5-2


 寧々を駅まで送り、幸はマンションに戻った。

 

 オートロックを開け、階段をゆっくりを上がっていく。程よく消化され、胃が苦しくない程度に満たされると不意に大きな欠伸が口いっぱいにひろがった。抑え込めない眠気が、じりじりとせり上がってくる。

 

 「あ、幸さん。こんばんは」

 

 生駒翠が、いた。

 

 幸は眠気に引っ張られる瞼を必死で押し上げた。布団を思い浮かべていた脳に大量の血が流れているのがわかる。急いで手櫛をすると、絡まった髪が何本か抜けた。丸くなった背筋を伸ばすと、気泡が弾けて音がなる。そのすべてが恥辱に感じ、急速に意識を覚醒させていく。

 

 「ああ、翠さん、こんばんは。今日はバイトなの」

 

 「はい、それで帰ってきたところです。幸さんも随分遅かったようですけど、お仕事ですか。」

 

 「いや、私は遅めの晩御飯を食べに行ってた。帰って寝るところ。」

 

 「そうですか…」

 

 翠は何やら考える素振りをした。左手に下げられた皺のよったビニール袋を見ては、ぼそぼそと呟いている。

 

 「幸さん、もし良かったら、このあと家上がっていきませんか?」

 

 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 

 「どうぞ、散らかってますが。好きに座ってくつろいでください。」

 

 「ああ、うん。ありがとう」

 

 翠はリビングの電気を付け、奥にあった空気清浄機を稼働させた。同じマンションの隣フロアということもあり、間取はほぼ同じである。玄関からリビングまで向かう道が、幸は右手なのに対し、翠は左手にある。幸は慣れた感覚と、それによって予想される景色に翻弄され、違和感を押し付けられた。

 

 以前訪れた時と同じように、足元には十分な踏み場が備わっている。光沢のある、艶やかなフローリングだ。幸が部屋を訪れて一か月。記憶が朧気で、その分初めて訪れるような新鮮さがあった。真っ白な机の上にはノートパソコンが一台と一枚の板で仕切られた一体型の棚に、二段にわたって参考書と茶紙のブックカバーが包装された本が並んでいる。自重で倒れる本を支えるためか、棚の端っこにはカラフルな三色のペンケースやウサギを模した純銅のオブジェが配置されている。

 

 リビングにある机も、簡易型の四つ足テーブルも、小さなテレビの置かれたラバーウッドのサイドテーブルも、どの机上も整然としており、光に照らされ輝きを放つ。同じ間取のせいか、脳裏に記憶された幸の部屋と翠の部屋が頭の中で重なり、劣等感が滲み出てきたので考えるのをやめた。

 

 幸は気にする必要のない足元を確認しながら進んだ。可愛らしい黄緑色のクッションは巷で『人を駄目にするクッション』と呼ばれているものだった。自室のクッションに座る要領で腰をおろすと、思いのほか沈み込むそれに身体が九十度傾いた。危うくでんぐり返しをしてしまうところで反射的に肩肘をついて制止したたが、一部始終をばっちり捉えられてしまい、表情に困る。

 

 「それ、ビックリしますよね。私も最初にやりました。」

 

 翠があのころの思い出を振り返るように幸を見るので、幸は頬をひきつらせた。翠は木製のトレイをテーブルの上に置く。縁の広いハイボールのカットグラスには四角くかたどられた氷、白く底の浅いお皿には種々のナッツと元々入っていたであろうミックスナッツの袋が輪ゴムで止められている。

 

 ビニール袋から取り出したのは缶酎ハイだった。色とりどりの果物の断面から、果汁が弾け飛ぶようにイラストされている。「どれにしますか」と聞かれ、どれでもいいと答えそうになっていい淀んだ。とりわけこれといったものが無かったので、唯一半分に斬られなかった『ぶどう』を選ぶ。翠に以外と言われ、何がと聞こうとしたが、翠の手元に置かれたシャインマスカットを見て腑に落ちたのでやめた。

 

 「それじゃ、かんぱ~い」

 

 カチッっと音を鳴らし、グラスの氷が滑る。ほんのり色づいた水底から浮き上がる気泡が、氷の間を抜けてパチパチと弾けた。重厚なグラスの、カットされてできた凹凸に指を引っかけて一口飲む。喉を広げるように刺激する炭酸と、いつまでも残る果汁の甘味が先に押し寄せ、最後にはアルコールの苦味がそれを追った。

 

 「幸さんってお酒はよく飲まれるんですか?」

 

 「よくって程は飲まないかな、一度に飲める量も少ない。ウイスキーが好きなんだけど、ストレートで飲むことはほぼないし、ロックで飲む時もゆっくり、少しずつ飲む感じ。」

 

 「へ~」とさも以外そうに頷くので、以外かと聞いてみた。

 

 「私にとっての幸さんって、第一印象が『大人の女性』って感じだったので、お酒にも強いのかと思ってました。」

 

 「翠さんの『大人の女性』像って、もしかして酒豪みたいなの想像してる?」


 顎に手を当て、唸るように考える。その姿が、また愛らしいと思ってしまった。

 

 「そうですね、読んでる小説のイメージに引っ張られている部分は大きいと思いますけど。ワインボトルを空けても決して男の前では酔いを見せない、逆に酔いつぶれた男に向かって『あら、案外可愛いところもあるのね』って言い捨てる、そんなイメージです。」

 

 「…私、そんな上品ぶったやつに見えてたの。」

 

 芝居をうった翠の声は大人ぶる女性をイメージしての事だろうが、いかにもマダム、といった言葉がしっくりくる重厚感のあるものだった。暗に老けていると言われている気がするのは、自分の声に自身が無かったからだ。


 「あくまでイメージですよ。そもそも小説の舞台はアメリカの架空都市で、時代も千九百八十年1980年代頃の話ですから。今風に変換するなら、そうですね、酔ったノリで隣の席にダルがらみしてきた飲みサークルに、ジョッキ一気飲みを挑んで百人切りするとか。」

 

 「…そっちの方がもっとヤダ。」

 

 「冗談ですよ、冗談。」

 

 翠のグラスは既に半分以上が空になり、新しい缶に手を伸ばしている。過度の飲酒で痛い目を見た翠だったが、未だ顔を赤らめる様子もない。生来飲み上戸なのかもしれない。

 

 「イメージを壊すようだけど、私はウイスキー以外全然飲まないから。ワインやビール、酎ハイだってロクに知らない。あの時も自分が知っていたお酒と知識を振る舞って、それが嫌に饒舌だから、お酒すべてに詳しいと錯覚しただけ。特別お酒に強くもなければ、嗜好できるほど舌も肥えてない。」

 

 誰かをほめるより、自らを陥れる言葉ほどよく浮かぶ。まだ一口分しか流れていないアルコールがよく働いた。

 

 クス、っと翠が笑った。ごめんなさいと口元を隠し、手のひらで謝った

 

 「じゃあ酎ハイに関しては私の方がお姉ちゃんですね、幸さん。」

 

 幸は口元まで差し掛かったグラスをピタリと止めた。久しく耳にしていなかった言葉を前に、似ても似つかない中学の頃の妹の姿を重ね合わせ、呆ける。大学卒業前に引っ越しと荷造りを兼ねて帰省して以来、妹とは顔を合わせていない。別に仲が悪いとか腹違いの愛人の子供だとか、特別な理由がある訳じゃない。大学に入学が決まり、千葉へ引っ越すと話した時は泣いて拗ね、自室に引きこもるぐらいには想いあっていた。夏休みに教習所へ通うため、地元に帰省した時は毎日一緒の布団で眠った。進級するにつれ頻度は減ったが、それでも大晦日とお正月はお土産をもって帰省した。

 

 中学に上がった頃から用がある時以外、幸の部屋に来なくなった。一緒にお風呂に入ることは無くなり、よく毛先がはねると嫌っていた長い髪を梳かすことも無くなった。寂しい、とは感じなかった。ただ妹にも『果敢な時期』が訪れたのだと思った。

 

 社会人になってからは仕事を理由に一度も帰省しなかった。片道三時間かかる高速バスも冷蔵庫の中の消費期限を気にするのも戸締りをして貴重品を荷造するのも、全てが億劫で、頭の中は明日の仕事のことで埋め尽くされ、その頃には独りでいる自分にも、独りで心をすり減らす自傷にもにも、鈍感になっていた。壁を背に、膝を抱いてぼんやりスマホを覗いていると、ふと、腕にくるまっていたはずの白いつむじ頭を想いだして、涙が頬を伝ったのを覚えている。

 

 「幸さん?」

 

 どれほど遡っていたのだろう。翠の声には心配の色が見えた。

 

 「ああ、えっと、最近飲んでなかったから胃がビックリしたのかな。少し酔いが回りやすいのかもしれない。」

 

 幸はグラスを呷り、手で顔を扇いだ。炭酸とアルコールを無理に押し込んだせいか、喉が張り、胃がもだえる。たっぷりと酸素を

 

 一、二、三、四と指折り数える。妹が高校生の域に達していることに気が付く。

 

 (そうか、もうそんな歳になってたのか…)

 

 彼女の事が思い浮かび、必然寧々との会話が思い起こされる。幸は缶酎ハイの残りをグラスに注ぎ、アーモンドを一粒だけかみ砕く。躊躇ためらいを流し込むように、また一口グラスを傾けた。

 

 「翠さんはさ、友達がもし夜の仕事、身体を売るような仕事をしていると知ったら、その子に何て言う。」

 

 翠は幸の瞳を覗いた。それが真意かどうか見極めるためだろう。幸の言葉に、アルコールの不純物が含まれていないと分かると、持っていたグラスを置いた。

 

 「そうですね、私は、待つと思います。」

 

 「待つ?」

 

 「はい。相手が話してくれるまで、待つと思います。」

 

 耳に髪を掛けると、その憂い気な表情が鮮明になった。

 

 「もし何か事情があるなら助けになりたい。でも、本人が自らの意思で選んで、それに満足しているなら、変に詮索して介入するのは避けたいんです。例え、心配が理由で介入したとしても、どこかで関係に亀裂が入るし、今まで通りには話せなくなると思います。冷たい人間と思われるかもしれませんが、私は今が崩れるような事をしたくない。行動することで、少なからず改善するかもしれないけれど、そのリスクを侵す覚悟は、私にはありません。」

 

 翠の言葉ははっきりとしていた。若干の後ろめたさは孕んでるものの、強固な信念のようなものを感じる。献身的な人間からすれば保身とも捉えられかねない内容だが、一番人間らしいと思った。困っているなら助けてあげたい、しかし前提として満たすべき条件は『己の安全と先にある利得』。もしも友達を助けるために連帯保証人になる必要があると言われたら、誰だって躊躇する。寧々の『どうでもいいから何もしない』、翠の語る『保身と、関係の現状維持』、全く違うように見える二人の意見は同じ道を辿る結末だった。

 

 酔った勢いで変なことを聞いた、ニュースで取り上げられていたから話題に上げてみた、寧々に使った手口と同じ内容を並べその場を収めた。その後の会話はあまり覚えていない。互いに話題を出し合うもどこかぎこちない返答しかできず、溶けて無くなりそうな粒の氷を眺めては、時間いっぱいまで火照る眠気にうつろぐ意識を繋ぎとめた。

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