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『201号室』で、初めて誰かと食事を共にした。テーブルの向かいに人間がいる時の食事を久しぶりに思い出していた。家族四人、おしゃべりの母を中心に、父と妹と私で相槌をうっていた食事。家では年中無休でテレビを付けていたので、大抵はどこかに音があった。話を聞いて、膨らむ種なら拾うし、そうでなければ聞き流す。そういえば、自ら話題を作るなんて事、あんまりしてこなかった気がする。幸は、今この瞬間を作り出した原因が自分にあると自覚した。
テーブルにはフレンチトースト用の大皿と、とりわけ用の中皿が二枚、そして砂糖の香りがする、血生臭さなんて微塵もないラスクがマグカップの中に立って並んでいる。淹れたてのインスタントなコーヒーは魅力的だった。立ち上る風味が気分を落ち着かせる。入れ物が湯呑でなければなお風情があっただろう。四枚切りのパンを始めて食べた幸は、そのボリュームある食べ応えとフレンチトースト本来のおいしさに舌鼓を打っていた。
「……」
彼女は無言だった。フレンチトーストに手を伸ばしては、咀嚼し、飲み込む。時折買ってきたペットボトルの水に手を伸ばし、口を潤してから、また一枚と手を伸ばす。フードファイターのような食べ方に言及すれば、この空気が一層悪くなることは容易に想像ができた。彼女は感情をあまり表情に表さない。表していたとしても、幸には悪意以外の感情を読み取ることができない。もともと過食気味なのか、気まずさゆえになのか、先ほどの一件を根に持っているのか。あれだけあったフレンチトーストは既になくなり、ラスクに手を付けていた。
カリカリ、カリカリ、カリカリ、カリカリ。
こちらもすごい勢いで食べ、時折水で流す。
(お母さんも、カリカリしてるときは暴飲暴食気味だったな。)
幸は母がポテトチップスを丸々一袋食べきった時の事を思い出していた。パリパリ、パリパリと音を立てて、軽快に食べていた。
(あの時は何したら機嫌治ったっけ…、ああそうだ。)
「ちょっと聞いて」
「何」
彼女はラスクを食べる手を止めた。こちらの話を聞く気はあるらしい。
「フレンチトースト、ご馳走様でした。本当に美味しかったです。ありがとう。」
幸は姿勢を伸ばし、深々と感謝の意を述べて頭を下げた。丁寧に、丁寧に、恥ずかしさでぶっきらぼうな物言いに逃げないようにと、言葉を言い切った。
「…なに急に。」
「急にも何も、ご飯を作ってもらったらご馳走様って感謝するのがあたりまえだろう。」
「別に、こっちは泊めてもらった訳だしこれぐらい、さっきのご機嫌取りなら別にしなくたってもう怒ってない。」
「ご機嫌取りだけで、面と向かってこんなこっぱずかしい事言わないよ。」
「恥ずかしい?ご馳走様を言うことが?」
彼女は不思議なものを見るように、毒気の抜けた顔で小首を傾げた。
「そうだよ、特に親にはね。毎日顔を合わせていると言わないことが当たり前になる。長く離れていると伝えてこなかった日を思い出す。そしていざ実家に戻ると、これがまた顔を見れずにいる。ご馳走様が難しくて、恥ずかしくて、当たり前じゃなくなる時が来るんだな~って思うんだよ。だから、気が付いているうちは言っておく。そうすれば、いざ伝えようってなった時、幾分心が楽になる。」
彼女は深い思索にふけっているようで、親指と人差し指を顎にあて、眉間に皺をよせていた。眼差しは遠くを見つめるように真剣で、時折、視線が宙をさまよいながらも、明らかに何かを追い求めている様子が伺えた。
「よく分からない。」
「それでいいよ。私が感謝していることだけ伝われば。あなたなら嘘かどうか、分かるでしょうし。」
「……そうね」
フレンチトーストを食べ終え、一杯のコーヒーを飲み干した。結局、その後も会話という会話はなかった。窓風と、陽光と、雀の鳴き声と、少しのぎこちなさ。だが居心地は悪くなかった。互いが互いの食べ終わるのを待ち、一緒に手を合わせ、その日の昼食を終えた。
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「それで、いつ帰るの?」
「……唐突ね」
「それは昨日の私のセリフ」
ズズっと熱い緑茶を一口すする。本来の湯呑のあるべき姿だった。昼食を食べ終え、幸がシャワーを浴びている間に彼女は皿を洗い終えていた。ドライヤーで髪を乾かし終るころにはテーブルに座っており、何をするでもなく、ただジッとしていた。
(というか、何で制服なんだ)
先ほどは起き掛けで、なおかつエプロンをしていたので気付かなかったが、彼女は昨日と同じ制服姿だった。一つ折の黒いブレザー、チェック柄のプリーツスカートとネクタイ。全てのアイテムに目立ったところはなく一見フォーマルな印象を受けるが、所々に制服を改造、とまではいかないが手入れをした跡があり、同時にシックな印象も孕んでいた。
幸は決まった曜日、時間に仕事をすることがない。基本は人手の足りないところにシフトを割り振られるため、早朝、昼間、夜間、深夜と昼夜問わず出勤する。そのため曜日感覚に疎くなった。ローカル番組の、よく分からないマスコットキャラクターが出演するミニ番組をみて早朝出勤することもあれば、一話を視聴していない深夜ドラマをみて、久しぶりに見た俳優を懐かしんでから深夜出勤することもある。オールナイト日本を聞いている時だけ、パーソナリティで曜日が分かるがその程度だった。
幸はスマホを覗いた。『5/6 (土) 14:00 』。今が昭和で無ければ休日だった。幸は常識で考えるのをやめた。彼女は、夜遅くにキャリーケースをもって一人コンビニの駐車場にいた問題児。家に帰ろうとせず、公園で寝泊まりをしようとし、最終的には幸の家に転がり込み、一夜を共にした。昼食まで用意し、まるで始めからここに住んでいるのではと思わせるぐらい順応する彼女。もしかすると、これが初めてではないのかもしれないと幸は考えていた。 猫とともに暮らす生活に憧れ、ペット可のマンション物件を選んだが、まさか女子高生を先に連れ込むことになるとは思いもしなかった。
(とはいえ、これ以上は面倒事になりかねない。)
少なからず、母から引き継がれている野次馬の血が騒ぐのを押さえつけ、事情を聞かずに追い出す事にした。聞けば、ほんのわずかだが情が湧く。人間、何もしていなくたって、同じ空間に何日も居続ければ親近感を覚える。手を差し伸べるのは、差し伸べるだけのお金と、余裕と、何があっても後悔しない、人間のできた奴がやればいい。
(私には、そんなお金も、余裕も、心のゆとりもない。)
「分かった。ちゃんと、出ていく。夕方には家を出るようにするから、それでいい?」
「ああ、それでいい。」
空気が、一段重くなった。傍から見れば、身寄りのない女子高生を追い出している様にでも見えるだろうか、説教をしている様にでも見えるだろうか。しかし、これが最善だった。幸は自分に言い訳をするように、何度も反芻した。そうしなければ、居心地の悪くなった、まだ甘ったるさの残るリビングにいられるほど、私は強くない。
彼女は視線を斜め下に落とし、パーティクルボードの木目を数えていた。視線の拠り所を失ったらしい。幸も、彼女同様に視線を遊ばせた。いつも見ているはずの部屋だったが、思いのほか新鮮だった。多分、ほんの少し詰みあがった段ボールと、配置の変わった掃除機と、可愛らしい女子高生の置物のおかげだろう。
(それにしても、こんなに荷物があったのかこの部屋。流石に少し片づけないとマズいかな。)
購入時期も、購入目的も定かでない商品を見回す。一度使って満足した健康グッツから、プチプチする梱包材に包まれたまま放置された家電、何が入っているか分からない段ボール。長期保存のできる食品をECサイトで購入するようになってからは特に数が増えた。
(あれって…)
幸は膝をつき、目いっぱい右手を伸ばした。同時に左足まで浮いてしまい、ヨガのポーズみたくなってしまう。テーブルから少し離れた窓際の、荷物入れにと活用していた小さめの段ボール目掛けて手を引っかけた。ズイーっとフローリングの上を滑らせ、手元に引き寄せる。腕にピリつく違和感を残しつつも、目的のものを探し出した。
「これ、やらない?」
「…なにそれ」
「ボドゲ」
「何であるの?」
「何でって、そりゃ買ったからだろう。」
「この部屋に人を招いたことがあるってこと?この部屋に。」
「いや、部屋に人を招いたのは今回が初めて。まあ、招いたっていうより転がり込まれただけだけど。」
「じゃあなんで持っているの?」
「面白そうだったのと、パッケージのイラストが好みだったから。」
「遊んだの?」
「対人戦はやったことがない。」
「そう……、ごめんなさい」
彼女は哀れみと、思いやりのこもった視線を幸に向けた。
「違う、多分考えていることは分かるが違う。これは対人戦用に作られているが、ソロプレイもできる非常によくできたゲームなの。ストーリーブックに沿って物語を進行して、選択肢によって難易度やエンディングが変わるように設計されている。ゲームとしての面白さは勿論、世界観とストーリーの作りこみにも定評があるゲームなの。」
「そう、よかった。てっきり二つ並べて一人二役を演じるのかと思った。」
「演じるってなんだよ、どっちも私じゃん。」
「一人で遊ぶことに耐え切れなくなり、ゲームをする時にだけ現れる都合のいい人格を生み出しているかと思って。本人はその記憶をゲーム終了と同時に強制消去するから、気づいた時には並べられたカードだけが残るの。」
「なんで妙に設定が凝ってるんだ…」
流暢に言葉を並べる彼女。口がふさがらない。
「ちなみに何度も記憶を消していくうちに、別人格の方は少しずつ脳に記憶を植え付けていく。本人に気が付かれないよう、少しずつ、少しずつ。最初は夢に現れ、次第に明晰夢となり、それが夢でないと分かった時には人格はもう一つに方に乗っ取られていて」
「もういいもういい、具体的過ぎて現実になりそうで怖い。」
彼女は生き生きとしている。これまで見たどの彼女より、生気を感じた。
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