第二章 悪いことは続く、いつものこと
お腹すいたな。昨晩から水すら口にしてない。そんな私にかまうことなく母親は訪ねてくる。
「それじゃあ、今週は何があったのか聞かせてちょうだい」
リビングの大きなテーブルで向かい合わせに座る私たち。
母親は日曜の朝だというのに品の良いブラウスに細いパンツ。黒髪をしっかりとアップにし、軽く化粧までしていた。いつものことながら、完璧な淑女っぷり。
私が話し始めると、彼女は静かにオムレツにナイフを入れた。サイドにはグリーンサラダとミネストローネとクロワッサン。ホテルの朝食みたいだ。
そして私の前には何もない。日曜日に朝食をとるのは母親だけ。
いつものこと。何年も前からそう。
彼女は上品な手つきでシズシズとご飯を食べる。私は今週あったことを詳細に話す。
「もうすぐ体育祭だから…」
「綾人が誕生日で…」
「神社の猫が…」
この他にも生理がやたらと重かったこと、同じクラスの男子生徒に告白されたこと、その男子を好きな女子生徒から恨みを買ったことまで全てを話す。
母親はそれを聞いてる。ただ聞いてるだけ。同意もなければ否定もなく、要所要所で相槌を打つだけ。これもまた、いつものこと。
そしておよそ1時間かけて朝食を食べ終えると、ニコリと笑い、立ち上がった。
「では、行きましょうか」
私と母親は地下に行く。ドアを開くと薄暗い階段があり、降りるとまたドアがあり、それを開けばまたドアがある。3つのドアを開けてやっと、5畳程度の部屋に辿り着く。
何もない部屋だ。比喩的でも大げさでもなく、本当にモノと呼べるものが一つもない。グレーの絨毯が敷いてあるだけの部屋。
そこに私だけが入る。母親はドアの前でそれを見届ける。
そして私は跪く。手を組んでそっと目を閉じる。母親はそれをみて、きっと満足げな顔を浮かべている。
パチっというスイッチの音が、部屋の外から聞こえる。そして電気が消えた。背中に母親の声がかかる。
「じゃあしっかりね。光あれ」
「光あれ」
私の返事を待たずに部屋のドアが閉まる。そしてドアの方からカチリと鍵の閉まる音が聞こえた。
いつものこと。
とてもそうは見えないんだろうが、俺は学校が好きだ。
勉強が得意なわけではないし、部活に入ってるわけでもないし、仲の良いクラスメートもいない。
でも決まった時間に授業を受け、休憩し、また授業。責任も義務もなければ生産性もない時間と、単調な繰り返しのリズムが不思議と心地良い。
特に図書室は大好きだ。本はあまり読まないけど、静かだし、古びた紙の匂いはどうしてだかリラクゼーション効果を感じる。
そしてやっぱり、認めるのは少し癪ではあるものの、こいつがいるからなんだろう。
「それでねえ、仕方ないから貴重なGWを2日も使って企画して、私がキューピットになって、その男子と女子をくっつけてあげたわけ」
「これでようやく一件落着よ、私って偉すぎる、心が広すぎる。でも休み明けの今日の朝よ!教室入ったらさ…」
図書室の窓から射す光が、隣に座る祈の髪をキラキラに輝かせていた。そんな彼女が手振りを交えながら、表情をコロコロ変えながら話している。まるで映画のワンシーンだ。ヒロインとヒーローのキスでエンドロールが流れる感じのやつ。何をやってても絵になる女だ。
祈は相変わらず延々と喋り続けてる。彼女と昼飯食いたいやつなんかごまんといるはずだ。なのに昼休みになると、フラッとやってきて、当たり前のように隣に座る。
俺はボンヤリと祈の話を流し聞くだけ。相槌すらしないし、それで文句ひとつ言われない。理科室の模型に喋りかけてるも同然だろうに、なにが面白いんだか。
それでいて、祈の隣はいつも静かだ。彼女は俺の心境に波風ひとつ立てない。
それにこうして学校内で祈が俺に絡むことで、かなり助けられている部分もある。祈の幼馴染であるというだけで、一目置かれるのだ。そうでなければ、こんな協調性皆無のやつ、クラスの誰かが敵意を向けてもおかしくない。
俺が校内で孤立しつつも静かに過ごせているのは、祈のおかげだった。俺は彼女に寄りかかってばかりだ。
「ふあ」思わずあくびがでた。
「連休はバイトざんまいかね?少年よ?」
祈は話を中断し、身をかがめ、覗き込むようにして聞いてきた
「稼ぎどきだからな」目をこすりながら答える俺
「そういえばあの猫ちゃんはどうしてんの?」
「まあまあ元気になったよ、餌は流石にカリカリのやつにした」
「そっか……」珍しく降りてきた沈黙。チラリと見た祈の横顔はどこか物憂げだった。「今日も一緒に帰ろうよ」彼女は表情を変えることなく、話題だけを変えた
「別にいいけど、バイトだから駅までだぞ」
「いいよ」
窓からフワリと風が吹き。揺れる髪を抑え、微笑みながら言った。
「じゃあ終わったらそっちいくわ」
その姿に、不覚にも少し見惚れてしまったことは、墓場まで持って行こう。
だが結局、俺はHRが終わっても祈を迎えに行くことができなくなったのだ。
…遅いな。まだHRが終わってないの?
待ちくたびれた私は、こちらから迎えにいくことにした。廊下に出ると綾人のクラスの子達も何人かいる。やっぱり終わってるみたい。なら綾人はそそくさと出てくるはず。なにかあったのかな?
綾人のクラスを覗くと、変な空気になってた。
綾人は珍しくクラスメートとしゃべっている。それを他の子達は遠巻きにしつつ、気にしている。
「言いたいことわかる?なあ?」
中に入ると二人の会話が聞こえた。窓際の方で赤髪の長身の男子生徒が綾人に問いかけている。確か彼は同じ体育祭実行委員の…名前なんだっけ?
「悪いけど、バイトがあって…」
「それはさっきも聞いたよ。でもお前さあ、この前もそれで先に帰ったよな?」
「なんでそんな都合よくバイトが入ってんの?おかしくねw?」男子生徒は口だけで笑いながら問いかけ続けた。
綾人のバイトは都合よく入ってるんじゃなく、ほとんど毎日入ってるんだ。でもこの男子生徒はそんなこと想像もしてないみたい。公立とはいえここは進学校。毎日のようにバイトする生徒なんてそういないから。
「あ、祈ちゃん」
ドア付近で様子をみている私に、女子生徒が気づいた。ちょうどいいから彼女に事情を聞いた。
なんでも体育祭が近づき、このクラスは放課後残って練習会をしているらしい。綾人は基本的にそれには参加していない。
それをあの男子生徒が咎めているらしかった。
「まあ参加するしないは自由だけどさあ」
「羽田くんだけなんだよね、一度も参加してないの」
女子生徒たちも、遠回しにあの男子生徒に賛成する。嫌な空気。私は彼女の持つバッグを指差し、少し声のトーンを上げて話題を変えた。
「あれ?このバッグめっちゃかわよ!どこで買った!?お揃い嫌じゃない!?色違いとかある!?」
テンションの上がった風な私の声が、窓際の二人にも届く。男子生徒は気まずそうな顔をし、話が途切れた。その隙間に入り込むように、綾人に手を振り、声を掛ける。
「綾人おっせーよ!バイト遅刻しちゃうよー!」
私の助け舟に乗っかる形で、綾人は鞄を担いで立ち上がった。
「…わり」私の方にやってきた綾人は小声で言った。
「いいってことよ」私も小声で返す
この親密感のあるやりとり、素敵。
ちらりと横目で例の男子生徒を見やると…睨んでる。これはこの場では収まらないかもな。綾人も心なしか、沈んだ顔をしている。
大丈夫だよ。もしもの時は私がなんとかするから。あなたはきっと、望まないだろうけど。でも、なんとかするから。
翌日、先生から呼び出された。原因はやはり谷口とのイザコザだ。もちろん言い争ったというほどじゃなく、表面上は和やかだった。
でも谷口は明らかにイラついてたし、きっと他のみんなからも「揉めてる」ようにしか見えなかっただろう。
その噂が担任の高柳先生の耳にも入ったらしい。
分厚い本やら、大きな地図やら物にあふれた社会科準備室。でも整然と並べられているので、雑多な印象はなかった。先生はこれまた綺麗に整頓された机の前で椅子に座り、足と腕を組みながら俺と対面する。しっかりとまとめ上げたポニーテールという髪型のせいか、より目が釣り上がって見えるため、おっかない。
「別に咎める気はない。単純に大丈夫か気になっただけだ」
威圧的なのは態度だけで、口調は優しげだ。高柳先生は俺の家庭事情をある程度は知っているので、何かと気にかけてくれている。高圧的だし、おっかないけど、実は良い先生だ。
「大丈夫です。谷口はイベントに熱心だから、文句を言いたくなるのも無理ないですし」
「いっそ素直に、家の事情を言ってみたらどうだ?そうすれば谷口も流石に…」
先生は途中で言葉を切った。俺が唇をギュッと結んだのが理由だろう。
「…そんな軽々しく口にできるもんでもないか、すまない忘れてくれ」
踏み込み過ぎないところも、この先生の良いところだ。なにげに彼女はこれまでの担任の中で一番相性が良い。
重たい沈黙が俺たちの間に降りた。先生もどう話すべきか悩んでるみたいだ。
「お前みたいな家庭事情の子を、他にも何人か知ってるんだ」
「そうなんですか?」
「もう15年以上もこの仕事をやってるからな」
先生は自嘲気味に笑う。15年というキャリアも意外ではない。老けて見えるとかではなく、歴戦の猛者のような風格がこの先生にはあるから。
「中には金だけでなく、愛情すらない家庭もあった」
「お前の家はそこまで酷くはなさそうで、まだ救いがある」
先生の言葉に、何か引っかかるものを感じた。たしかに貧しいだけでなく、ネグレクト状態の家庭があることも知ってはいる。それに比べれば俺はマシなんだろう。
でも「救いがある」という言葉をうまく飲み込めない自分がいた。でも先生にそんなこと言っても仕方がない。俺は自分でも下手だとわかる、愛想笑いをなんとか浮かべた。
「そうですね、まだマシだと思います」
この言葉を口に出すのにも、喉が引っかかり、絞り出すような感覚があった。
「時間をとらせて悪かった。困ったことがあれば遠慮なく言いなさい」
気を取り直すように立ち上がる先生。するとタバコの匂いが微かにした。この先生の唯一苦手なところだ。
すると先生は眉根を顰めて俺を見た。
「どうかしたのか?」
「…なんでもありません」
無意識に額を手で抑えていたらしい。
「じゃあ今週中に全体リレーの順番決めとけよー」
「はーい」
先生の一言で、一斉にみんなが席を立つ。
わりかし早めに終わったな。でも綾人はバイトに行っちゃったし、やることないな。いっそバイト先にお邪魔ちゃおうか?確か今日はコンビニバイトだったはず。
「…重」
でもなあ、流石にそれは迷惑かなあ
「九重!」
「え!?私?」
振り返るとそこには赤髪の男子生徒がいた。名前は谷口だ。流石に覚えた。
「さっきか呼んでんだろ、なにボサッとしてんだよ」
「わりーね、何か用事?」
「まあそうなんだけどよ…」
彼は頭を掻いた。話があるわりに、やけに言いづらそうだ。
「谷口ファイトー!」
「っるせえ!さっさと散れや!」
やや離れたところから、彼の友人と思しき男子生徒たちからの野次が飛んだ。彼が手振りでシッシッと追っ払うと素直に出て行く。
こうしてひとり、また一人と教室から人が出て行き、とうとう私と彼の二人きりに。
「で?なんだい?」
「ちょっと聞きてえんだけどさ」
この男子生徒は周囲をキョロキョロと見渡して、また頭を掻いた。そして小さく息を吸った。
「お前って羽田と付き合ってんの?」
なるほど、そういうことね。
「付き合ってないよ、綾人とは幼馴染。小学校からの付き合いなんだ」
「それマジか?あんな毎日のように一緒にいてか?」
「嘘なんかついてどうするん?付き合ってないし、これからも付き合わないよ」
だいぶ力が入っていた彼の肩がスッと一段下がった。目尻もついでに下がり、結ばれていた口がフッと緩んだ。
「だよなあ、いくらなんでもアレはねえよな」
「そう?」
「そーだろ?まあ向こうは勘違いして、ワンチャンあるとか思ってるかもだけどな。お前もお人好しだよなあ、あんなのに構ってやってんだからさ」
「…」
「九重?どうした?」
「ううん、なんでもないよ。それで?用事ってそれ?」
「いや、それは本題はこっからでさ…」彼はまた小さく息を吸った。
「次の日曜なんだけど、映画でも行かね?」
「二人でってこと?」
「…ああ」
「いいよ」
「え!?マジ!?」
「何でさっきから私のいうことイチイチ疑うねん!」
「わりーわりーwとにかく決まりな!」
隠しきれない笑みが溢れていた。顔が赤いように見えるのは、夕日のせいだけではないんだろう。
この男子生徒の方からは、逆光で私の顔はよく見えなかっただろうな。
悪いことは続く。
アレからクラス内の雰囲気が変わった。具体的に何か言われたり、されたりしたわけじゃないけど、確実に棘を感じる。
ほんの少し、みんなの視線がきつい。ほんの少し、嫌な囁き声が聞こえる。今まで空気だった俺が、異物として認識されたようだ。
きっと谷口と同じように感じてたやつは少なからずいたんだろう。でも誰も口にしなかったから、表面化しなかっただけで。
誰かが-今回の場合は谷口が-口に出したことで、小さな穴が空いた。そこから一気に空気が漏れ出すように、不満が溢れてしまった。
中学の時にも似たような感じになったことはある。また騒がしくなりそうだ。勘弁して欲しい。
さらに、今日はバイトで厄介な客にクレームをつけられた。揚げ物をしている時に、大きな油がはねて軽く火傷した。電車が遅延して帰るのがさらに遅くなった。
悪いことは続く。でももう家に着くから、流石にそろそろ打ち止めであって欲しい。
薄暗いアパートの廊下に着くと、うちのドアの前に何かがあった。一瞬置き便の荷物かと思ったが違う。
「莉子?何でこんなとこにいる?」
そこにいたのは蹲っている妹だった。もう夜の10時近く。いつもの莉子なら頼まれても一人で外になんか出ない時間だ。
「あーくん……わああああああ!」
莉子は泣いた。泣いて俺にしがみついてきた。どれくらいぶりだろう?こんなに大泣きする妹を見るのは。
背中を何度も撫でながら、「どうした?」「何があった?」と何度も訪ねた。それでもしばらく要領を得なかった。
そしてなんとか落ち着いてきたところで、莉子はしゃくりあげながら、絞り出すように声を上げる。
「で、電気が、つ、つ、ひぐっ、つかないの」
妹は暗いところが苦手だ。だから家にいられず外に出たが、いずれ外も暗くなる。だから蹲っていたんだ。莉子が何時間もこんな状況で一人にさせられていたとわかり、全身の血の気が引いた。
家に入ると、前後左右すら危ういほど暗い。一応電気のスイッチを押してみるが、もちろん反応はない。リビングだけじゃなく、俺たちの部屋もだ。
冷蔵庫を開けると冷気をまるで感じない。中には作り置きのキンピラと卵焼きがあり、いつもなら莉子は勝手にそれを温めて一人で夕食をとる。
でもレンジも使えないんじゃそれも無理だ。そもそもこんな暗い部屋で、食事なんか取れない。
スマホのライトを頼りに、母さんの部屋をのぞく。乱雑に化粧品やら小物やらが散らばったドレッサー。その端っこには書類の束がある。
そしてその中にやっぱりあった。電気会社からの督促状を見つけ、封を開け中を確認すると、期限はとうの昔に切れていた。
悪いことは続く。
母さんに電話をかけるがコール音すら鳴らず、「電波の届かないところにあるか、電源が…」という無機質なアナウンスが流れるだけ。だから仕方なく職場にかけた。
すると母さんの働くスナックのママであり、俺の伯母さんでもある女性が出てくれた。事情を話して母さんを出すように頼むが
「聡美なら今日は休みを取ってるけど、知らないの?」
聡美というのが自分の母親の名前であると認識するのに、一瞬のタイムラグがあった。親の名前を忘れるわけがないので、きっと脳が現実を受け止めるのを拒否したんだろう。
一体いつまで続くんだ。もう勘弁してくれ。
何かあったんだな。
こんな時間に、うなだれて公園のベンチに座る綾人。相当キツイことがあったんだ。
自宅から目と鼻の先にある公園とはいえ、夜中に妹を置いて外に出るなんて、いつもの綾人なら絶対にしない。
行かなきゃ。
そう思い、壁にかかっているパーカーを掴もうとした手が、一瞬止まる。
一人になりたいんじゃないかな?私がいたら邪魔かな?
いや違う。一人になりたいなら、なおさら行かなきゃ。
私がそばにいても、綾人が一人でなくなるわけじゃない。私がそばにいなくても、綾人はひとりぼっちになんかならない。
だって私は綾人の一部だから。
綾人が望むならどんな私にだってなる。きっと今の綾人は木を求めてる。何も言わず、何もせず、ただ寄り掛からせてくれる、そんな存在が必要なんだ。
私は部屋着のままパーカーを掴み、部屋を飛び出した。
疲れた。疲れた。疲れた。
悪いことが続きすぎた1日だ。いや、そもそも今日だけだったのか?緩やかなときと急なときがあるだけで、下り坂であることはずっと前からなんじゃないか?
「綾人」
耳に馴染んだ声が届いた。来ると思ってた。むしろ祈に気づいて欲しくて、ここに座っていたんだと、その声を聞いて気づいた。
顔を上げると、薄暗がりの中、公園のライトを背にした少女のシルエットが浮かぶ。少年チックにも見えるのは、羽織っているパーカーがでかいせいだろう。
「そのパーカー、まだ持ってたんだな」
「うん」
「つーか、返せよな。あげたつもりはないんだけど」
「でも私の方が似合ってるし」
祈の声は軽くて、優しくて、いつもより柔らかな質感を帯びてる。きっと俺の声は重くて暗くて、さぞ粘っこいんだろう。
「一人になりたい?」
「ああ」
「そっか」
すると祈は俺の隣に腰を下ろした。側にいながら、一人にしてくれた。そんなことができるのは、世界でただ一人、祈だけだ。
うつむいた視線に映るのは、まだ制服のままのパンツとボロボロのローファーと祈の白い足とピンク色のサンダル。二人の距離感は拳一つ分の隙間もない。そこにどんな種類の緊張感も生じないのが俺たちだった。
祈は何も言わない。いつもは小鳥みたいなのに、今日は木のように沈黙している。だからなのか、なんの抵抗もなく言葉が喉元からスルリと出てくる。
「電気が止まった」
「そっか」
「莉子が泣いてた。何時間も真っ暗な中、一人でいたんだ」
「そう」
「電気代を払いたくても、持ち合わせがなくて。ていうか、先月母さんに金わたしたんだけどな」
「うん」
「伯母さんの店まで行って、頭下げて金借りたんだ」
電気は復活した。莉子に飯を食わせて、寝かせたら、日をこしてた。昼におにぎりを食べたっきりなのに、俺は少しも食欲が湧かなかった。寝る気にもなれなかった。いつものように母さんの帰りを待つのも嫌になって、ここにきた。
「笑えるよ、店に電話したら母さん休みだってよ。一緒に住んでるそれを俺が知らないなんて…はは、笑えんだろ?」
「うん」
「あの人、たぶん男ができたんだよ」
「そっか」
「最近はやけに真面目に働いてるから、そんな予感はしてた」
「おかしな話だよ、母さんが真面目に働けば働くほど、うちの金が減るんだからさ」
「ほんと、おかしいね」
母さんは俺と莉子を想ってる。莉子もなんだかんだで母さんが好きだ。俺だって家族として大事だ。
でも母さんは、それだけじゃ足りない人間だった。
彼氏がいないと-もっと言うなら、自分を頼ってくれる大人の男がいないと-ダメな人間だった。
だから男がいないと、母さんは仕事を休みがちになる。男ができると、一生懸命働くようになる。でも稼いだ金は、たいがい男のために消える。
「悪い人じゃないんだよな」
「そうだね」
「ちょっと弱いところがあるだけ、本当にそれだけなんだよ」
「うん」
ただ金の使い方が下手なだけ、ただ感情的なだけ、ただ男がいないとダメなだけ、その男の趣味があまり良くないだけ。
本当にそれだけのことだ。何が悪い?人間なんだから欠点も弱さもあるのは当然のことだ。でもその弱さが、母親という役割と噛み合わない。それはもう致命的なほどに。でも母親であろうとはする。
休みの日は莉子を遊びに連れていく。酔いがマシな日は、課題をする俺に夜食を作ろうとしてくれる。学校行事もなるべく参加するし、そこで世話になってる先生に会えば、しっかりと頭を下げて挨拶する。
だから、どれだけ軽蔑しても、どれだけ呆れても、俺は母さんを責められない。もういいやと切り捨てることもできない。ちゃんとした母親であろうと、努力しているのがわかるから。
そう、母さんは悪い人じゃない。俺と莉子への愛情はある。そして「それが問題」なんだ。
自分の思考がどこに向かっているのかが、明確になっていく。それは、絶対に思っちゃいけないことだとわかってる。ましてや口に出すなんてもってのほかだ。
でもたどり着いた思考は、スルリと口をついて出た。
「いっそ、わかりやすく、クズであってくれたらな」
「そうだね」
吐いた瞬間、思いっきり息を吸い込んで自分の中に戻したくなった言葉を、祈は花びらを手に取るみたいに、そっと受け止めた。
あの日、私は社会科準備室のすぐ外にいた。教員と綾人の会話を聞いていた。
「お前はまだ救いがある」
あの人はそう言っていた。
でも、本当にそうなの?
もしも綾人の母親が、ろくに子供を顧みない人だったら、そして妹もいなかったら、綾人は見限ることができたんじゃない?
あるいは、明確に虐待と呼べる何かがあれば、誰かが通報して、助けられるかもしれないじゃない?
でもそうならないのは、愛があるからじゃないの?彼の母親が、妹が、彼を愛するからこそ、綾人は逃げることができない。そして傍目からは「まだマシ」に見えてしまう。
でも縛りつけ、締めあげて、傷つけて、息をできなくさせているのは、貧しさじゃなく愛の方だ。
綾人はまだ下を向いたままだ。さっきの言葉を、もう後悔しているんだろう。後悔せずにいられないんだろう。それが綾人だから。
ほら、やっぱり、ろくなもんじゃないよ愛なんて。
綾人がこんなに痛いのも、痛いのに叫び声すらあげられないのも、きっと全部、愛のせいだ。
いつものように、うちは散らかってる。
リビングの床には酒の缶やら瓶やら、ビニール袋やら。灰皿にはタバコの吸い殻が盛りに盛られ、パチンコ雑誌がいたるところにある。
タバコ?パチンコ?母さんは両方ともやらないはずなのに。
そっか…これは夢だ。まだあいつがいた頃の記憶だ。
机の奥、テレビの前には、上下スウェットの男が寝そべってる。そいつはお笑いの番組を見てるのに、肩ひとつ揺らさず、ただただ漠然と画面を眺めていた。
「おい綾人、ビール持ってこい」
リビングで座って宿題をしている俺に、ダミ声がかかる。俺はなんでこんなところにいるんだ?
そうだ、当時は莉子がまだ生まれたばかりだった。子供部屋で寝ている莉子を起こさないようにしていたんだ。
俺は言われるがまま席を立ち、冷蔵庫に向かい、瓶ビールを持ってきた。あとはそれをテーブルの上に置くだけだ。それでいいんだ。
でも当時の俺は、テーブルの上にあった栓抜きを手に取った。
やめろ、しなくていい。そんなことしても、そいつは俺のことなんか見ない。気にかけてなんかくれないんだ。
ビールのキャップに栓抜きをあてがい、開けようとする。この男がいつも簡単そうにやってたから、自分にもできると思ったんだ。
でも小学生の腕には少々固すぎた。それでもなんとか開けようとした。開けてコップに注いでやろうとした。そうすれば、少しくらいこっちを見てくれると思った。
悪戦苦闘しているうちに、ビールの栓がポンと抜けた。でも手を滑らせてビール瓶を倒してしまった。ゴトンという音とともに、テーブルに黄色い液体が広がる。音に驚いた男は寝そべりながら振り向く、だが同時にテーブルから滴り落ちるビールが顔にかかった。
「冷て…何してんだ…」
男は俺を見た。だがその目は親の仇でも見つめてるみたいだ。冷蔵庫のビールはこれが最後の一本。この男からすれば、親を殺されたも同然なんだろう。
男はゆらりと立ち上がった。俺は呼吸が荒くなる。こいつが何をしようとしているのか、わかるからだ。
「ごめ…」
最後まで言えなかった。男の裏拳が頬骨にもろに入ったからだ。俺は横に吹っ飛び、積んである雑誌と、ゴミの山に頭から突っ込んだ。
いつもならそれだけで終わる。でもこの日は何かが違った。ギャンブルで大負けしたのか、いつも以上に酒が回っていたのか、理由は知らないが、男の目は接着剤で固定したみたいに動かず、それでいて何も映っていないかのように、暗く昏く沈んでいた。
「このやろう…お前まで、お前まで、俺を、クソ!畜生が!」
うわごとのように、ブツブツ喋りながら、男は俺の襟首を掴んで押さえつけた。首を締めてるというほどではないが、力強く上から押さえつけられ息が苦しい。捨てられたコンビニ弁当のゴミが放つ、ソースの甘ったるい匂いがした。それが男の息からするアルコールの匂いと混じった。
泣き声がする。莉子が起きてしまったんだ。早く行かなきゃ、あやさなきゃ。
すると今度はタバコの匂いがした。今まで感じたことないくらい強く臭った。
おでこに何かが押し付けられた。何十本もの針を束ねてグサリ刺したような痛みが走る。そして強烈な熱を感じた。
また別の泣き声がした。いや、これが莉子の泣き声だ。最初に泣き出したのは俺の方だ。
「やめて!お父さん!ごめんなさい!ごめんなさい!」
「ごめんなさい!」
叫びながら目が覚めた。ようやく17歳の自分に戻ってこれた。寝汗がひどい。リビングの机の上で突っ伏して寝てたのか。だからあんな夢を…
辺りを見渡すと、お世辞にも綺麗とは言えないが、あの頃ほど乱雑でもないリビングがあった。そうだ、あいつはもういない。
一息つこうと立ち上がった時、玄関のドアの鍵がガチャリと鳴った。外は白みがかっている。時計を見るともう午前4時だった。ドアが開き、仕事でもないのにやけに着飾った母さんが顔を見せた。
「あ…綾人」
「おかえり」
いたって気まずそうな母さん。たぶん伯母さんから電話で聞いたんだろう。
「電気のこと、ごめんね。お母さんすっかり忘れちゃって」
無理やり作った笑顔で謝罪する母さんに、俺は何も言わなかった。母さんはヒールを脱ぎながら、自然と俺から目を逸らした。
「今日は忙しくさあ、だから電源切れてたの気づかなくて…」屈んで背を向け、靴を揃えながら続ける。いつもは靴なんて脱ぎ散らかすくせに。
「休みだったんだろ?俺は伯母さんに連絡して、店に行って金まで借りたんだ。そんな嘘、通せるわけないだろうが」俺の声は意識せず棘を帯びていた。
それを感じ取った母さんは黙る。そして今にも泣きそうな顔になった。
なんであんたが泣く?
母さんにこの顔をされると、俺は何も言えない。あとちょっとでも強く言えば、きっと会話にならなくなる。でもだからといって、黙ってることもできなかった。だから俺は、ずっと前から考えていたことを告げることにした。
「母さん、俺さ…高校辞めるよ。そんでどっかに就職する。そうすれば生活だって多少はマシに…」
だが俺の言葉は途中で遮られる。どいつもこいつも俺に最後まで喋らせてくれない。
「やめてよ!高校だけは出るって約束したでしょ!?」
「でもこんなことが続くようじゃ」
「たまたま忘れちゃっただけだから!もうしないから!やけを起こさないで!」
なんでだ?どうしてこんなに歪なんだ?電気のつかない家に何時間も娘を放置することはできるんだろ?俺がバイトで稼いで渡した金も、さっきまで一緒だったロクでもない男のために使ったんだろ?だから電気代が払えなかったんだろ?
なのに、どうして、「息子を高校に通わせられない母親」であることを拒絶する?
「お願いだから…やめてよ、ちゃんとするから、お母さん頑張るから、お願いよ…あやとお」
母さんは泣き出した。俺の腕掴んで追いすがるように泣いた。
騒がしい、うるさい、騒がしい、うるさい。
だから、なんで、あんたが泣く?
泣きたいのは…俺の方だ。
痛愛と狂恋 Hatton @kagami-t
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