第11話 紅く染まった拳

 目を開けると、そこは豪奢な書斎だった。

 見るのは初めてじゃない。それどころか毎日のように見ていた。

 私の一番苦手な場所。入るたびに胃がキリキリと締めつけられるような感覚に襲われる。

 これからされる事への恐怖と威圧感から、自然と背筋が丸まって目線が下に向いてしまう。

 この日もそうだった。怖くて、言葉に詰まっていた。

 そしてあの人に言われた言葉が、震えていた私の心を凍てつかせた。

 全てを薙ぎ払われたのだ。自分の将来も、今自分がここにいる意味も、これまで自分がしてきたことの価値も。

 そして何より、自分の存在を。

 私は必死だった。声を絞り出して、自分の存在を示そうとした。

 そんな私に、あの人は言った。


 私の心を壊した、あの一言を。




「ハッ………!」

 何かに突き動かされたように、万代さんはいきなり目を覚ました。


「ここは………」

「あっ、起きたんだ。おはよう」


 声をかけると、万代さんは上を向いた。

「終夜、さん………?あっ!す、すみません‼︎私………」

「いいよ、このままで」

 状況を思い出したのか、万代さんは慌てて起き上がろうとする。

 でも辛そうな彼女を起こすわけにもいかず、そのまま横にさせる。

「大丈夫?すごいうなされてたけど」

「あっ………は、はい」

 頷いた万代さんだったが、顔色は明らかに良くない。苦しそうに俯くと、手を強く握った。

「ッ!痛い痛い………」

「えっ?」

 顔を歪めた私を見て、万代さんは私が手を握っていたことに気がついたようだ。

「すみません!手、握っていてくれたんですか?」

「まぁ、ちょっとは楽になるかなって」

「そう、ですか………」

 万代さんは手を離すと、悔しそうに足を抱えて蹲る。

「どうかしたの?」

「まぁ、少し」

 帰ってきた言葉はそれだけ。腕で目を隠して震える息を吐いた。あまり話したくないということだろう。

 変に詮索するのも良くないかな。


「もうちょっと寝てる?」

「えっと………」

 素直に横になるかと思ったが、万代さんは言い淀んでしまった。

「これじゃ………ダメ」

「えっ?」

 あまりに小さな言葉は私に届かず消えていった。




「その………ありがとうございました。おかげで、休めました」

 そう言うと、万代さんは起き上がる。おぼつかない足取りで公園を出ようとする。

 とても休めた人の状態じゃない。

「待って。もうちょっとゆっくりした方がいいって」

「大丈夫ですよ。これ以上終夜さんを付き合わせるわけにはいきませんし」

「でも………とにかく待って」

 後ろを追って万代さんの腕を掴んだ。どこかに行ってしまわないように、強く。

 自分でも何でこんなことをしているのかは分からない。衝動に突き動かされて体が動いていた。



「そんな状態で帰っても、ただ辛いだけだよ」

「………離してください」

 万代さんはこっちを振り返らず、手を振り払おうとする。

 でも離すわけにはいかなかった。今離したら、万代さんは………


「自分のしてきたことが嫌なら、放っておいちゃダメでしょ」

「分かってます。でも今は………一人になりたいんです」

「そんなに怯えてるのに?」


 握った彼女の手は小刻みに震えている。

 やっぱり怖いんだ。他でもない、自分自身の心が。


「どうしたらいいか分からないなら、ちゃんと人に聞いた方がいいと思うよ。私じゃなくてもいいから」

「………大丈夫です、やるべき事は分かってますから」

「えっ?」


 万代さんは無理矢理深呼吸して、自分を落ち着かせた。




「もう一人の私を抑え込む。それだけです」

「抑え込むって………」

 たしかにそれが出来れば色々解決はするが、そもそもどうやるかも分からないんだ。

 それに、それじゃあ根本的な解決にはならない。それくらいは分かってるはずなのに。


「人を傷つける人格なんて、出てこなければいいんです」

「落ち着いてって。それじゃダメだよ」


 他人のことだ。私が干渉するべきじゃないのは分かってる。それでも放っておくわけにはいかなかった。

 私にしか分からないことがあるから。

「もう一人の万代さん、出てくる時にいつも何か呟いてた。あんまり聞こえなかったけど、ただ楽しみたくて暴力を振るってたわけじゃないと思う」

「………だったら、何ですか?」

「きっと何か理由があるってこと。だから、ちゃんと話そう」

 私なりに考えて、万代さんのためになると思って言ったつもりだった。



 でも振り返った万代さんの目は、涙で濡れていた。



 その目を見て、初めて気がついた。

 もう一つの人格を何とかしたいばかりに、万代さんの心に目を向けていれなかったことを。

 気持ちがすれ違ったことを突きつけられて、やってしまったことの焦燥で息が詰まった。


「何故ですか?私のことを、助けてくれるんじゃなかったんですか?私がもう………誰も、傷つけないように」


 そうだ。私は絶望に打ちひしがれていた万代さんを助けたかった。

 裏の人格が出てこないように、一緒にいようと思っていた。それは今も変わらない。

 けど今は、それだけじゃない………

「結局、終夜さんも私が………」

「万代さん?」

 言葉の最後は、あまりにも小さな声で聞こえなかった。


 万代さんは唇を噛んで、目を伏せた。

「………もういいです。自分のことは、自分でどうにかします!」

「待って、私は………」

「離してください!」


 万代さんはどんな時でも穏やかで、痛いほどに真っ直ぐな目をしている。

 でも今は違う。私から目を逸らして、乱れた心をかき消すように無理矢理にでも手を離そうとする。

 私は、彼女を追い詰めたかったわけじゃない。でも、言った言葉に嘘はなくて。

 伝えたい想いが伝えられず、私はつい強く腕を引っ張り声を荒げてしまった。



「向き合わなきゃどうしようもないでしょ。それなのに、万代さんが邪魔してるの!」



「ッ⁉︎」

 万代さんの体がビクッと震え、息が途切れた。

「………ぇ、ぁ………」

 喉の奥に残った声を吐き出し、糸が切れたように瞼が落ちる。

「万代さん、大丈夫?」

 力の抜けた万代さんの肩を抱いて支えた。


 しかしそこにいる万代さんの表情には、もう恐怖なんて微塵も感じなかった。

 目を閉じていて分かりにくいはずなのに、あからさまな変化が伝わってくる。

「………ハァッ」

 浅くなっていた呼吸が繋がり、低い声と共に吐息を溢す。



「オイ………いい加減にしろ」



「ッ‼︎よ、万代さん………」

 その声にゾワッと背筋が震えた。

 開いた万代さんの目は、これまでに見たことないほど怒り………いや、殺気に満ちている。



「またこうなるのかよ………そんなに殺されたいなら、殺してやるよ‼︎」



「ぐッ、がはッ‼︎」

 肩を掴んでいた腕を捻られて、私は腹を蹴り飛ばされた。薄暗い路地まで飛ばされ、コンクリートの塀に頭をぶつける。痛みと衝撃が襲い、一瞬意識が飛ぶ。


 それだけで終わるわけもなく、首を摘まれて無理矢理立たされた。

「失せろ、俺の前から………この世からぁッ‼︎」

「あぁッ!よ、万代、さん………がぁッ、ぐッ!ぐふッ‼︎」


 万代さんはひたすら私を殴り続けた。

 顔を何度も殴られ、肉と骨がぶつかり合う音だけが路地に響く。

 鈍い痛みが全身を蝕み、視界がどんどん狭くなる。それでも拳を振るう万代さんだけは、鮮明に見える。


 人格の変わった万代さんに殴られるのは、これで何回目だっただろうか。

 血が滲むまで殴ると、首を掴んでいた手に力を込めた。

「かはッ‼はぁ、がッ………‼」

 息ができなくなり、全身から力が抜ける。首の骨のきしむ音が、耳の奥に響く。


「お前は、違うと思ってた………でも結局、何も変わらねぇ………!」

「ぐッ!かはッ!はぁ、わ、私は………あぁッ‼︎」

「上っ面だけのクソみてぇな戯言が人を殺す。そんなことも分からねぇのか‼︎」


 万代さんの想いが、言葉が、拳に乗って突き刺さる。



「『何かして欲しいなら聞く』そう言ったよなぁ‼」

「ぐふッ‼」



「聞いてどうするつもりだ?お前なら俺の願いを叶えられるのか、あぁッ⁉」

「ゲホッ、ぐッ‼」



「なら教えてやるよ。俺は殺したい、お前も‼︎コイツも‼︎俺の目に着くヤツ全員‼︎」

「きゃあッ‼︎」



 コンクリートの地面に投げられて、身体のところどころが擦り切れる。

「どいつも、こいつも、勝手な事ばかり言いやがって………ふざけンな‼俺は、俺は………‼」

「ぐッ、がッ、がはッ‼ゲホッ‼」

 何度も踏まれて、蹴られて、私は血を吐き出した。



「はぁ、はぁ………やられてばっかじゃねぇで、何とか言ってみろよ」

 万代さんは荒く息を吐いて、私の上に跨り胸ぐらを掴んだ。

 薄暗い路地とはいえ、表は公園近くの大きな道。今叫んだら、もしかしたら人が来てくれるかもしれない。


 でも叫べなかった。

 暴力により叫ぶ力がなくなったわけじゃない。叫ぶ気になれなかった。

 今の万代さんは凶暴で、殺意に満ちている。

 でもそれは、逆に言えば私が彼女をそんな風にしてしまったのだ。

 だから、紡がれた言葉は短かった。




「ごめん、ね………」




 今更意味がない事は分かっていた。

 それでも、言わなきゃいけなかった。言わなかったら、その先にある自分の想いも言えないと思ったから。

 初めてだった。人格の裏返った万代さんを人間らしいと思ったのは。

 でもそんなの当たり前のことだ。

 どんなに凶暴でも、悪辣でも、人間であることには変わりないんだから。

 そう思ってかけた言葉は、万代さんの中で燻っていた何かに火をつけた。




「………そんな目で………そんな目で見るンじゃねぇ‼」




 馬乗りになった万代さんは、衝動のままに私を殴り続ける。

 痛みだけが体を走り、意識が薄れていく。

 最後に私の目に映ったのは、紅く染まった拳を振るいながら叫ぶ万代さんの姿だった。



「死ね!死ね!死ね!死ね!死ね!死ね!死ね!死ねぇッ‼」

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