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銭湯:『ゆ・あったかい湯』の一つ手前、交差点を右折した道路標識に幸は身を預けていた。
交差点すぐ近くのコインパーキング、セブンスロットの当たり付自動販売機にあった『働く男の相棒』缶コーヒーを購入した。少しずつ、少しずつ、舌の上でゆっくりと転がし、味わい、一秒でも長く苦味が残るように粘った。何度信号機が変わっても、交差点を渡らず立呆けるサングラスとマスク姿は異質だったことだろう。
深夜勤務明けに彼女を追いかけ、銭湯に赴き、湯船につかることなくかれこれ二時間が経過しようとしていた。スマホを眺めて時間を潰すにも、幸の頭はブルーライトを許容しない。こめかみを、じくじくと刺しこむ痛みに耐えかねてSNSを閉じた。
(私は何をやっているんだ…)
彼女を身内と言ったあの店員。彼女と店員との年齢を考えれば、祖母かそれに近しい親戚といったところだろう。店員の反応から負の感情は感じなかった。それどころか、彼女がキャリーケースを常備していることを、当たり前に思っている。
それならば、何故彼女は
幸ははじめ、彼女には衣食住を送れる家がない、一時的に家には戻れない理由があるのだろうと推測した。十代の、果敢な時期には少なからず起こりえることだろうと。しかし彼女には、身内と呼べる関係の、住処を提供してくれる人間がいる。幸のようなその日あったばかりの人間の、それも夜遅くに寝泊まりするほどのリスクを侵す必要性はどこにあるのだろう。
何一つ結論はでないまま、缶コーヒーを飲み終えていた。自動販売機まで戻り、空き缶を捨て、もう一度買いなおそうか悩んだが、これ以上効き目を望めそうになかったのでやめた。
すると銭湯から彼女が、いつものようにキャリーケースを引っさげて出てきた。彼女は駅で見た時よりも、幾分スッキリとした顔をしているように見える。すぐにあの店員も一緒にでてきた。会話は聞こえない。しかし、少なくとも店員の方は友好的に話をしているようだった。
会話を終えると、彼女は駅の方角に向けて歩き出した。幸は、店員がお店の中に戻るのを見計らい、再び彼女の後を追った。
彼女は最初駅から歩いてきたルートと同じルートをたどった。閑静な住宅街に挟まれた大通りを進み、ガソリンスタンドを分岐に左折。ドラッグストア裏手の駐車場を抜け、郵便局のマークが記された赤と白の看板を目印に右折し、いくつかはがれかけの選挙ポスターがずらりと並んだ石垣を真っすぐ進んだ。
このまま真っすぐ進めば、駅が目視できる都道に出る。しかし彼女はその方向には進まず、車両進入禁止の標識が立てられている道へ折れた。
(駅には向かわないのか?)
そこは日当たりが悪く、いつ何時も日差しなど入らないような細道。幸の背丈ほどもない、錆びた鉄製の策には所々ツタが絡まり、誰のモノかも分からないカゴの凹んだ自転車が倒れ傾いている。彼女は狭苦しい道を何の気なしに通り抜け、今度は駐車禁止と二十キロ速度制限の標識の前を右折した。
道幅だけでみれば、車一台通り抜けられる程度。ここにくるまでも、何度か同じような道幅の道路を歩いてきた。進めば進むほど、その道は細く、狭くなっていくように感じる。道路の領域を侵すように建てられた電柱、電柱と電柱の間に引かれた電線は近隣のアパートの二階に触れるほど近く危うい位置に配置され、カラスが悪戯でもするように弄んでいる。雨で黒く汚れたアパートの壁、亀裂の入ったコンクリート、全てが鬱屈へと誘うモニュメントのようだった。
幸が周囲に気を散らしていると、彼女はまた右に曲がった。急いで曲がり角まで行くと、道は一層荒れていた。グリーンベルトは剥がれ、部分的に舗装された車道は掠れた白色と濃い黒色の二色で構成されていた。いくつもの数字と記号がチョーク線で書かれ、その形跡が数メートル感覚で繰り返されていた。一体何人ものドライバーを免許取消に陥れたのだろうか。
(本当に、どこに行く気なんだ。)
またすぐに彼女は右へ曲がったので、幸は曲がり角に隠れた。しかし、すぐに目を見張った。
(おいおい、嘘だろ…)
そこは夜の店へと通じる裏通り。手前から居酒屋、ガールズバー、その奥にはフィリピンパブ。そして紫を基調とした濃色の看板が軒並み連ね、『夕実』やら『いずみ』やら『ヨーコ』やら、店主のママと思わしき名前が刻まれている。どこもかしこもくたびれたシャッターが降ろされ、夜が男を誘い込んでくるのを待ち望んでいる。
そんな裏通りに入ったことにも驚いたが、問題は別にあった。彼女が、スナックの一つに、正確にはスナックの横手にある、二階へと通じる外階段を上っていったのを目にしたからだ。
(彼女は、ここで暮らしているのか。)
夜を徘徊する人間の、吐く息の臭いがキツいことを除けばなんら問題はない。しかし働いているとなれば話は別だ。酔った亭主の、本当か定かでない仕事の自慢話と、老けた嫁と反抗期の娘の愚痴を聞く大人のお悩み相談室なんて、高校生のする仕事ではない。
幸は店の看板を見た。
『スナック ずる休み』
大丈夫かもしれない、そう思った。
ずる休み。最初に連想したのは女子高生だった。もしかすると女子高生向けの、SNS今どき映えスポッとなのではないか。スナックというアンダーグラウンド要素を取り入れたオシャレな喫茶店で、彼女はその店員をしている。見るからに『ずる休み』を体現した彼女にとって、このお店はピッタリのお店だった。
(駄目だ、疲れてる。)
幸は限界を悟った。これ以上何を考えても徒労に終わる。そう思い、お店の写真を撮って引き返そうとした。
「そこで何をしてる。」
彼女が上がった外階段から声がした。ヒキガエルのような、しゃがれた声は女から発せられたものだった。ゆったりとした白のトップス、カーキ色の
女はポケットからライターとタバコを一本取り出すと、断りもなく火を付けてその場で一服した。壁にもたれかかり、ため息でも吹きこぼすかのように、たっぷりと、時間をかけて煙を吐いた。
「で、そこで何をしてたの。うちは昼間の営業はしてないよ。」
「いや、お店に用はなくて、その、なんていえばいいか。」
『キャリーケースを引いて歩いた女の子を尾行していました。』と言えば正直者だが、同時に変質者の烙印を押される。適当な理由をつけて誤魔化そうにも、女の視線は警戒心をむき出しにしているため、簡単には解放してくれない。加えて、幸の疲労はピークに近かった。言葉を発そうとしてはいい淀み、口をわななかせるだけだった。
「もしかして、あいつの客か?誰の紹介で来た。」
幸の戸惑いを見て何かを察したのか、女は質問を投げてきた。勘違いを前提に置いた質問など、幸には何一つ理解出来なかったが、話に乗る以外の道は無かった。
幸は咄嗟に『銭湯:あったかい湯』の店員、と告げた。
女は目を大きく見開き、「あのババアか、くそっ!」と、短く吐き捨てた。
あきらかに険悪な関係であることは見て取れたが、女と銭湯の店員に繋がりがあったのは間違いなかった。女はポケットから革製の携帯灰皿を取り出し、ボタンを開けておもむろにタバコをねじ込んだ。
「少し待ってな」と言い残し、階段を昇って行った。少しして何やら小さな紙切れのようなモノを手に、幸へと突き出した。
「これ、申し込みフォームのQR。依頼はここからしか受け付けてないから。費用は全て現金。クレジット、電子マネー、その他一切の支払方法を受け付けてない。予約はいつでも受け付けているが、なるべく前もって予約はしろ。急な予約はこちらからキャンセルをする場合がある。他に質問は?」
「あ、ありません。」
「そ、じゃ帰ってくれる。これから出かけないといけないの。」
その恰好で?とは言わなかった。
結局、女が何者で、彼女とはどういった関係なのか、知ることはできなかった。女は幸がここを去るまで、一向に動こうとはせず、再びタバコを取り出しては煙を吐いていた。幸が振り返ると、まだ用事でもあるのかとでも言いたげな目で釘を打ち付けた。
ネオンライトが灯る月夜にカウンターを挟んでいたのなら、女の笑顔を拝めたのかもしれない。そんな儚い理想をポケットにしまい、駅に着いた時には無くしていたことにも気付かなかった。
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