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 嘘を見抜かれた驚きよりも、彼女の言葉の、言霊とも思える不確かな圧力に、怒りよりも得体のしれないものと対峙した恐怖が勝った。

 

 「そう、嘘つき、ね。確かにそうだ。私はあなたを警察につきだすことはしない。ただここから居なくなって欲しいだけ。」

 

 「なら安心して、十二時を回るころには公園にいるから。」


 何を安心しろというのだろう。それでは何一つ解決しない。『家に帰れ』と暗に言っているのが伝わらないもどかしさが幸の言葉を急かす。

 

 「公園に行って何をするんだ。」

 

 「あそこにはクジラがいるでしょう?」

 

 「クジラ…ああ、あれ。」

 

 シロナガスクジラをモチーフに作られたというドーム型の遊具。ふっくらと丸いクジラが砂の海から顔を出し、大きな口と潮を吹いている鼻が空洞になっている。チャーミングな目と水色の塗装のおかげでクジラを保てているが、黒塗りにしたらダンゴムシと見間違う遊具だ。名前負けしたサイズの遊具だが、よく子供だかりができているので、ここが生まれ故郷でない幸にもすぐに分かった。

 

 「なら江の島にでも行って来たら。まだ電車あるし、二時間もあれば着くはず。そうすれば営業開始と同時にクジラが見れる。公園のシロナガスクジラよりはよっぽど立派で、生き生きとしてる。」

 

 「もしかして、クジラが見たくて公園に行くと思っているの?」

 

 「思ってない。」

 

 「…そうね、本当に思っていない。」

 

 「まじまじ見ないと分からないのか。」

 

 そのブロンドの眼光に覗かれると、昔飼っていた猫に噛まれた時を思い出す。背を低くし、獲物に狙いを定める視線はまさに動物のそれだった。鬱陶しく流れる髪のほんの一部でも耳に掛けてくれたなら、もう少し人間と対峙しているように思える気がした。

 

 「多分、というか十中八九、公園で何をするか分かっているつもりだけど、いや分かってしまったが故にこのまま放置しておくのが、なんか、こう、良心に引っかかる気がした。だから、皮肉を込めて、いささか素敵な代案を突きつけて、どっか行ってもらおうと思っただけ。」

 

 「皮肉を交えることに、良心は何も言わなかったの?」

 

 「『大は小を兼ねる』っていうでしょ。あなたの身の安全を守るという大事のために、鬱憤をぶつけて良心を痛めるという小事は必要な犠牲なの。」

 

 「多分、『大事の前の小事』のことを、なんとなく文字面が似てるから間違えて使っただけだと思うけど、本人に嘘をついている気持ちが一切感じられないから説得力がある。多分、間違ってると思うけど。」

 

 いままでになく流暢な喋りだった。


 「あなたの良心も、随分緩い検問を敷いているようだけど。」

 

 「間違いを正すことは良心でしょ。」

 

 ああいえば、こういう。幸と彼女の押し問答は事態を一向に進めようとはしなかった。思いのほか口数の多い彼女に対し、興が乗ってしまったのかもしれない。久しく忘れていた、熱のこもった人間との会話だった。

 

 しかし、このままではらちが明かず、夜が明けてしまう。彼女が公園に行く目的が想像通りのものだとすると、幸はどうしても阻止しなければならなかった。

 

 良心、などと体のいい言葉を並べても、詰まるところ保身だ。近隣で事件が起きれば当然コンビニにも協力依頼が来る。そうなれば監視カメラの映像に、幸が彼女を見つけたにも関わらず、何も対処しなかったことが明るみになる。


 罪に問われることなどないだろう。頭が罪悪感に蝕まれ、全人類の自分に対する視線が悪意にしか感じられず、四六時中背中を背け、布団にうずくまって毎日眠るはめになる。

 

 「警察には連絡しない。その代わり、ご家族や親戚や友達の家、カラオケや漫画喫茶。最悪、扉があって玄関があって屋根があって、雨風をしのげる場所ならなんでもいい。そして、今後夜遅くにこのコンビニには近寄らないこと。それを守るのなら今日のことは忘れる。もし学校のが来て、あなたについて質問されてもしらを切り通す。これでどう?」

 

 遮断機のランプが赤く点滅し、バーが降りる。少しくぐもった甲高い電子音と共に、右から左へと電車が通り過ぎる。誰も乗っていない車両を、今度は目で追わずにただ眺めていた。


 本当なら今頃、踏切を渡り陽光の暑さがすっかり冷めたアスファルトを踏みしめ、時折聞こえる猫のさかり声を聞いて、アパート前のまばらに明滅する街灯付近を歩いているはずだった。今さら後悔しても詮無いことだと解っていても、直帰していた未来を想像せずにはいられなかった。


 三本目の電車はまだきていない。

 

 バーが昇降を終えた時、気づけば彼女はこちらに向き直るようにして立っていた。長く鬱陶しかった髪は耳に掛けられ、風で乱れるのを防ぐように右手を添えていた。髪の毛越しに覗いていたブロンドの瞳は思いのほか丸く、見た目ほどの鋭さは無かった。それでも、彼女の淡泊で無感情な表情と、あまりに整い過ぎた目鼻立ちは威圧感を放っていた。

 

 「分かった。あなたの条件呑む。」

 

 「……本当に?」

 

 「本当に」

 

 「絶対の絶対?」

 

 「絶対の絶対」

 

 「やっぱりやめたとか、私が帰った後で公園に行くとか、適当な男を引っかけて一宿一飯の恩義とかいって身体を売ったりとかしない?」

 

 「やっぱりやめないし、公園にも行かないし、男を引っかけて恩義も着せない。あとついでに言うと江の島にも行かない。」

 

 幸は最後の質問を先に回答されてしまい、言葉を失った。

 

 (まさか、こんなにすんなり言うことを聞いてくれるなんて。私の同級生なんて『キモイ』『ウザイ』の三文字で、ひたすら教師の説教をぶった切っていたのに。なんだ、今どきの女子高生は聞き分けがいい。)

 

 「スマホ、貸して」

 

 「え、ああ、どうぞ」

 

 「…ロック解除しないと使えない」

 

 「はいはい」

 

 幸は素直にロックを解除した。指紋認証が上手くいかず、PINコードで入力した。受話器マークのアイコンをタップし、ダイアル入力画面で彼女に手渡した。

 

 「今の女子高生ってスマホ持ってないの?」

 

 「持ってるよ、でも電話番号知らないから。」

 

 幸は腕を組み、右上を向いた。左下、上、右下とあらゆる角度に首を曲げてみたが、答えどころかシニカルなジョークの一つも出て来やしなかった。


 彼女はスマホを貸してと言った。それは電話をするためだと思った。しかし彼女はスマホを持っているといった。そして借りた理由は『電話番号を知らないから』。彼女の知らない電話番号を、幸が知りえているはずもない。


 彼女が遠い親戚で、昔一度あったことがあり、なんやかんやの経緯で彼女の知り合いの電話番号を登録している可能性を考えたが、従妹家族以外に付き合いはないし、一度会っていればこれほどの天然美少女を忘れるはずもない。

 

 すると、こんな夜更けに時期外れなクラシック音楽が流れてきた。バイオリンのカルテットが、どこかものに当たって反響しているような音を立て、彼女の方角から分散して聞こえてくる。彼女はキャリーケースの周りをぐるぐると、耳を立てながら一周した。幸はまさか、と思ったが、そのまさかだった。

 

 「あった。」

 

 キャリーケースのポケット部分に押しつぶされるように入っていたせいか、ポケットに入れた手が抜けるのに少しの時間と勢いがあった。何故スマホの着信音がパッフェルベルのカノンなのかとかどうでもよくなるぐらい、どうしようもないオチだった。

 

 「自分のスマホの場所忘れる普通?、エアコンのリモコンじゃないんだから。」

 

 「エアコンのリモコンって語呂がいいね、ちょっと好き。それより、はい」

 

 彼女は自分のスマホを右手に、幸のスマホを左手に握り差し出した。幸がスマホを受け取ると、彼女は後ろに数歩下がって右手のスマホを耳に当てた。顎でクイクイっと、同じようにしろと言っているようだった。幸は「はいはい」と受け取ったスマホを右耳に当てた。

 

 『「今日、あなたの家に泊めてくれませんか」』

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