5-3
すっかり夜がふけ、バルコニーを隔てるガラス扉から月明かりが入り込む。朝陽に負けず劣らず輝いていたが、朝陽のような煩わしさはなく、いつまでも目を奪われる。時間がたち、酔いが本格的に回り始める手前で翠の家を後にした幸は布団の上で片膝を抱えたまましばらく月明かりを眺めていた。酔いに任せれば、頭痛と引き換えにすやすやと眠ることができる。しかし、そうはしなかった。
充電器に刺さったままのスマートフォンを取り、メッセージアプリを開いた。チャット履歴を何度か下にスライドさせる。アイドルのジャケ写からどこかの風景写真にアイコンが変わっていて、見つけるのに時間がかかった。
『不来方
チャット履歴には『はーい。』と、今度帰ってきた時に買うお土産の催促文に返事をしたところで終わっている。軽々しく嘘をついた自分を見て、少しだけ頬が緩んだ。
幸は『音声通話』、『ビデオ通話』から『音声通話』ボタンを押した。アプリリリース当初から変わらない着信を繰り返す。
(こんな時間に起きてる訳、ないか)
四度目のコールが終わり切る間に、音が途切れた。
『…もしもし』
声の主は不機嫌だった。寝起きのようなワントーン低く、くぐもった声には生気がない。就寝前、眠りにつく手前だったようだ。幸は久しぶりに話す妹との接し方も、夜分に通話を始めれば大抵の人間が不機嫌になることを忘れていた。
「よっ、元気。」と軽い調子で初めて見たが、失敗だった。
『なに、こんな時間に。』
妹の口調は鋭かった。当然の反応だ、と割り切って会話を進めてもよかったが、アルコールの入った頭は正常に働かない。「何してた」、「今高校三年生だっけ」、「大学はどこ受けるの」。出てくるのはそんな愚にもつかない内容ばかり。四年の歳月と、神奈川と長野の距離を埋めるには、到底足りなかった。
『あのさ、そんなこと聞くためにわざわざ電話かけてきたんじゃないよね。』
無駄話に付き合わされた妹の我慢がピークに達していた。幸は諦めて本題を切り出す。
「もしも、もしもの話だけどさ、蒼福は友達が夜の仕事、身体を売るような仕事をしていたら、どうする。」
幸は姿勢を正し、気付けば膝を畳んで正座していた。緊張し張り詰めていたせいもあって、どこか厳かな雰囲気のまま会話が進む。蒼福の言葉を待つが、なかなか次の言葉は出てこなかった。幸はスマートフォンを離し画面を確認する。どうやら通話は切れていないらしい。『通話時間 05:03』とまだ十分と経過してないことに驚き、脱力した。
『ねえ、それってお姉ちゃんの事だったりしないよね。』
『大丈夫だよね、変なことに関わってない?』と疑り深く聞いてくる。違う、大丈夫だから、ニュースでやってたから聞いてみただけ、と何度も否定したが、それでも若干心配の声音がする。それだけ家族に心配をかけている、ということなのだろうか。幸は少しだけ心が傷み、幸に対する情がまだ少なからず残っていることに安堵した。
(心配性なところは変わってないな。)
『…お姉ちゃん、なんか笑ってない?。』
「ないない、ほんとほんと。」
『いい加減なんだから、もう。』
酔いが覚めてきたせいか、肌寒いことに気が付いた。網戸から流れ込む隙間風に身を震わせるが、立ち上がって閉めることはしなかった。
『それで、さっきの質問だけど。』
「うん」
『力ずくで辞めさせる。』
寧々と翠とは正反対の答えに、言葉が詰まる。優しい彼女のことだから、最終的には救済といった類の答えを導くとは予想していた。しかし、はっきりと、よどみなく答えたのは予想外だった。
『私なら、友達にそんなことをしてほしくない。だって、絶対に間違ってるよ。未成年でしていいことじゃないし、なにより大人になってから後悔する。並々ならぬ事情があるとしても、それは自分を穢してまでするべきことじゃない。もしそれが、自分以外の誰かのせいでそうなってるなら、そいつに全部償わせてやる。だって、好きな人ができて、結婚して、子供作ろうってなった時、絶対思い出すよ。やらなければよかったって、絶対に。そんな思いするぐらいなら、学校でも警察でも使って力ずくで止める。』
その言葉の力ず良さに圧倒され、感嘆の声が漏れる。昔から、自分が間違っている思った事には頑として曲げない精神力があった。その性格は時として敵を作り、学校での立場を危ういものとしたこともある。ただ、それだけでは終わらない胆力があるからこそ、友達から慕われ、家族からも愛されているのだろう。
「そっか、蒼福らしいね。」
『自分勝手かな。』
「いいや、それでいい。ありがとう、答えてくれて。」
少しだけ、息を吐いた。吐いた途端、鼓動が早くなるのが分かった。無意識に呼吸が浅くなっていたらしい。
それからは何気ないこことをひたすら話し合った。受験に向けて予備校に通いだしたこと、お母さんに県内の大学に進学して欲しいと言われていること、父の血圧が高くなり塩分制限の食事に変わってからいつも夕飯が味気ないこと。基本全て実家の話だったが、久しぶりに帰省している気分だった。
蒼福から欠伸が漏れ聞こえる。通話時間は『1:05:12』。既に一時間以上話し込んでいた。
「ごめん、そろそろ切るね。今度、お土産もって帰るから。」
『東京バナナ以外ね。』
「あれ、嫌いだっけ?。」
『美味しいし、バリエーション豊富だけど、何十種類も流石に食べ飽きたよ。』
「りょーかい。」
「またね」と言って通話を終ろうとする。どちらから切るべきか、と数秒空いてから、幸の方から通話を終えた。スマートフォンを端に追いやってから、倒れるように布団に寝た。剥がれ落ちた錆を下敷きに、夢心地のまま眠りについた。
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