第2話


 うららと入れ替わりに若い女性がやってくる。

 切り揃えられた茶髪のショートカット。色白な肌を切り裂くようなまなじり鋭いつり目。モデルと見紛うすらりと長い手足。同じきいろ組を担当する先輩の保育教諭、勝山かつやま千佳ちかだ。

 ぞわり、と全身が総毛立った。

 脊髄せきずい反射で防御態勢に入る。心臓が早鐘を鳴らしている。緊張を周囲に気取られぬよう、深呼吸で自身を落ち着かせる。

 いつものことだ。

 彼女の姿を視界に入れるだけでこうなってしまう。

 千佳のことが苦手だ。拒否反応が出るほど生理的に受け付けない。

 働き始めてたった半日で痛感した。そして残り一年、同じ空間を共有するという事実に愕然がくぜんとなった。

 原因を挙げるとキリがない。言葉の端々にとげがあるとか、見下すような視線を向けてくるとか。細かく言えばいくらでも出てくる。無論、こちらに非がある点もあるだろう。新卒ので新米、右も左も分からぬ初心者。ミスで気を悪くさせている可能性も大いにあるし、全力で挽回ばんかいするつもりでいる。

 それでも、ある一点については、「間違っている」と声を大にして言いたい。


「ちょっと、朝からうるさくしないで」


 はしゃぐ桃華に対し、千佳が冷たくとがめる。

 保育室が狭い上、これから他の子どももやってくる。言い方はともかく、指摘自体は問題ないだろう。だが、続く言葉は受け入れられない。


「“ぬゑらぜ”様が見ているのよ?」

「はーい……」


 しょんぼりしおれた花になり、桃華はすごすごとマットに腰を下ろす。片や千佳は腕を組み、縮こまる鈴音を睥睨へいげいしている。「何か文句ある?」と言外に牽制けんせいしているようだ。

 今の叱責は教育上よろしくない。

 理由その一。誰かが見ているから悪いことをしない、というのは逆に言えば、見ていなければやってもよい、という意味として伝わってしまうから。

 理由その二。権威を借りて問答無用で押さえつけるのは、子どもの心を恐怖で支配するのと同義であり、社会規範の芽生えに繋がらないから。

 などと、教科書通りの指摘はこの際脇に置いておく。

 一番引っかかるのは、“ぬゑらぜ”という謎の存在を指す単語だ。彼女はことあるごとに、この名前を持ち出している。

 様付けで呼ばれているあたり、位の高い存在なのは確実だろう。全く聞き覚えがないのだが、どこかの宗教の神様だろうか。様々な子どもが過ごす場で、特異な思想を持ち出してほしくない。

 だが、この園はそれを受け入れている。ミッション系をはじめとした、宗教に根差した施設ではないはずなのに、である。

 園自体、どこかおかしい。その異様ぶりがそこここで滲み出している。


 ちらり、と。部屋の隅に置かれた椅子に目をる。

 むらさき組は早朝及び延長保育に使用する都合上、個人用の椅子は存在しない。はずなのだが、何故か一脚だけぽつんとある。その座面の裏には見慣れぬ印が彫り込まれており、子どもも保育者も誰一人として座らない。予備の椅子としてではなく、常に空席が維持されている。しかもその印と同じデザインが、部屋の四隅にも刻まれているのだ。

 この部屋だけではない。どこの保育室でも同様のおかしな点がある。椅子に関して言えば、クラスの人数分に加えて、もう一人分の席がある。ゼロ歳児の場合はベッドだが、やはり一つ多い。印もそれぞれの椅子やベッドの裏にあり、各保育室の四隅に刻まれているのもやはり同じだ。

 園の運営上、それらをする合理的な理由が見当たらない。むしろ気味が悪い。保育教育の面で悪影響があるのでは、と感じてしまう。

 一体、何の意味があるのだろうか。

 “個性いきいき、元気いっぱいな子ども達”。

 そんな園目標とは別の、何らかの意図があるような気がしてならない。





 二歳児クラス、きいろ組。

 子ども達は午前の間食、おやつの時間を終えて、園庭で外遊びを始めていた。砂場に総合遊具、あるいは三輪車に跨って爆走。各々興味の赴くままに遊んでいる。遅れて教育部、三歳以上の園児達がやってくるも、気にも留めず自分の世界にどっぷり。一部の子は一緒に遊んでいるが、まだまだ並行遊びの段階だ。お互い干渉し合うことはない。

 みんな、楽しそうでいいなぁ。

 と、のんびり眺めていてはいけない。

 保育者は命を預かる立場なのだ、安全には細心の注意を払わなくては。

 また、言語能力が未熟であり、友達同士で喧嘩けんかに発展するのも日常茶飯事だ。危険な場合は逐一仲裁し、コミュニケーションの取り方を教えなくてはならない。子どもと一緒に遊ぶだけの仕事と思うなかれ。人付き合いが苦手な鈴音には荷が重い役割なのだ。

 それでも、きいろ組の担任は三人いる、というのは救いだろうか。

 国の保育士配置基準により、二歳児六人につき一人の保育士を置くと決まっている。きいろ組はちょうど十八人のためぴったりの数だ。基準ギリギリとも言えるだろう。

 他に救いを挙げるとするならば、もう一人の先輩である、馬場ばば真矢子まやこの存在だろうか。後頭部のお団子結びがチャームポイントの女性だ。職歴二十五年の大ベテランで、四月の保育を率いるのは彼女の役目である。

 まずは先人の仕事ぶりを見て学べ。自分の番が来るまでに、可能な限り技術を盗むのだ。うまくいくかは疑問だが、ひたすら遮二無二やるしかない。


「ねぇ、金剛君。何をしているのかな?」


 園庭の隅にて、屈んで目線を合わせながら声をかける。

 クラスで一番気になる子、田口金剛。彼はいつも物静かで、怖いほどに大人しい。この春入園したばかりなのに、母親を求めて泣いたり暴れたりと、よくある反応を一切見せなかった。かといって、園生活に適応しているかというと、疑問符が浮かんでしまう。保育室ではじっと動かず、時折室内の一点を凝視したり目で追ったり。外に出てもやはり動かず、人込みから離れて座り込んでいるばかりだ。


「桃華お姉ちゃんは、いっぱい走り回っているね」


 彼の姉、桃華は同い年の男子達とごっこ遊びに興じている。身振り手振りからして戦いの真似事、いわゆるヒーローごっこだろう。彼女もこの春園に来たばかりの転園児なのだが、既に周囲と打ち解けており、クラスの人気者らしい。実に対照的だ。

 金剛はぼーっとどこかを見つめている。保育室の時と同じだ。姉の様子が気になるのかと思えば、どうも違うらしい。視線の先は園庭南東の隅に位置する倉庫だ。中に仕舞われた用具に関心でもあるのだろうか。彼の感性が分からない。

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