第4話


「代わりに返事をしておくわね」


 頭を抱え一文字も書けぬ姿に察してか、真矢子が連絡帳を交換してくれる。ベテランとして手本を示そうとしているのだ。

 しかしそこで、鋭く毒づく者が約一名。


「あなた、それでも四大卒なの?」


 書き途中の連絡帳から目を離さず、千佳が悪意に満ちた言葉を放ってきた。


「私は短大卒だけど、新任の時から先輩になんて頼らなかったから。無駄むだに時間かけて勉強しておいて足手まといとか、保育の仕事を舐めないでもらえる?」

「それは、その……すみません」


 弁解の言葉が出かかったが、結局平謝りだった。

 口答えしたところで事態が悪化するだけだ。更なる叱責が待ち受けているのは火を見るより明らかだろう。


「あと馬場先生も、甘やかしてばかりでどうするんですか。そんな調子だから、まともな後輩が育たないんですよ?」


 小言ついでに、上司にもチクリと刺していく。

 あの噂が事実だとしたら、再教育も兼ねたきいろ組への配属は効果なしだ。園児や後輩どころか、年上相手にすらこの態度である。

 ただそれは、千佳本人だけの問題ではないだろう。


「あらやだ勝山先生ったら。ごめんなさいねぇ、うふふ」


 失礼な物言いをされたというのに、真矢子はコロコロ笑うばかりだ。

 ここはベテランとして、毅然きぜんとした態度をとるべきじゃないのか。面と向かって馬鹿ばかにされているのに、何故平気な顔で笑っていられるのだろうか。

 徹頭徹尾平和主義。事を荒立てたくないのだろう。技術は高くとも上司としてあまりにも頼りない。もっとも、人のことをとやかく言えないのも事実ではあるが。


「ちょっと、この臭いって」


 千佳の鼻がぴくつく。遅れて真矢子、鈴音も異臭にはっとした。

 醤油しょうゆラーメンのスープを彷彿ほうふつとさせる、香ばしく濃厚で独特な臭いだ。きいろ組の空気に薄っすらと漂っている。

 本日の給食は白米が盛られた和食であり、誰かがラーメンの出前を取った訳でもない。近所に中華料理店はおろか建物がなく、台地のてっぺんで孤立しているこども園だ。

 では何の臭いかというと、ずばり尿にょうだ。醤油ラーメンの臭いがする場合、昼寝中に誰かが漏らしたと相場が決まっている。


「やっぱり、トイレトレーニングは早かったんですよ」


 わざと聞かせるように、千佳が舌打ち混じりで文句を吐く。

 二歳児でも、月齢が高い子はおむつからパンツに切り替えている。尿意を言葉で伝え、自分の意志でトイレに行くための練習だ。その一環でパンツを履いて入眠する子がいるのだが、結果は御覧の有様である。

 子どもは失敗を繰り返して成長するのだが、その都度後始末に追われて手間が倍増。しかもそれが最大十八人分。理屈は分かるも徒労感は否めない。

 だがこれで、針のむしろから抜け出せる。

 漏らした子のパジャマと布団を替えるため、鈴音はそそくさとその場を離れた。





 午睡明けも戦争、相も変わらず火薬庫だ。

 寝起きで機嫌が悪い子、眠り足らず起きない子、体力が回復して暴れ出す子。起床に時間をかけるほど、喧嘩の勃発ぼっぱつ率が上がっていく。

 それでもどうにか乗り切った。午後のおやつを食べさせて、終わった後は外遊び。園庭からキャーキャーと、奇声にも似た歓声が反響して耳朶じだを打つ。

 鈴音の役割は保育室の掃除だった。子ども達は同僚二人に任せ、汚れた室内を綺麗さっぱり元に戻す。また明日、気持ちよく過ごしてもらうためだ。手抜きは許されない。

 早朝からぶっ通しの労働で疲労困憊こんぱいだ。しかし、あと少しで勤務時間が終了する。もうひと踏ん張りと、体にむちを打って床を雑巾で拭いていく。至る所に小石や食べかすが転がっている。前者は怪我の元、後者は害虫を呼び寄せる元凶だ。丁寧ていねいつ手早く取り除いていく。


「ホント、何のマークなんだろう、コレ」


 部屋の四隅に彫り込まれた異様な印。

 雑巾がけをしていると嫌でも目に付いてしまう。きいろ組だけでなく、他の保育室にも同じものが刻まれている。

 一人分多い椅子も加味すると、ただの悪戯いたずらでないのは確実だろう。何らかの意図があるのだろうが意味不明だ。

 それは形容しがたい奇妙な形をしていた。

 帽子を被った人間の頭を極限までデフォルメして、仕上げに中心部を丸で書き込んだような。あるいは、見開いた瞳の絵に横一文字を引いたような。それとも歪んだ土星か、出来損ないのアダムスキー型円盤か。とにかく、説明困難なマークである。

 謎の印や椅子といい、千佳の“ぬゑらぜ”発言といい、この園はどこかおかしい。目に見えた実害はないが、薄気味悪い雰囲気が立ち込めている。本能的な忌避感きひかんが体の奥底から湧き上がり、根源の分からぬ憂いにさいなまれてしまう。

 それは、まるで――と、考えを巡らせたところで、きいろ組の引き戸が開かれる。


「悪いんだけど、頼みごとを引き受けてくれない?」


 千佳だった。

 噂をすれば影が差すと言うが、口にせずともやってくるとは。悪い意味でタイミングが良い。おかげで、極度の緊張から冷や汗がどっと溢れ出る。やましいことは何もないのに脇腹がキリキリ痛んでしまう。


「な、なんでしょうか」

「それがさ、来月の保育なんだけどね」


 曰く、忙しくて教材準備に手が回らないので手伝ってほしい、とのこと。

 本来であれば、五月の保育を率いる千佳がやるべき仕事だ。一部を補佐するとしても、大部分は本人が担わなくてはいけない。しかし、「新人は何事も経験だ」という、それらしい理由でごり押しされた。

 さすがにそれは筋が違うだろう。と、はっきり拒否できるはずもなく、愛想笑いで引き受けてしまった。

  悪い癖だ。自信がなくて優柔不断。安請け合いしては貧乏くじを引かされる。幼少期から全く成長していない自分に辟易へきえきする。

 せめて、自分の気持ちをはっきり言えるようにならないと。

 溜息混じりに、鈴音は残りの雑巾がけを済ませていく。

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