5-1-1


「はい、ラーメン一丁お待ち。」

 

 カウンターに置かれたどんぶりから立ち上る豚骨の香りが鼻孔をくすぐる。店外から香るものとは違い、眼前に差し出された黄金色のスープには中毒性がある。混ざりっ気のない純粋な背徳の香りと澄んだ油によってライトアップされた麺。あらゆる手段で食欲を引出し、罪悪感を押し殺すその存在に抗えるものはいない。

 

 幸は二段仕様のカトラリーケースから割り箸と蓮華を取り出し、「いただきます」とすぐさまスープを掬った。ほんのりと気泡の粒のような脂身が、蓮華の中に段々と渦を巻いて収まっていく。八分目あたりで満たした蓮華を、そっと口元のよせ、少し強めの吐息で冷まし、ゆっくりと飲み干した。

 

 カラになった蓮華を眺め、うっとりと感傷に浸るのも束の間、またすぐに蓮華をスープで満たす。一回、二回、三回と、胃の中でじんわりと浸透していく感覚を、幸は至福と名付けた。

 

 最寄り駅を歩いて徒歩一分、日中はパチンコ帰りの客とペールグリンの作業服を来た男性でいっぱいになるこの店も、二十一時を過ぎた頃には静かになる。店名がプリントされた真っ赤なTシャツ、おでこに巻かれた真っ白な手拭い。沸騰したお湯と蒸れ返す人の行列に奔走する彼らも、今はゆっくりと調理器具を洗っていた。

 

 (ここ最近で食べたどの料理より美味しい。最高のソースは空腹である、とはよく出来た言葉だ。)

 

 幸は今朝の事を思い出していた。

 

 仕事終わりに彼女を尾行し、二駅乗り継いだ末、たどり着いたのは営業時間外の古びた銭湯と胡散臭いスナック。そのどちらも彼女と関係があり、その実情は不明。老体に鞭打って出かけた結果、頭の先からつま先までピクリとも動かせないまま、汗でべたつく衣服を身に纏い、十時間近く玄関で寝こける始末。

 

 幾度となく覚醒しては四肢に命令を送り、そのたび疲労の蓄積を理由に起き上がることを拒絶され、諦めて硬い床にうつ伏せになった。おかげで首の座りが悪くていけない。常に左へと傾いている、そんな感じがした。時間に反して眠りは浅く、未だ頭の中は整理がついていない。一日の貴重な余暇時間を半日近く睡眠に充て、その結果が夜更かしの後の眠りとさして変わらなかった。幸は一日を無駄にしたような、そんな虚無感に、今なお苛まれていた。

 

 (それに、こっちはまだ何も分かってない。)

 

 幸はスマートフォンを取り出し、先ほど閲覧していたwebフォーム画面を開いた。

 

 『カスタムドール 予約受付』

 

 会社員時代、社内アンケートを作成した際に利用した無料webサービスと同じものだった。名前、予約日、髪型や服装、言葉使いや年齢まで詳細に並び、制限時間までその『ドール』を貸し出せるといったサービスだった。基本設定に加え、オプションは追加料金が発生し、その金額もオプションによって幅がある。『お任せコース』を選択すると、料金は一律一万円だった。

 

 (一時間一万って、どう考えても、だよな…)

 

 風俗どころかホストすら経験のない幸にとって、一時間一万の金額が夜の館の相場なのかは分からない。『カスタムドール』というのが女性を表す隠語ではなく、そのまま『着せ替え人形』と指す可能性もある。お金持ちの愛好家が、高い金を払ってでもプロのデザイナーに装飾してもらった人形を愛でたいと、そんな需要を満たす画期的レンタルサービスである可能性。

 

 (あのスナック店員が、人形遊び…)

 

 最初に思い浮かんだのは、人形の洋服でタバコの火を擦り消している姿だった。第一印象とは恐ろしいもので、ちょっとやそっとでは書き換えることができない。いくら想像で女をこねくり回してみても、針片手に口を縫い付けているイメージしか浮かばなかった。

 

 幸はスマートフォンをポケットにしまった。

 

 蓮華を手に取り、スープを掬う。

 

 一口目の味は、もうそこに無かった。

 

 「あれ、さっちゃんさん?」

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