第3話 多重人格
解離性同一性障害、一般的には多重人格と呼ばれる。
一人の人間の中にいくつもの人格があって、時折その人格が表に出てくる。
それ以外のことは個人差があるので割愛するが、大抵その場合引っ込んだ人格は、その時の記憶はない。
つまり人格が入れ替わってる間、自分が何をしていたか分かってない場合が多いわけで。
だから万代さんは、自分が暴力を振るっていたことを覚えてなかった。
その時点で可能性としては浮かんでいたものの、現実的に考えれば二面性が激しい可能性の方がよっぽどあり得た。
だから勝手に除外していたわけだが。
「流石に気付くか。チッ、めんどくせぇ」
制服のリボンをむしり取り、彼女は首を鳴らす。
誰に対しても優しい万代さんの人格は引っ込み、今私と話してるのは別の万代さんだ。
目の前の敵を全て排除しようとする、悪辣で残忍な二つ目の人格。
今すぐ逃げるのが正解なんだろうけど、恐怖が逃げてはならないと身体が告げている。
「万代さんは、あなたのこと知らないんだよね?」
「あぁ。幸い、俺が出てきた時の記憶は無かったみたいだからな。全部痕跡消して、夢っぽくしてた」
だから誰かに暴力を振るっても、本人はそれを覚えてなかったわけだ。
「えっと………私、もう帰っていいかな?」
聞きたいことは山のようにあるが、だからと言ってこれ以上万代さんに関わったら碌なことがない。
今だってちょっと話しただけで、腕捻られて腹を踏まれたのだ。さっさと帰って全て忘れてしまいたい。
走って離れようとするが、その前に万代さんが蹴りを放つ。当たったフェンスが変形した。
目の前ギリギリに放たれた蹴りによって、逃げ道を塞がれる。
ガシャンッと金属の軋む音が響く。
「そういうわけにはいかねぇな。俺のことを知ってしまった以上、下手なことされると面倒なんだよ」
「べ、別に、誰かに言うつもりとか無いから………」
「信用出来るかよ。誰のせいでコイツが勘づいたと思ってる」
自分を指差して、万代さんがにじり寄ってきた。
「そんなこと言われても………」
たしかに彼女自身にも言うなとは言われていたし、それをうっかり言ってしまったのは私だ。
でもまさか二重人格なんて考えてもみなかった。
彼女が口止めしたことを本人が知りたかってたんだし、あの場合誰でも話しても問題無いって思うに決まってる。
「言い訳してんじゃねぇ。言ったら殺す、そう言ったはずだ」
その瞬間、私は胸ぐらを掴まれてブロック塀に叩きつけられた。
「ぐっ!」
「さて、どう殺してやろうか」
万代さんの顔が肉薄し、彼女の黒髪が私の頰に触れる。鋭い視線が私を貫いた。
逃げなければならないのに、恐怖で身体が動かない。
私と同じくらい細い指が、私の首に巻き付いた。力が入り、息苦しさが込み上げてくる。
「がッ!あぁッ…………!」
「いいなぁ、そのビビった目。ハハッ、食いがいがありそうだ」
黒い瞳が狂気に輝き、口の端が吊り上がり白い歯が覗く。
楽しんでる。私の怖がってる表情を見て、楽しんでいるんだ。
ジワジワと力が強まり、僅かに残った息が震える。
「はぁ、あッ、くぅッ………!がはッ‼︎」
苦しみにもがしていた上、腹を殴られて残りの息を吐き出す。
「オラ、もっといい声で鳴いてみろよ」
「ぐっ!やめ、きゃッ!あぁッ、ひゃッ!ぐふッ‼︎」
身体に痣ができて、周りを取り囲んでいた音が遠のく。それでも尚、万代さんの拳は止まらない。
「偉そうな戯言垂れ流しやがって。その喉捻り潰してやろうか」
「あ゛ぁぁぁッ‼︎ぐっ、かはッ!あぁ、あぁッ!」
「どいつもこいつも、俺を、除け者に………俺は、俺は………」
何かを呟いているように見えるが、拳の音が重なりはっきりと聞こえない。
痛みで身体が痺れ、もはや抵抗することすら出来なくなる。
ただ苦痛を受けて呻くだけ。このままじゃ本当に死んでしまう。
馬鹿だなぁ、私。
やっぱり、人に関わるべきじゃなかったんだ。関わるべきじゃ………
「なん、で…………」
「あぁ?」
小声で呟いた私を見て、万代さんは拳を止めた。
「何が、したいの………万代、さん」
意識が薄れる中、気がつけば、私はそんなことを尋ねていた。
たとえ人格が変わっても、目の前にいるのは万代さんだ。
誰にでも優しくて、花が大好きなクラスメイト。
そんな彼女が、人を傷つける理由は何なのか。理由なくこんなことできるわけがない。
他人の行動理由、気持ち。ただ面倒で関わってこなかったものを、自分から尋ねた。
「テメェ………」
一瞬、万代さんの目力が強まった。
もう耐えられない。
死を覚悟して目を閉じる。
しかし次の拳が万代さんから放たれることはなかった。
眠そうに瞼が落ちて、身体の力も抜けていく。そのまま動かなくなってしまう。
手の力が弱まったことで少しずつ空気が入ってきて、意識が回復する。
こ、これって………
しばらくして、彼女のゆっくりと目が開いた。
「んん………ここは、公園………?何で、私、立って………?」
瞼をパチパチと動かし、辺りを見渡す。前を見て、私と目が合った。
「終夜、さん………?」
「あぁ、うん………」
どうやら元の万代さんに戻ったようだ。
寝起きのようにとろんと目尻が下がり、声音も優しいものになってる。
「これは………えっ⁉︎な、何で私、終夜さんの首を⁉︎すみません‼︎」
「かはっ!」
自分のしていた行動に驚き、慌てて私の首から手を離す。まだ息苦しさと痛みが身体を蝕み、私は膝をついた。
「終夜さん、きゃあッ⁉︎怪我してるじゃないですか‼︎一体何が⁉︎」
私のことを心配して、万代さんはしゃがみ込む。
さっきまでのこともあり、恐怖で身がすくむ。
そんな私の心情など知るわけもなく、彼女は私に肩を貸した。
「え、えっと………」
これ………私が説明しろ、ってこと?
とりあえずこんな所で立っていても仕方ないので、私達はベンチに座った。
「と、とにかく手当てしないと!えっと、絆創膏二つくらいしか持ってないんですけど………」
「充分だから、ありがとう」
怪我した私以上に取り乱している万代さんを見ていたら、何だかこっちは冷静になってしまった。
とりあえず酷い怪我の箇所にだけ絆創膏を貼り、後はハンカチで血を拭う。帰ってから手当てすればいいだろう。
「それで、私が寝てた間に何があったんですか?何故私、終夜さんの首を掴んで………」
「落ち着いて。全部話すから」
もう知らぬ存ぜぬでは通せないだろう。私から話すしかない。
「その、信じられないと思うけどさ………」
私はさっきまでのこと、さらには一週間前のこと、彼女の置かれてる状況を全て話した。
出来るだけショックが薄くなるように、言葉を選んで要点だけ伝える。
最初こそ信じられなくて眉を顰めていたが、私の怪我のことやストラップのことを話したら、もう信じざるを得なくなったようだ。
何より、私の血が滲んでいる自分の拳が、何をしていたのかを如実に物語っている。
「………って感じかな。これが私の知ってる全部」
全てを話し終えて、万代さんの様子を伺う。
ショックが大きすぎて、絶望のあまり俯いている。
無理も無いだろう。自分の知らないところで人に暴力を振るっていたなんて、荒事が嫌いな彼女からしたらショックに決まってる。
「………そ、それじゃあ………私は多重人格、なんですか?もう一人の私が、人に暴力を?」
「うん。それが一番現実的、かな。何も覚えてないんでしょ?」
「は、はい。私、これまで暴力なんて振るった覚えなんて、ありません………」
震えた声を絞り出し訴えてくる。
でもだからといって言い訳をすることもなく、項垂れて私に目線だけ向ける。
「それなら、終夜さんの怪我も、私が………」
「まぁね」
本当なら慰めの言葉でもかけてあげるべきなんだろう。
でも、そんな言葉思いつかないし、思いついても私が言って意味なんてない。
「本当に、申し訳ありませんでした………」
混乱している中でも、万代さんは私に深く頭を下げて謝った。
そして立ち上がると、背を向けて公園を出る。
「あの、私は………」
「気にしないでください。終夜さんは、何も悪くないんですから」
さすがに放っておけず手を伸ばすが、万代さんが顔を伏せたまま制した。
「悪いのは………全部、私ですから」
それだけ言って、走って何処かへと行ってしまう。
その刹那、彼女の目には涙が浮かんでいるように見えた。
追いかけるべきだろうか。
いや、今は痛みでまともに走れない。追いつくなんて無理に決まってる。
それに仮に追いついて、なんて言ってやれる。
全然大丈夫だよ、気にしないでとでも言ってやればいいのか。
そんなの、ただの建前だ。言う価値なんてないし、めんどくさい。
花壇の花が風に当たり揺れている。お世話してくれる人がいなくなって寂しがっているみたいだ。
だから嫌なんだ、人と関わるのは。人の感情が侵入してきて、私の心まで暗くなる。
こんな所、もういるだけ無駄だ。
「………帰ろ」
私はベンチから立ち上がると、ヘッドフォンをして公園を後にした。
翌日、万代さんは学校に来なかった。
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