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 幸は彼女と別々にマンションに入ることを提案した。理由は簡単、誰かに見られるのを避けたかったからだ。焼け石に水かもしれないが、それでも考えられる限りの処置はこうじるべきだ。彼女は面倒そうに、それでも幸の鬼気迫る勢いに、仕方ないと了承した。

 

 いつもと同じ玄関、いつもと同じ階段。それなのに、自分の感覚が鋭敏になっているのが分かる。自動扉の開く音、どこかの階で扉が閉まる音。耳に拾われる音の一つ一つが、心臓の鼓動を早くする。今、彼女はここにはいない、問われて困ることは何もない。そう思えば思うほど、より鋭敏に、臆病になっていった。

 

 「あ、幸さん。こんばんわ。」

 

 ゆったりとした、愛嬌のある声が聞こえてきた。

 

 「ああ、翠さん。こんばんわ。」

 

 生駒翠いこま みどり。幸と同じフロアに住む、『202号室』の大学三年生。最近このマンションに引っ越して来たお隣さんであり、マンション内で唯一の顔見知りと呼べる存在だ。以前は大学の女子寮に住んでいた彼女だが、二年間で退寮する契約であったため、今年の三月にこちらへ引っ越してきた。

 

 白に近い明るめのベージュのスニーカーに、落ち着いた緑のプリーツスカート。ゆったりとした五分丈の白ブラウスがスカートのウエストラインに収まり、膨らんだブラウス生地から覗ける細めのレザーベルトがスタイリッシュさを演出していた。露出の少ない胸元だが、曲線美を描く鎖骨と肩にかかったポニーテールが大人びた印象を与える。時々、幸は自分が年上であることを忘れそうにな程、彼女の立ち居振舞いは見惚れるものがあった。

 

 「これからどこか行くの?」

 

 「はい、アルバイトに。最近、『和する』って居酒屋で働いてるんです。」

 

 『和する』といえば、マンションからそう遠くない場所に位置する個人経営の居酒屋だ。鳥皮の出汁巻き卵、鳥肉の唐揚げ、厚揚げのチーズ焼きにショウガの効いたニンニク鳥肉ジャガと和食のレパートリーが多く、豊富にそろえられた日本酒とジャパニーズウイスキー。和風家屋のイメージにあった濃色のフローリングに、柔らかな照明の灯。擦れた現代人の心を落ち着かせる。何より、おひとり様専用のカウンター席が設けられているため、気兼ねすることなく食事が楽しめる。

 

 女子大生が働く場として、大学生が大騒ぎして飲み食いするリーズブルなチェーン店より断然良い判断だと思う。しかし、幸には懸念する点があった。

 

 「単刀直入に聞くけど、お店で無理やり飲まされたり、飲み会に強制参加させるような人はいないの?」

 

 幸の懸念は遡ること一か月前、生駒翠との出会いにあった。

 

 仕事終わり、真っ暗な街灯灯る道を、賞味期限切れのコンビニ弁当が入ったビニール袋片手に帰宅した日のこと。マンションの二階に出たところで、一人の女性を見かけた。扉に頭をこすりつけるような態勢で、夢現ゆめうつつといったとろんとした目をしていた。首筋が赤く色付き、ヒールは脱ぎ散らかされ、手には鍵を握ったまま、「ひんやりして、気持ちぃ…」とぼそぼそ呟いている。

 

 まごうことなく、酔っ払いだった。しかも泥酔に近い酔っ払いだ。

 

 学生時代にはサークルに入らず、同じ科のメンバーとも最低限にしか飲み会というものに参加してこなかった幸にとって、泥酔した人間と間近で接敵するのは初めての経験だった。仕事終わりかつ、空腹の幸にとっては面倒事以外の何物でもない。

 

 「ほら、お姉さん、起きて。もう少しで家だから頑張って。」

 

 扉から引きはがし、なるべく揺さぶらないように声だけで意識を起こそうとした。肩を抱き、身体を支える。コテン、コテンと少しの力が加わるだけで、右に左にと頭が動く。まじかに迫る顔は、いかにも好色の男が好きそうな、食べごろの顔をしていた。幸自身、一瞬だけ色香に惑わされてしまいそうになった。

 

 (社会人、だよな。めっちゃ肌綺麗。それにしても、よくこんな時間に、しかもこんな酔っぱらった状態で出歩けるな。)

 

 まじまじと顔を見ることが、とてもイケナイ事をしているように思える。しかし、先ほどまでの朱に染まった顔と一転し、苦痛をにじませた青々しい表情に変わる。

 

 幸は知っていた。


 たかがはずれ、酔いつぶれた人間の辿る末路を。当時、グループメッセージに送られてきた、深夜テンションに身を任せて、黒歴史になるともしれない汚点、いや汚物の画像を。


 幸は知っていた。


 画像で見てもトラウマになりそうなそれを、状況から見ても間違いなくほぼ百パーセントの確率で、目の前に召喚されようとしてる、それを。

 

 ほぼ反射的に左手に持った袋を広げ、彼女に持たせた。

 

 間に合った。

 

 前かがみになり、唸る勢いで流れるそれから、幸は可能な限り目を合わせずにいた。この現象は欠伸同様、見たものにも少なからず影響を及ぼす。だが、この生暖かく、ねっとりと臭うビニール袋を、最終的には処理しなくてはならない。それを想像しただけで頭にズシンとくるものがあった。

 

 「あ、お弁当…」

 

 当然、廃棄した。幸にとって、賞味期限切れのお弁当を諦めた、初めての瞬間だった。

 

 「だ、大丈夫です!幸さんにこっぴどく叱られてから、お酒は程ほどにしてます。あんな醜態をお見せするのは、あれが最初で最後です。」

 

 「そっか、そうしてもらえると助かる。」

 

 完璧な彼女の、酒に酔い乱れる姿を見れないのは、少しだけ勿体ない気がした。ただ、その代償が生暖かいビニール袋だというなら、甘んじて諦めよう。

 

 「それに、良い酔い方ってのをレクチャーしてもらいましたから。」

 

 「別に、私は自分の好きなウイスキーを勧めただけ。たまたまそれが酔えて、楽しめて、味わえて、後に残りにくいお酒だった。それだけだよ。」

 

 あの時、翠の行った居酒屋は若者向けの大衆居酒屋だった。サワーに酎ハイ、ハイボールにカクテル、ビールに日本酒と幅広く、かつ飲み放題で楽しめる。オーセンティックバーのように敷居を感じることなく楽しめる。初めて行くお店として、決して悪い選択ではない。


 彼女の場合、連れ添った友人に難があった。初めてお酒を飲む人間に対する配慮が全くない。それどころか「若いうちに酔いの限界を知っておいた方がいい」などと抜かしたそうだ。そんなもの、誰かに言われて知るものでもない。二十年の付き合いだ、自分の身体のことなど医者よりよく知っている。

 

 幸がレクチャーした内容も、インターネットで調べればすぐに出てくるような内容ばかり。ストレート、ロック、ハイボール。メジャーなウイスキーの飲み方と、比較的癖のない『知多』のハイボールを振る舞った程度。しかし、それでも翠にとっては僥倖に似た出会いだったのだろう。最初とのギャップでそう感じているだけだと、本人は気が付いていないだけだ。

 

 「それでも、多分、あのままだったら私、お酒を嫌いになっていたと思います。気持ち悪くなって、周りに迷惑をかけて、嫌な思い出と一緒に避けていたと思います。でも、今は、とっても美味しいと思える。それは、間違いなく、幸さんのおかげです。泥酔した私を介抱して、叱ってくれて、それでお酒を振る舞ってくれた。全部、幸さんのおかげです。」

 

 「面と向かって言われると、恥ずかしいな。」

 

 翠の言葉を受け止めるのに、少しの茶化し言葉が必要だった。幸は口元を手で覆い、横へと広がる口角を必死に隠した。真っすぐ見つめられることに、幸は慣れていない。好意を向けられることも、向けることも苦手な幸に取って、翠の視線は眩しすぎる。

 

 「時間、大丈夫?」

 

 「ああ、そうでした。」

 

 腕時計を一瞥し、軽く頭を下げ、駆け足で階段へと向かって行った。

 

 「今度、またお酒飲みましょうね。合いそうなおつまみ、用意して待ってますから。」

 

 くるっと振り返り、そのまま階段を下りて行った。

 

 「それは楽しみだ。」

 

 幸はスマホを取り出した。先ほど玄関前で別れたキャリーケースの彼女に電話を掛け、こちらへ来るよう連絡をした。彼女は長いこと待たされたせいか、少し棘の感じる声音をしていた。

 

 

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