玉虫色の人形
黒神
1-1
誰しも自分の根っこに埋まっている、誰が手を入れても変わることなく、引き抜けばそこで終わってしまう『自己』のようなものがある。
赤ん坊の時はそれを伝える術もないため平穏無事を享受する。
小学生になると、拙いがそれを伝える術を持つ。
中学、高校は自己に折り合いをつけ、社会的に許されているものの中から他者との共通点を見つけるか、無理やりに形成する。
時代と、その時代に生きる人間に許される自己を形成し、皆生きている。
私には、生まれつき覆い隠せない自己の塊が、身体の半分以上を占めていたのだと思う。そして、それらは今の時代を生きる上で枷でしかないのだと。
あの夜、私の行動を正当化する理由があるとすれば、そんな枷を解き放つ何かを、彼女に期待したのかもしれない。
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自動扉の先にあったのは、月と、夜と、小さな喧騒だった。
男が三、女が一、缶酎ハイが七とスモークチーズにビーフジャーキーの空袋が無数に転がっている。
ステンレス製のU字に曲がった車止めポールに座り、下劣な笑みを浮かべるくすんだ金髪の男。駐車ブロックを椅子にして向かい合う茶髪の男女。一つ目ランプのスクーターにまたがりハンドルをひじ掛けにしている男。
金髪の男は既に酔いが回っており、蛍光灯に群がる虫をも気にせず口元を緩め話を続けている。それを聞く三人は若干引き気味に相槌を打ち、時折スマホの画面を確認していた。一人と三人の間にある境界線は近くて厚い。
それらは店に買い物に訪れていた客だった。表紙が擦れて折り目のついた売れ残りの週刊誌を読み、ひとしきり愚痴を言い合ったあと、見るからに育ちの悪い金髪がホットスナックのショーケースを指差し「揚げ物もうやってないの、マジ?職務怠慢じゃん」と言い捨て、それに呼応するように後ろの三人は薄ら笑いを浮かべていたのでよく覚えている。
勤務終了間際の
レジを通した商品の中にストロング系の酎ハイは無かった。どうやらアルコール度数四、五パーセントの酎ハイで酔いしれる可愛い体質らしい。そう思えば、塞いでも突き抜けて耳に入る馬鹿笑いも穏やかに聞いていられる。
そんな小さな喧騒をかき消すように遮断機のランプが赤く点滅をはじめ、黄色と黒の昇降バーがゆっくりと降ろされる。経年劣化の末か、くたびれた様に先の方が垂れ下がっていた。
左から右へ、水色ラインの電車が駆け抜けていく。夜の静けさを身勝手に押し退けながら、月明かりの幻想を現実に塗り替えるように。
幸は、それを何となく目で追った。つり革に手を引っかけ、直角に背を曲げるサラリーマンのうつらうつらとした顔が、嫌に目に残った。
低く、間の抜けた音に変わってからも、幸はしばらくの間視線を線路先から外さなかった。ただ一人、現実から取り残されたように佇んでいた。
(あ、ヤバい。本格的にぼーとしてきた。)
踵の骨ばった痛みが幸を引き戻す。眉間の辺りを親指と人差し指で軽くほぐし、頭を振って脳を揺する。血が廻り、視界の焦点が定まったのを確認して、踏切を目指して歩みを進めようとした。
それは偶然だった。視界には映るが、決して意識しなければ頭の内に入ることはない位置にいたそれに、気が付いてしまった。
喧騒振りまく集団とは反対に、静かに一人うずくまる漆黒。腰まで伸びる黒い髪が蛍光灯の明かりに照らされ、怪しくも艶が強調されている。両腕に顔をうずめ、頭上から流れるように髪をおろしているため顔がよく見えない。しかし彼女が高校生であることは制服からすぐに気づいた。
幸の地元ではありえない光景だったが、都会では珍しくない光景だ。いつもなら少し気にだけ留めて、次の日に誰もいない駐車場を確認し、何事もなかったと言い聞かせていつも通りに仕事をする。今回もそのつもりだった。
しかし、夜遊びをしている女子高生の持ち物にはいささか不格好で、不相応のものが隣に鎮座している。横に並ぶ彼女と同じくらいの、真黒なキャリーケース。伸ばした持ち手にはスクールバックが引っかけられている。
幸は考えた。女子高生が夜遅く、大きなキャリーケースを持ち歩くことの理由。十中八九家出、一厘の可能性で修学旅行の帰り際とも考えたが、桜咲く季節には早すぎるだろうと否定した。
限りなく傾いた『帰りたい』という気持ちの指針を曲げるのに、幾分か時間がかかった。品のない金髪の男の視線が彼女に向けられなかったら、はたまたその視線に幸が気付いていなかったら、結果は変わっていただろう。
「そこで何してる。」
接客マニュアルの文言を発する時とは違い、その言葉に配慮はない。彼女がこちらの言葉に反応し、顔を少しずらした。
髪の毛の隙間からブロンドの瞳が覗いた。月明かりと艶やかな黒髪から覗く瞳は、こちらを引き込むような異質さがあり、幸は一歩距離を取った。
「何も」と、彼女はそう言ってまた顔を伏せた。
会話が終わった。
幸はこのまま踏切を目指して歩き出そうと思ったが、あまりに淡泊な物言いに小さな
「未成年がこんな夜遅くに一人で出歩いていい訳ないだろ。親御さんに連絡して迎えに来てもらうから、このままじゃ警察に連絡することになるけど、いいの?」
幸は「警察」という言葉をあえて強調して言った。実際、警察に連絡する気は毛頭ない。彼女に対する癇癪は、幸の睡眠時間を削ってまでどうこうしたいと思うモノではなかった。
ただ、今の言葉で少しでも焦り、その場から立ち去る素振りさえ見えせくれればそれでよかった。もしまたここに戻ってきて、同じように座り、金髪の男に連れ去られたとしても幸に負い目はない。そこまで助ける義理などないのだから。
彼女が再びこちらを覗いた。相変わらず表情は見えず、何を考えているか分からなかったが、先ほどよりも一層鋭い眼光を向けられているのは伝わった。背筋がビクッとなって、肩から滑り落ちそうになった鞄の紐を掴んで戻した。
彼女は言葉を発せず、しばらくの間幸を覗き込んでいた。幸は紐を強く握り、念のため鞄をお腹の位置に抱えたまま次の句を待った。
「嘘つき」
透き通る、耳に残る声だった。嫌に、纏わりつく言葉だった。
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