2-1

 小学校の頃、なりたい職業に『先生』と書いた。それは男性の、スポーツが得意で、飄々としていて、家庭を持っていた先生だった。毎日を楽しそうに生きている先生だった。男の子と野球をして、女の子と娘のプレゼントの話で盛り上がって、童顔な顔がコンプレックスで夏休み明けに真黒な髭を伸ばしクラス中で笑われていた。

 

 未成年への性的暴行が発覚してからすぐ担任が変わったので、一年と少しの憧れだった。

 

 そんな小学校の担任の先生が、人より一回り大きいスズメバチに追いかけまわされている。これは夢だと理解した。幸の身体は動かなかった。迫りくる担任と、担任を追いかけまわすスズメバチ。逃げなければ巻き込まれる。そんなの御免だ。

 

 幸の身体は、動かなかった。

 

 その横を先生が通り過ぎる。スズメバチも通り過ぎる。通り過ぎた後に残った痛みが、ハチミツの香りに消えていった。

 

 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 

 (まあ、夢だよな)

 

 ぼやける視界の中、幸はスマホを探した。枕横のあたりをまさぐる。何やら硬いものに当たったので、引っ張ったらコードが抜けた。スマホの電源を付けた。『12:30』だった。

 

 ポチ、ポチ、ポチ、ポチ。

 

 「小学校の頃の先生、前科あり、スズメバチに襲われる、夢診断。」

 

 『検索条件と十分に一致する結果が見つかりません。』

 

 「まあ、そうだよな。」

 

 幸は忘れた記憶が呼び起されないように、検索履歴から駄文を消した。

 

 起き抜けに部屋を見渡すと、妙に違和感を感じた。部屋が明るい。窓風がほんのり火照った身体を冷ます。テーブルに段ボールがなくなり、薄っすらと木目がデザインされたブラウンのパーティクルボードが見える。その周辺の荷物も一掃され、テーブル周辺にはクッションが置かれていた。心なしかその他周辺の段ボールの高さが変わっており、茶色い威圧感が増している。

 

 何より、部屋に香る甘く香ばしい匂いが空腹を刺激してやまない。たっぷり十二時間かけて消化活動を行ったおなかには毒だった。胃が力強く収縮を始める。

 

 キッチンとリビングとの間に仕切りはない。小さなシンクとまな板一枚のスペースを隔ててガスコンロが一台。久しく回していないガスの元栓と、冷凍食品を並べた皿の山で埋まったシンクから、食欲の湧く匂いがするわけもない。彼女の仕業に違いなかった。

 

 そろそろと、自宅にもかかわらず幸は音をひそめるようにキッチンへ近づいた。キッチンとリビングへとつながる道は一方通行。幸はキッチンスペース手前の、インターホンが設置された死角から覗き見るように態勢を傾けた。

 

 彼女は腰まであった長い髪をクリップでまとめ上げ、綺麗なお団子髪になっていた。深い青色に、こげ茶色のクマの人形がイラストされたエプロンをし、フライパンとフライ返しを片手に器用にパンをひっくり返している。既に何枚か出来上がっており、斜めに半分切りされたパンがお皿に乗っている。綺麗なきつね色が網目模様を描いており、甘い誘惑が鼻孔をくすぐった。

 

 「もう少しで全部焼けるから、まだ食べないで。」

 

 幸の手がお皿に伸びたところでピシャリと彼女のお叱りを受けた。視線はフライパンに向けられていながらも、無銭飲食には目を光らせていた。

 

 「それ、買ってきたの。」

 

 「ドラッグストアに行くついでにスーパーにもよってきた。冷蔵庫の中にシリアルバーと牛乳しかないんだもの。余計なお世話だった?」

 

 「いや、最高の寝起きになった。ハチミツの香りで起きるなんて、オシャレなホテルバイキングみたいだ。」

 

 「残念、これはメイプルシロップ。」

 

 「どっちもほぼ同じだよ。甘くて甘くて、甘い」

 

 「何それ」

 

 甘い香りにつられて立ち寄ったのはミツバチの巣ではなく樹液だった。眠気眼にはどちらも同じだ。幸は目元をこすり、フライパンの上で焼きあがるパンの生末を見守っていた。

 

 「重い、離れて」

 

 肩に顎を乗せられて彼女は鬱陶しいと肩を揺らしたが、幸の顎はすっぽりとはまっていて外れそうになかった。屈んだ腰を戻そうにも、セロトニンが不足していた。

 

 「あ、そうだ。耳ってそのまま食べる派?」

 

 幸は彼女の耳を見た。繊細で華奢な形状かつ、細部のディテールまで作りこんだように綺麗だった。幸の頭は段々と目を覚まし、彼女がパンの耳の食べ方について聞いていることに気が付いた。いくら寝ぼけているからとはいえ、人間の耳の食べ方を問う場面は、スプラッター映画の品評会を行う人間以外では考えられない。

 

 「ラスクにしてもいいんだけど、どうし」

 

 パク。

 

 可愛らしい悲鳴が聞こえた。大きな声を上げたので驚いたのも束の間、彼女の肩が幸の顎めがけて衝突した。鈍い音と、キーンと白くチカチカする世界を一瞬だけ彷徨い、じわじわと痛む顎を摩る。これ以上ない眠気覚ましになった。

 

 「何、するの」

 

 恥じらう素振りなど微塵もなく、臨戦態勢に入る彼女。負傷した左耳をおさえ、フライ返しの先端を突きつけ敵対の意思を示す。火を消していないことに気づいたのか、左耳をかばうのをやめて火を消し、また左耳をおさえた。激情に駆られても、視野は広く持てる質らしい。

 

 「美味しそうだったから、つい」

 

 「……今からラスクを作るから、あなたも一緒にいかが?」

 

 「残念だけど遠慮しておく。どれだけシロップを掛けても血なまぐさくて食べれそうにない。」

 

 顔など洗う必要がないくらいに目はシャキッとしていたが、痛む顎の具合を確かめるため、幸は洗面台へと向かった。

 

 

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