第5話





 本来の退勤時間は午後四時だ。そこから先は時間外労働であり、当然ながら残業代は出ない。記録上は残業ゼロの、クリーンな職場として法人側に報告するためだ。上が無茶な目標を立てたせいで、現場は余計に締め付けられてしまう。

 それでも、自分のためならまだ良かった。今回は他人の仕事の肩代わりだ。割に合わない。骨折り損のくたびれ儲け、ということわざがお似合いだろう。要領よく生きる術が知りたい。


「お先に失礼するよ」


 一旦、打刻のために職員室を訪れると、園長の日笠ひがさ冬蔵とうぞうと鉢合わせた。いつもスーツ姿で恰幅の良い、悪く言えば肥満体系の高齢男性だ。白髪は剪定せんていに失敗した生垣いけがきのように禿げ上がり、足腰は脆弱ぜいじゃく蝸牛かたつむりごとき緩慢な足取り。見ているこちらの方が不安になる枯れ方だ。下手に園児と遊べば大惨事もあり得るだろう。幸い普段は園長室にこもり切りなので心配ないのだが、それはそれで問題に思う。たまには子どもと接してほしい。


「霧島君も早く帰りなさいよ」


 好々爺こうこうや然とした含み笑いを漏らしながら、よぼよぼ覚束ない足取りで園を後にしていく。

 仕事が山積みと知って皮肉で言っているのなら、性格が悪いことこの上ない。だが、彼の場合、本気で何も考えず言った可能性が高い。現場の実情を知らないのだ。思慮浅く失言が飛び出すのも頷ける。もっとも、腹立たしい事実に変わりないのだが。

 ああ、さっきからイライラしっぱなしだ。

 現場の上司にも、職場全体の上司にも。無論、不甲斐ふがいない自分自身にも。

 重たくなった頭を垂らしたまま、職員室の引き戸に手をかけたところで、


「園長のことなんて気にするなよ」


 ぬっと、後ろから首が伸びてくる。

 弾かれたように振り返ると、筋肉質な肉体がそこにあった。


「はは、ごめん。驚かすつもりはなかったんだ」


 背後に立っていたのは、五歳児クラスを受け持つ一之瀬いちのせ澄法すみのりだ。保育教諭二年目で、鈴音の一年先輩にあたる。

 刈り上げた頭部のツーブロックが爽やかさを醸し出し、半袖Tシャツから覗く前腕のなだらかな盛り上がりが美しい。スポーティな細マッチョだ。肉体もさることながら、その相貌そうぼうも見目麗しい。二重瞼ふたえまぶたに黒々とした大きな瞳、鼻梁びりょうのくっきりした彫り深い顔立ち。二次元の世界から飛び出してきたのではないか、とあらぬ錯覚をしてしまうほどだ。


「あ、あの、えっと」


 口をあんぐり開けたまま硬直していた。

 何か返答しなくては。あたふたと大急ぎで脳味噌のうみそを回転させるも、何も思いつかず言葉に詰まってしまう。ここは現実だ。ゲームのような都合の良い選択肢は浮かばない。アニメみたいな流暢りゅうちょうな会話も不可能だ。自分とは正反対の、美形相手となると尚更である。

 これじゃあ、変な後輩だと思われちゃう。

 焦れば焦るほど顔が紅潮する一方で、まごつきばたつきどうしようもない。


「何かあったら、いつでも相談してくれよな」


 口をパクパクさせている間に、澄法はきびすを返して五歳児クラス、あい組の部屋がある二階へと戻っていく。姿が見えなくなったあたりで、階段上からわっと子ども達の歓声が響いてくる。園の中でも一位二位を争う人気で、他クラスの子どもからも好かれるほどだ。素直に憧れてしまう。

 自分もあんな風になりたい。

 でも、とてもじゃないが、なれるとは思えない。

 彼の姿を目にする度に、鈴音の胸はじくじくと痛んでしまう。





 教材倉庫。職員室とむらさき組の間に位置する縦長の区画を訪れる。

 悪戯防止の鍵を外して引き戸を開けると、ぬるま湯のような空気が溢れ出す。掃除が行き届いていないせいか、悪臭一歩手前のキツい臭いが鼻腔びくうを刺激してくる。

 倉庫の至る所に段ボールが積まれており、棚に入りきらない分は乱雑に転がっている。それぞれから折り紙や画用紙が飛び出しているが、幾つかはあまり使われていないのか、ほこりが溜まって層になっていた。

 元々狭い空間なのだが、所狭しと教材がひしめくせいで、余計窮屈きゅうくつに感じる。誰も彼も日々の保育に忙しく、整理整頓をする時間的余裕がない。園児や保護者が訪れる場所ではないのをいいことに、長年手を抜き続けているのが伺える。微弱な地震が発生しただけで、いとも簡単に崩れてしまいそうだ。長居はしたくない。早いところ済ませよう。

 鈴音は段ボールから目当ての物を引っ張り出す。

 任せられたのは教材の準備だ。五月に行う活動の一環で、葉っぱ型に切り抜いた画用紙が大量に欲しいそうだ。千佳からの注文は、できるだけ多く切り抜いておくように、とのこと。目標数が不明確だ。果てしない虚しさに気が遠くなる。


「そういえば、ここって確か」


 アレがある場所だ。

 今一つやる気が出ないせいか、誘われるように奥へと進んでいく。

 初めて教材倉庫に入った際、その異様な光景が印象に残っていた。アレは未だ置かれたままだろうか。

 うず高く積み上げられた段ボールジャングルを慎重に抜けていく。途中、崩れそうな箇所を適当に整えながら、倉庫最奥部まで踏み込む。

 果たしてそこには、変わらずあり続けていた。


「やっぱりあった」


 それは神棚だった。

 注連縄しめなわ神鏡しんきょうなどの神具がない簡素な物なのだが、それ自体は特に不思議ではない。問題なのは、神棚が床の上に直置きされていることだ。

 宮形みやがたと呼ばれる小さな神社が、打ち捨てられたように転がっている。

 紛うことなき罰当たりな光景がそこにあった。

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