6-2
ガチャ。
扉が開いた。
カチリ。
扉が閉まった。
耳を澄ます。微かだが、少しずつこちらに近づいてくる音がする。その軽さから床が軋むことはなく、靴下越しからは汗で張り付くペタ付き音も聞こえない。ほんの少し、布の擦れる摩擦音がその存在の実在性を明らかにする。
扉が開いた。
玄関ほど大きく音を立たなかったが、油の足りていない蝶番からギーギーと悲鳴が聞こえる。悲鳴が鳴りやむと、先ほどの摩擦音がはっきりと耳に届くほど、その存在は現実味を帯びた。カシャっと音が響き渡る。このワンルームの静寂には似合わない残響を合図に、幸は立ち上がった。
「やっぱり、ね。」
彼女は驚きと焦りに満ちた表情を浮かべ、手にしていた紙切れを落とす。美麗で冷淡だと思っていた彼女の内側にも、こんな感情が潜んでいたことに幸は驚いていた。真っ黒な黒髪に黄金の瞳、ブレザー姿に身を包んだ彼女はまごうことなく、彼女だった。以前部屋を訪れた時と寸分たがわぬ姿で、瞳の奥に映す幸の姿だけが濁っていた。
「どうして、だって」
「だって、仕事に行ってるはずだった?」
「…気づいてたの」
顔を隠すように束に掴んだ髪を寄せたが、細長い髪の隙間から表情が伺えてしまう。無意味と分かっていても、覆い隠さずにはいられなかったのだろう。
「いや、正直昨日見た限りでは確信できなかった。カードゲームしている時も、私と話している時も、全くの別人にしか映らなかった。」
「なら、ならどうして」
どうしてわかったのか、そう言いたげな表情だった。彼女の顔が困惑の表情に歪む。どこから話したものかと考え、尾行をした朝のことを話始める。
「前から不思議には感じていた。何故、私の勤務終わりを見計らったようにあなたが現れるのか。偶然で片づけてしまうにはあまりに不自然だった。数日前、あなたが私の深夜番の終わりに店に向かったのを見つけたの。私は既に駅前のお店で朝食を食べていて、急いでお店に向かうあなたを見つけて尾行した。あなたは随分隈なく店内を覗いては、何かを探しているようだった。しばらくしてお目当ての人がいなかったことを確認すると、お店を後にした。今思えば、あの時もかなり急いでお店に向かっていたよね。」
「……」
返事はなかった。視線を逸らしたことを肯定と受け取り、話をつづける。
「あれは、私があの時間、お店で勤務していることを知っていたから。でも私はシフトを教えていないし、シフト表はマンションの引出しにしまってある。勤務先に身内がいてシフト表を見たって線も考えたけど、可能性は低いと思った。ならどうやって?。」
幸はおもむろに彼女に近ずくと、制服の上から探るようにまさぐった。確信はあった。しかしもし外れていたらと思い手が強張る。彼女はまったく抵抗をせず、ただ流されるまま。硬い膨らみに指の腹が触れると、幸はポケットの中に手を入れ、お目当てのモノを引っ張り出した。
「これ、私のだよね。」
頷きはしなかった。しかし否定もしなかった。ただ、自分の身体が崩れるのを抑えるように、強く腕を抱いた。握りこまれた左腕から切り傷のように皺が浮かび上がり、なんとも痛々しかった。
「シフト表を手に入れる方法が
わざとらしく鼻を鳴らしてみるが様にならない。
幸がはじめて本物のフレンチトーストを食べたあの日以外、考えられなかった。シフト表は貰った時点でスマホに撮り、鍵がしまってある棚と同じ場所に保管している。あの甘ったるいメープルシロップの香りの裏で、彼女は鍵を盗み出し、シフト表をカメラで撮ったのだろう。
そんなことにすら今のいままで気が付かず、心のどこかで彼女を信用していたのだろう。都合よく利用されたことよりも、都合のいい女でいたことにこれっぽっちも気が付かない愚かさに嗤う。
「でも、じゃあ、『カスタムドール』の件は、あれはどうやったの。だって、あれはあの人からじゃなきゃ利用できないはず。」
「言ったでしょ、尾行してたって。」
「もしかして、ずっと…」
「そう、あのお店に辿り着いて話を聞けたのは、これまた偶然だけどね。」
その時点で腑に落ちたのか、彼女はそれ以上何も言及しなかった。
「『カスタムドール』の話を聞いて、あなたのことだと思った。スナックの女性の口ぶりや、お店の二階部屋に入っていくところを見たのは勿論、普段のあなたからは毛色の違った装飾の数々。そして、『カスタムドール』の内容を知って。」
金色の長い髪、派手なネイル、宝石の付いたチョーカー、毒々しい花の香水。どれも彼女に似つかわしくなく、しかしその全てが彼女を飾っていたモノなのだろう。彼女を買った、別の誰かの性癖と欲望がそのまま持ち込まれていたのだ。彼女が受け入れた女達の、理想を体現した残滓が。
「メグという女性が来た時、内心ほっとした。ああ、あなたじゃ無かったって、期待した。だって、あんなに表情をコロコロ変えられるなんて、普段のあなたからは想像もできなかった。だから、こんな仕掛けをしなくてもいいんじゃないかって。鍵の件はまた今度話し合って解決すればいいやって。今日だって、あなたがここに来なければいいと、何度、思ったか。」
彼女は再び視線を落とし、髪を下ろした。今にも泣き出しそうな彼女を見ながら話続けるのは、苦しかった。彼女の、彼女との心の距離が近くなればなるほど、荒んでいく。望んだ結果とはかけ離れた結末に、備えていた心の圧壁も崩れてしまった。
ごめんなさい、ごめんなさい。
力なく繰り返される謝罪の声が幸に突き刺さる。鼓動の跳ねる音がはっきりと分かった。頭から血の気が失せると同時に、やりようのない後ろめたさと不快感が押し寄せる。幸には、この状況が耐えられなかった。一刻も早く楽になりたいと、ただそれだけしか考えられなかった。
「警察にも学校にも通報はしない。あなたの商売にあれこれ言うつもりもない。だから、もう、これで終わり。」
彼女の崩れた顔面があらわになり、流れ落ちた涙の跡がやけに鮮明だった。袖口でこすりつけた目尻が赤く腫れ、瞳が大きく輝いていた。彼女は不確かな足取りでリビングを後にした。幸はしばらく動くことができず、彼女の残滓を目で追った。床に流れ落ちた水滴を一つ、二つと手で擦り付けるように押し広げた。何度も、何度も。
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