1-4
気が付けばマンション前まで来てしまっていた。
ごみ収集場には、たいして分別もされていないであろうごみ袋の山が出来上がっていた。この地区では朝にごみを出す決まりになっているが、この時間にごみ袋が無かった所を見たことがない。
四階建てのマンションのバルコニーには洗濯物がいくつか干されたまま、カーテンの隙間から明かりがこぼれ出ている階がちらほらと見える。駐輪場には所狭しと並んだ自転車、時折外にまで聞こえてくるの笑い声。四月は盛りの季節だった。
マンションの、エントランス前の両扉を押し中に入る。玄関奥の壁面に取り付けられたインターホンと鍵穴。幸はキーホルダーをポケットから取り出し、目的のカギを差し込んだ。ガラスの自動ドアが、微小な電子音とともに開いたのを確認し、カギをしまった。
扉を抜けて左手にある郵便ポストに向かい、ダイアルを三回回す。中には不在票と宅配ボックスに投函した際の暗証番号が記載されている。幸はそれを一度手にしたが、億劫になって元の位置に戻した。
階段前までたどり着くと、幸は後ろの彼女に「ケース、持とうか」と聞いたが、あまりに彼女は軽く首を振ったので普段よりたっぷりと時間を掛けて階段を上った。太腿が少しばかり悲鳴を上げていた。
アイボリー色な扉の横に『201』のプレートとインターホン。幸は再びキーホルダーを取り出し、扉の鍵穴に差し込んだ。
「こういのって、オートロックの鍵と一本化されてるものだと思ってた。」
「私も思ってた。」
「面倒じゃないの?」
「慣れる。」
鍵を回そうとするが、回らない。ガチャ、ガチャっと音を立てたところで、エントランス前のカギと間違えていたことに気が付く。幸はキーホルダーからもう一つの鍵に持ち替え、再びカギを開けた。今度は回った。
「慣れたの?」
「…もうじき、慣れる」
何故、世には回らないのに刺さる鍵があるのだろうか。吉田沙保里選手なら二、三度は鍵屋さんに厄介になっているところだ。
「私、明日の朝シャワー浴びるから。使いたいなら使って。」
「大丈夫、ここに来る前に一度洗ったから」
洗った、ということは、コンビニに来る少し前までは家にいたのだろうか。とりあえず、考えるのは明日の自分にお願いし、寝る準備を済ませようと物入れに向かった。
「どこにやったかな、たしか前に買ってからそのままにしておいたはず…」
右手に掴んで持ち上げたのは、こんもりと丸く、見た目のわりにぎっしりと中身の詰まった寝袋だった。以前、アニメの影響を受け購入した、キャラクターのイメージカラーである水色の寝袋。キャンプになどこれっぽっちも行く気はなかったが、ミノムシのようにくるまって眠る姿に購買欲求がそそられ、無理のない範囲の安物を購入。二、三度寝て、布団が恋しくなりしまった代物。まさか、このような形で再び日の目を浴びるとは、寝袋も思っていなかったであろう。
「ほら、これ使って。ってどうしたの、さっきから静かだけど。」
「……私、一人暮らしってしたことがないの。一人暮らしの家に行ったことはあるけど。」
「それで?」
「一人暮らしを始めると、将来的にはこの末路を辿るの?」
「末路って、私はまだこの部屋を借りるつもりだし、これからも買い物をするつもり。道半ばどころか始まったばかりだよ。」
「始まりが終わってる…」
彼女はリビングを見渡し、あちらこちらと足の踏み場を探しては、未開封の段ボールの中身をあさったり、電池切れの玩具を触ってみたりと落ち着きがなかった。
幸は久々に部屋の周りを見渡した。最近は職場のコンビニを往復するだけで、マンションをビジネスホテルぐらいの感覚でしか利用していなかったため、山積みの宅配便が内装と化していた。とある現代画家の、我々常人には持ちえない感性をもった御仁の審美眼をもってすれば、この部屋もシックでモダンな部屋だと五つ星評価が下るかもしれない。
「埃っぽい。」
ケホケホと咳き込む彼女を見て少し、ちょっぴり、ほんのわずかだが、幸は片づけようと思った。
幸はクローゼットからスウェットを取り出し、洗面所に行って着替えを済ませた。今日着ていたパーカーが洗濯かごに入りきらず、ずり落ちていく。明日の朝一の予定が決まった瞬間だった。
(そういえば着替え持ってるのか。制服のまま寝るのは流石に。)
「おーい、着替え持ってるか。Tシャツでもよければあるけ、ど」
幸が洗面所に行って着替えを済ませ、簡単に洗顔だけ済ませた短い時間。オートロックマンションに窓は施錠済みのこの部屋に、どうやら猫を招き入れてしまったらしい。
「どうしたの。」
猫が、喋った。夜目の効きそうなブロンドの瞳に、全長百六十センチメートルはありそうな風貌の黒猫、ではなく彼女。よく見ればジッパーの継ぎ目が見える。一回り大きいサイズなのか、腕と足の露出面積が非常に狭い。斜め掛けに被ったフードも、まるで小首を傾げているようで何とも愛らしい。しかし、片目から射すくめるように光る瞳がその愛らしさを相殺しており、良くも悪くもアンバランスな着こなしだった。
「猫、好きなの?」
精一杯の質問だった。
「いいえ、貰い物。一度着て捨てようと思ったんだけど、思ったより着心地が良かったから。少しぶかぶかで、気を付けないと足で踏んじゃうから注意が必要だけど。」
「猫が寝転ぶわけだ。」
「素敵、やってみましょう。あそこに転がっているゲーム機のあたりでやったらもっと素敵。」
「早く寝ろ。そして出ていけ。」
「それなんだけど、寝袋を置くだけのスペースがない。あなたの布団の上に置いてもいい。」
「いい訳ないだろ。そこにちょうどいいスペースがある。」
幸の指さした先を見る彼女。どうやら意味がよく分からなかったようで、小首を傾げている。
幸の指さした先には少し大きめのリビングテーブルが配置されており、テーブルの上にはマグカップにペンが入った小物入れ、それに段ボールが乗っていた。薄っすらと木目がデザインされたブラウンのパーティクルボードも、今やその姿を隠している。
「もしかして、テーブルを片づけてスペースを作れって言ってる?」
「違う、その下だ。テーブルの長い面に沿って寝袋を敷いて、そのままスポッと入ればいい。余程寝相が悪くなければ、脚に当たってテーブルの上のものが落ちてくることもない。」
信じられない、といった目で彼女はこちらを見てきた。口を開けてあんぐりとしていたが、次第に幸の発言に嘘ではないと分かると、顎に手を当て、何やら思考し始めた。
「……私、そっちの布団で寝たい。」
「居候にそんな権利はない。」
結局、その日は日付をまたいで眠ることとなった。最初こそ渋々と寝袋に入り、小言でぼそぼそと(おそらく愚痴だろうが)何かをこぼしていた彼女だったが、静かな寝息を立て、四十センチあまりのテーブル脚の間で器用に寝返りをうっていた。
幸もそれにつられるように眠りについた。何一つ、名前すら知らない、おそらくは女子高生であろう猫のような人間を拾ってきてしまった。
厚かましく、屁理屈で、揚げ足取りで、不気味で、怪しくて、嘘が見破れて、キャリーケースを持っていて、猫のパーカーを着ていて、ブロンドの瞳と艶やかな黒髪と腹立たしいくらいに整った目鼻立ちの容姿をもっていることぐらいしか、分からなかった。
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