ込むと、案内表示には『快速』とあった。目的地は特に決めていなかったが、一駅先のデパートへ向かうことにした。一つ空きの席には座らず、じんわり熱い踵をかばうように出入口のパイプへと寄りかかる。
リンコンリンコン、ピロロロロ、プシュー。扉を閉める前の警戒音にしては実に愉快だった。ゆっくりと流れる景色の、代わり映えのしない家々の背後にそびえる木々の一点を、窓越しからじっと眺めていた。地元では珍しくもない緑が、今は無性に恋しかった。この場の誰一人、私と同じ景色を目に映す人間がいないことが、ほんの少し優越をもたらした。
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後部車両から降りると既にエスカレータに並ぶ昇り客で溢れかえり、乗り口は人で隠されていた。暗黙の了解であるかのように、左右にあぶれた客が少しずつ列に並ぶ人間の隙間隙間に収まっていく。幸は人込みを避けるため階段を利用したが、当然上がった先の駅ホームも人でごった返していた。改札を抜けるとやや流動的になったが、売店にもパン屋にも駅窓口にも人がうじゃうじゃと鬱陶しく蔓延っている。唯一、タバコ専売店のご婦人だけは退屈そうに新聞を読みふけっていた。これほどの雑踏をもってしても、彼女の集中力は乱せないらしい。羨ましい限りだった。
駅ホームの出ると、開け放たれた解放感によって少しだけ息が楽になった。お昼のピークが過ぎても、目に付くお店の外には人がちらほらといる。幸の空腹もピークに達し、今すぐにでもお腹に何か入れたかった。歩道タイルの熱に蒸し返され発汗し、追い打ちとでも言わんばかりに路上の拙いギター音が頭を刺激する。幸は乗車前に取り外したBluetoothイヤホンをもう一度かけなおした。いつもより音量を盛大に上げ、それ以外の全てを吐き出すように音を流し込む。かつて、同じく路上で演奏していたシンガーソングライターの、荒々しかった頃のギター音源を選曲した。
(ああ、この荒れ具合がちょうどいい。)
この音だけをひたすら聞いていたいと思わせるギターは、ここにいる私以外の存在を全て吐き出させてくれた。
デパートの地下一階にある喫茶店へたどり着き、ブレンドとBLTサンドイッチを一つ購入し席を探す。駅地下にも関わらず静けさを保った店内はまさに憩いの場だった。ロータリーに面した喫茶店からは影を被った真黒のタクシーと、喫煙スペースで紫煙を吐き散らす日陰者の姿が見える。一階で見た光景が嘘のように、寂れた情景だった。
全席に備え付けられた電源タップにはほぼ全ての人が何かしらの機器を接続していた。パソコン、スマートフォン、ゲーム機等を繋ぎ、器用にもトレイに引っかけることなく操作している。先ほどまで乗っていた電車の様相とさほど変わりなかった。端のカウンター席にトレイを置くと、ポケットの中身を全て取り出した。スマートフォン、イヤホン、鍵をトレイの左端に寄せ、紙ナプキンを上から被せた。これで食事に集中できる、と座り込んだその時だった。
「ぃつ!」
背もたれの短いターンチェアに突っぱねられるように立ち上がる。しかし椅子上には何も乗っておらず、おかしいなとさすったお尻に違和感があった。
(…しまった、空瓶どっかで捨てるの忘れてた。)
醜い舌打ちの衝動を奥歯で噛み潰し、お腹にかかった力を歯の隙間から息と共に抜いていく。自分の感情が、些細な苦痛に対して過剰に反応しているのが解る。激情を受け止め、咀嚼し、受け入れるだけの回路が働いていない。幸は空瓶を紙ナプキンの下に隠し、改めて座席に座るとすぐさまブレンドを一口飲んだ。口いっぱいを焦がす苦味に意識を集中させ、溜飲と共に飲み下す。
(クソっ。)
下唇の裏側を小さく噛み、人差指に親指の爪を食い込ませるようにして拳を握った。薄っすらと朱色に染まった爪痕を見つめ、ため息がこぼれる。きっと、人間には『ただムカついたから』という行動原理のみで感情を発露するべき時がある。ただ、簡単にそうすることができないから、こうして自分の身体を傷つけることで誤魔化し、循環させる。私の中は、もうすでにいっぱいいっぱいなのだろうと、そう思った。
結局、BLTサンドイッチの彩りも味も楽しむことができず、適当に咀嚼して流した。空腹を満たし、ブレンドの後味を取り去るために飲んだ水の味だけが、いつもよりひんやりと冷たく沁みた。
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