4-2

 

 彼女はすぐに見つかった。お店を出てから約一分、幸はキャリーケースの音を辿って歩いた。車通りの少ない場所かつ、早朝という時間帯。まばらに発せられる革靴の音は、キャリーケースのホイールがコンクリートを踏み鳴らす音に押しつぶされていた。


 彼女は相も変わらず、周囲の視線を引き寄せては素知らぬ顔で歩き続ける。幸はその視線の中に自らの視線を隠した。

 

 開店前のドラッグストアを抜け、県道下を横断するように架けられた橋を渡り、五反田川を横切る。シャッターのしまった町薬局の隣には、稼働しているかも定かでない避妊具の自動販売機が、時代に取り残されるように立っていた。


 少し歩くと、ベーグル専門店の店名が白字で印字された赤いオーニングがあり、営業時間前から列ができていた。みな一様にスマホに目を落としていたが、その視線のいくつかがスマホからある点に注がれ始め、その先には彼女がいた。ベーグルの香りすら、あの音の前では興味を持っていかれるらしい。

 

 ガラガラガラガラガラガラ。

 

 (は、速い、あいつ、なんでキャリーケース持ったまま、あんなに早く歩けるんだ。)

 

 幸は途切れ途切れになる思考の中、必死に身体を前へ進めた。両腕を大きく振り、遠心力を頼りに身体を引っ張る。乱れる息、薄っすら湿った汗をぬぐった。手の甲の皮膚に、じんわりと溶けていった。

 

 緩やかな傾斜が続く道、荒れも少ないコンクリート、ウォーキングするには非常に適した道だ。それでも今までに彼女と歩いてきた中で、これ程のハイスピードで移動することはなかった。これまでも彼女に歩幅を合わせてきたつもりの幸だったが、その認識は間違いだったらしいと思った。加えて、幸は彼女がどこに向かっているのか、何となく察しがついていた。

 

 (やっぱり、ここコンビニか)

 

 幸の仕事場にして、小一時間前にレジを打っていた場所。駐車場には店長のブラウンカラーのワゴン車が一台と、真っ赤な郵便ポストが一基。吐しゃ物のない店前は実に広々とみえ、清々しかった。


 彼女は左手にある駐車ブロックへと移動し、ひょいと一段上って店内を一望した。不思議と、ブロックを足した身長が、彼女の将来の姿のようだと思った。店内隅にあるプリンターとATM、反対にある単行本コーナーを何度も往復するように見渡した。

 

 少しすると駐車ブロックに座り込み、キャリーケースからスマホを取り出した。画面を確認し、またキャリーケースにしまった。そして、再び立ち上がっては店内を一望し、また座った。それらを何度か繰り返し数分が経った頃、彼女は座り込むのを止め、こちらに向かって歩き出した。

 

 (まずっ、)

 

 電柱を背に隠れていた幸はすぐさま隠れる場所を探した。交差点の真っただ中には石垣と、線路前に引かれたガードレールのみ。

 

 幸は必死に考えた。彼女は駅に向かう方角へと歩き出した。このまま駅を目指すなら、ちょうど石垣で死角になった右手道路の方向は死角になる。しかし、駅へ向かうことなく右手道路を通る場合、曲がり角で鉢合わせしてしまう。

 

 幸はじっとそこで立ち尽くすことを選択した。

 

 ガラガラガラガラガラガラ、

 

 (………)

 

 ガラガラガラガラ、

 

 (……っ)

 

 ガラガラ…

 

 まっすぐに遠ざかる音を、ただじっと聞いていた。

 

 「あ、危なかった…」

 

 久々に呼吸でもしたように、沢山息を吸った。酸素が足りず、鼓動が激しく動き、頭がくらくらと揺れる。

 

 すると幸はある点が気になった。鼻腔をくすぐる、人工的に混ぜ合わせて作られた、花の香り。それは石垣に張ったつたとは違い、嗅いだことのないその臭いは決して好ましく感じられるような代物ではない。形容しがたい独特の香りをまき散らし、紫色の存在感を持って今なお空気に蔓延はびこっている。彼女が纏うにしては、いささか毒々しい香りだった。

 

 (何でコンビニに、ってのは愚門か)

 

 十中八九、と確信していた。しかし、何か引っかかる。答えは視界の中にちらちらと転がっているはずなのに、意識の中には映らないような、そんな引っかかり。

 

 すぐには解消できないと察し、幸は胸に残る違和感を持ったまま、遠ざかる音の方角へと向かって歩いた。

 

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