痛愛と狂恋

Hatton

第1章 ため息と誕生日



第1章 ため息の誕生日



死にたくなんてない。でも生きていたくもない。


それは意思と呼ぶにはあまりに弱く、感情と呼ぶには輪郭が薄すぎた。それは、まるで、靄のようだった。


淡く淡く広がり、全てを覆い隠しはしなくても、しかし確実に現実を薄めていく。


「危ないので、黄色い線の内側までお下がりください」


毎日のように耳にしているお馴染みのアナウンスは、湿度を含んだ空気に阻まれながら届いたかのように、鼓膜を微かに震わせるだけになる。誰かの話し声、咳払い、自販機の機械音、あらゆる音が遠い。


視界いっぱいの線路だけが、ただただ鮮明だった。錆びついた鉄の隙間から、まばらに生えた雑草。誰かが投げ捨てたであろう紙くず。それらに吸い寄せられるかのように、一歩前に出た。


そして「黄色い線の真ん中」に立つ。


あと3歩…いや2歩半進めば…そう思ったところで、胸が高鳴りはしない。むしろ、絶対に気のせいだが、鼓動がゆっくりと静まっていく気がした。


あともう一歩くらい進んでみるか?


そんな考えがよぎったと同時に、目の前が銀色に覆われる。通り過ぎていく車体が巻き起こす生暖かい風を受け、ようやく我に返った。


小さくかぶりを振ると視界が広がり、唾をのみ、浅く呼吸を繰り返すと音もクリアになった。暇なときと疲れているときは、ろくなことを考えない。


片田舎の駅のホーム。こっちの車線はさらに田舎方面に行く電車だから、平日の朝だというのにポツンポツンとしか、人がいない。田舎にある高校に通うメリットの一つだ。


乗車し席に座ったところで、ポケットのスマホが鳴った。滅多にならないからマナーモードにするのを忘れてたな。ポケットから取り出す前に、立て続けにピコン、ピコンとまた鳴った。この忙しないメッセージアプリの音だけで、送り主が誰かわかる。


起動すると案の定、祈(いのり)からだ。


「もう出ちゃった?」


「流石に出ちゃったか?」


「でもワンチャン待ってくれてたりとか?」


「もう出た」


「いま電車」


「そーですかそーですか」


「可愛い幼馴染を待っててあげようっていう優しさは無いんですね!」



「なんでお前に付き合って俺も遅刻しなきゃならんのだ」


「決めつけはダメダメよ」


「まだ遅刻すると決まったわけじゃありませーん」


「そうかい」


「まあとにかく」


「シー!耳を澄ませて」


「どちらかというと目を凝らすべきだろ」


「揚げ足とるんじゃない!」


「羽田綾人くん!」


「17歳の誕生日」


「ダラララララ(ドラムロール)」


「おめでとう!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!」


ため息が出そうになった。でもすんでで押しとどめた。目の前にいないとはいえ、流石にそれは失礼すぎる。さらにメッセージが届く。


「今日の一限目の終わりに」


「プレゼントを渡しに行くから」


「心して待っているように!」


そしてバースデーケーキのスタンプで締められた。そこでちょうど駅に着いたので一時中断し、席を立ち、電車を降り、階段を登り始めたところで、もう時効とばかりに大きなため息をつく。


春は嫌いだ。何も変わらないまま、変えられないまま、大人に近づいてしまうから。





大変だ…これは一大事だ…


一緒に登校する約束があった。なのに寝坊して置いていかれた。当然ながら遅刻しそうだった。でもそんなのは些細なこと。いま直面している問題に比べれば。


前髪が、決まらない。


いつもはもっと素直なのに。どうして今日に限って?むしろ私が神経質になりすぎてるだけ?


「祈?いつまで入ってるの?お母さんもそろそろ使いたいんだけど?」


「もうちょいだから!」


なにせ前髪が決まらないんだから。あと2時間は洗面所を占領し、鏡の前で悪戦苦闘する権利が、私にはあるはず。するとポケットの中のスマホが鳴る。綾人からの返事がきた。


「了解」


盛大なお祝いメッセの返しがこれとは…まあ綾人らしいけど。すると、とつぜん熊がお辞儀した。


「ふふ!」


キモい笑いがでちゃった。母親に聞こえてませんように。アプリにデフォで入っているスタンプが急に現れた。絶妙に可愛くない熊がひたすらペコペコしている。正直ダサい。


たぶん綾人は、いつものノリで適当に返事をしたんだろうな。でもお祝いに対してそれは失礼と思い直したんだろうな。そこで使い慣れないスタンプで補足したってところかな。


その妙な生真面目さが、おかしくて、可愛い。


「祈!」ドアの向こうから尖った声がする。


そろそろ本気で怒られそう。流石に出よう。


ドアを開けると不機嫌そうな顔に出くわす。


「ごめんごめん!行ってきます!」


「え、ええ、行ってらっしゃい」


想定以上に声が弾んだ。母親も少し驚いている。やっぱり今日の私は浮き足立っている。仕方ない。今日は綾人の誕生日だから。


春は好き。綾人が生まれた季節だから。


あ、前髪のこと忘れてた。まあ…もういいや。





空気を読まない。それは学校という空間において、ときに人権剥奪の刑に処されるほど重罪となり得る。


例えば


「ハッピーバースデートゥーユー♫」


隣のクラスの人間が、一限目の終わりに急に現れ


「ハッピーバースデートゥーユー♫」


高らかな歌声を響かせながら、ゆっくりと教室の真ん中を練り歩いている上に


「ハッピー、バ〜〜スデイ!イエイイエイイャ、ディアあーやーとー、ウォウォウォー」


その歌に苛立つことこの上ないアレンジが加わっているなど、本来なら言語道断なはずだ。


しかし、理不尽なことに、それが許されてしまう人間もいる。現に周りの目には、戸惑いこそあれ非難の色はない。


どの角度からも華やかで、それでいて親しみやすい愛嬌を保ち、誰もが惹きつけられる。それが九重祈だ。


先日染めたばかりだと自慢していた明るい栗色のショートボブが、大げさな足取りで揺れている。そんなやや強めの個性の髪型も、その華美な顔立ちと、日本人離れした白さの肌を引き立てる添え物にしかならない。


そしてクラスの一番後ろの席にいる俺にゆっくりと近づいてき、大きなアーモンド型の目を三日月のように細めた。桜の花びらのような淡い桃色の唇が、ニマッという効果音がつきそうな形に変化した。


「綾人!お誕生日おめでとう!」


顔にも声にも満面の笑みを浮かべ、祝いの言葉を述べ、盛大な拍手を響かせる。そして周囲もつられた。といってもかなり遠慮がちなボリュームではある。


苦笑いしてるもの、ポカンとしてるもの、多種多様な表情を浮かべているが、共通して載っている色味は「困惑」だ。


そりゃそうだ、心情はお察しする。なにせ彼ら彼女らが持っている俺に関する情報といえば、性別と苗字の他には前髪がやたらと長いことくらいのもんだろう。万雷の拍手を送るには、互いに互いを知らなすぎるんだ。


なんとなくいたたまれない俺の視界に、ギフト用の洒落た封筒が現れた。


「はいこれ!約束のブツだ!」


「あんがと」ありがたく受け取り、中身は後で見ようと思ったが


「ちょいちょい待て待て、なぜしまう?ふつうここで開けるでしょ!?」


「そうか?」まあ、そうなるわな。


「開けて中を見て、そのセンスの良さに脱帽して、嬉しすぎて小躍りしたい気持ちを抑えきれないハニカミ照れ照れスマイルをこぼしながら改めてお礼を言うまでが礼儀でしょ!!」


内容はともかく指摘はごもっと。心なしか周囲の視線もグッと熱を帯びている気がする。学年1の美少女が、使う時しか思い出されない黒板消しクリーナー並みの存在感である男子生徒に贈るプレゼント。気になるのも無理ないだろう。


恐る恐る封を切って、中を見ると、ピンク色のチケットのようなものが何枚かあった。


「お米券?」


「そ!10kg分!いつものスーパーで使えるのも確認済!」


クラスメートたちの困惑はピークに達し、ついにはザワザワとし始める。だが当の本人は口角をググっと吊り上げ、ふてぶてしいドヤ顔を決めている。


そしてことさら腹立たしいことに…


「ありがとう、マジで助かる」


苦しくも、小躍りしたい気持ちを抑えたハニカミ照れ照れスマイルでお礼を言ってしまったことだ。


これは本当にありがたい。我が家の慢性的な食料難は、ここ一週間でさらに深刻化していた。どれくらい深刻かというと、それについて考えるのが嫌すぎて線路に飛び込みたくなる

ほどだ。俺の反応を見た祈は大いに満足したよう。


私、わかってるでしょ?みたいな顔をしながら


「私、わかってるでしょ?」と言った。


ひと段落したところで、隣の席の谷口が口を開く。こいつも髪を染めたんだな。サイドを刈り上げた短髪が、赤に近い茶色に染まっていた。俺と祈に近づいてくる。ただでさえデカイのに、座りながら見上げるとなかなかの威圧感だ。


「九重、放課後は体育祭実行委員だぞ、覚えてっか?」


「あったりまえでしょ!忘れねーよ」


「マジかよ?ぜってー忘れてると思ったわ」


「はあ!?あんたこそ鶏みたいな髪色しといて、よく覚えてましたねえ!」


谷口と祈がプロレスし始めたところでチャイムが鳴り、担任の高柳先生が入ってきた


「チャイム鳴ってるぞ九重」


「一限だけでなく二限まで遅刻する気か?」


やっぱり遅刻したのかこいつ。


「いいえ!すぐ出ます!静ちゃんゴメン!」


「高柳先生な」


鉄の女と称される高柳先生を名前呼びできるのは、学校広しといえど祈くらいのものだ。先生は諭しながらも、どこか諦めてる声音だった。


祈は去り際に


「じゃあね!本当におめでとー!」と俺の髪をクシャクシャに撫で回していった。





「実行委員会おわったよー」


「今どこにいんの?待ちきれずに先に帰ってるとかいうなや?」


「神社」


「はあ?神社ってどこの!?」


「駅向かう道のコンビニの角曲がったとこ」


なんで神社?男子高校生が放課後に立ち寄るにしては渋すぎない?とにかく言われたとおりコンビニの角を曲がると、本当にあった。


色褪せた鳥居。苔まみれの石畳の小道が伸びてる。その先にある御社殿は、時が止まったみたいにやけに小綺麗。


階段に座っていた綾人は、私が視界に入ると小さく手を挙げた。


「何やってんの?」


綾人が御社殿の下を指差す。高床式なようで、床下が空いている。そこにはまだ子猫といっていいくらいの小さな三毛猫がいた。紙の皿にのった餌を食べてる。カリカリではなく缶詰に入ってるシーチキンみたいなやつ。


「何日か前に、そこのコンビニの角で倒れてた」


「そんでとりあえずここに連れてきた」


「なんで神社に?」


「弱ってたし、小雨も降ってたからな」


「確かにここの床下なら雨風も防げるんだろうけどさあ…」


思わず頭を抱えた。あの猫が口にしている餌は、なかなかいい値段しそうだ。


「せめてもっと安い餌にしたら?」


「今でこそ多少元気だけど、拾ったときは飯食う元気もなさげだったからさ」


「ちょっとでも食べやすいものをと思って…その…」


綾人の声が小さくなる。私の非難がましい視線のせいかもしない。


改めて猫を見てみた。なるほど、確かに元気いっぱいってわけじゃなさそう。小さくて、弱々しくて、腹ペコ、そんなとこが綾人になぜか備わってる母性を刺激したのね。


その庇護欲を少しでも自分に向けて欲しいものだ。でも綾人にはそれができない。そんなとこが苛だたしくて、愛おしい。


「珍しいな」


綾人は真横にある木の下を見つめ、呟いた。視線の先には薄紫の花の群生地がある。


「話逸らしてるよね?」


「確かユリ科の植物だ。本来なら山に咲くから街中じゃあまりみない」


「綾人ちゃーん、ママ怒ってないからこっち向いてー、おねがーい」


すると綾人はとうとう開き直り


「無理はしない。だから大丈夫だ」と宣言するように言った。


すでに無理してるって自覚はないらしい。でも、どうせ言ったって聞きやしない。この辺りで矛を収めてやろう。


綾人はまだあの花の方を向いてる。


「なに?あの花そんな好きなん?」


「思い出した。カタクリって名前の花だ。たしか片栗粉の原料になるはず」


「詳しいじゃん」


「10歳離れた妹を持てば、いやでも花には詳しくなる」


きっと妹に「あれなーに?」と尋ねられるたび、律儀に調べたんだろうな。


「まさかあの花持って帰って、なんとか片栗粉を精製しようとしてる?」


「ちょうど切れかけてるんだ」


スマホをいじり始める綾人。たぶん「カタクリ 片栗粉 作り方」で調べている。そして途方もない労力がかかることがわかり、諦めるしかなかったみたい。





なんとなく家に帰りたくない日がある。でも帰らなきゃいけないのが、高校生という生き物だ。


「ただいま」


昭和レトロな…いや、強がるのはよそう。安さだけが売りの木造2階建アパートの103室のドアを開けた。


ギリギリLDKと言えるくらいの広さのリビング。シミだらけの元は白かった絨毯、その上に乗る傷だらけの黒いテーブルには、チラシやら空き缶が散らばっている。


床に放置された洗濯物は畳んで積んであるだけまだマシか。30インチのテレビとその台には、ある程度離れていてもわかるくらい埃が載っている。


明日、バイトから戻ったら掃除するか。でも課題もあるしそんな時間は…もういい、その辺りは明日の俺に任せよう。


「おかえりなさーい!」


奥の一室から元気な返事が聞こえる。チラシやら空き缶やらが乱雑に散らばったリビングの机を通り過ぎ、奥の部屋に入ろうとすると


「こら!ちゃんと手を洗いなさい!」


6畳部屋の左サイドに並んだ机に座っている莉子が、即座に咎める。まるで俺が真っ直ぐ部屋に戻るのがわかっていたかのようだ。


「はいはい」と苦笑まじりに返事し、洗面所に向かう。


小学生に上がったばかりだというのに、日に日に生意気もとい、しっかりしてきている妹。


洗面所でしっかりと手を洗い、うがいも済ませ、部屋に戻る。


莉子の分が増えて、2つになった勉強机。その反対には二段ベッド。中心に申し訳程度のスペースがあるが、すれ違うのにも苦労するくらい狭い。莉子が成長するにつれ、どんどん手狭になるな。


「ふふん」


座っていた莉子が跳ねるように椅子から降りて、俺の真ん前にやってきた。後ろ手に何かを隠しているようだ。そしてこの表情は今朝も教室で見た気がするな。


「あーくん!おたおめ!」


両手でスケッチブックを差し出す莉子。ジャーン!という効果音が脳内で再生される。


中を開くと、どうやらプレゼントはお手製の絵みたいだ。正面に俺の顔があり、その周囲はクラッカーやら色とりどりの花やらで装飾されていた。


兄の欲目抜きに上手な絵だと思う。花に囲まれているというのに、中心にいる俺は仏頂面なまま。これは俺が反省すべき点だろう。



「ありがとな」と言って頭を撫でてやる。


「どういたしましてー」と照れ笑いを浮かべる莉子。


髪がだいぶ伸びた。ロングといえば聞こえはいいが、要は頻繁に切りに行かせてやれないだけだ。本当はもっとお洒落だってしたいかもしれないのに。


そういえば、最後に莉子がわがままを言ったのはいつだったか?…いずれにしても目下の問題は髪の毛ではなく食料だ。


二段ベットの上の横壁に絵を飾り、意を決してキッチン脇の冷蔵庫に向かう。この現実と直面するのが嫌で、帰りたくなかったのだ。



でももしかしたらと一縷の望みをかけ、冷蔵庫のドアを開く。


「…だよな」


缶ビールと缶チューハイが上段で窮屈そうに並んでいる。サイドポケットにあ作り置きの麦茶と、味噌やソースやらの調味料。それ以外は何もない。


いや正確には真ん中の段に見慣れない大きな箱がある。そして母さんが書いたと思しきメモもあった。


「ハッピーバースデー!莉子と二人で仲良くお食べ!」


ケーキはいい、莉子も喜ぶだろう。ただ肝心の食料がないのだ。今ある材料で作れるのは具なし味噌汁くらいのもの。そのケーキを買う金で、できれば肉や野菜を買っておいて欲しかった。なんなら数日前から頼んでるんだが、その辺りが母さんクオリティである。


「あーくん?どうかしたの?」


冷蔵庫の前で呆然とする俺を心配する莉子。俺は精一杯の笑顔を浮かべた。


「やったな、今日はケーキがあるぞ」と言い彼女の頭を撫でた。


「よっしゃー!!」拳をあげてガッツポーズする莉子。


でもその代わり夕食は抜きだなんて言えるわけがない。財布の中を確認してみると、小銭も含めて2000円弱。ちょうどスーパーも空いてる時間だろう。


「夕飯の買い出しに行くぞ」


今月いっぱいは、俺の昼食は塩おにぎりオンリーとなることが決定した。




やっぱり、また少し痩せたな。


自室の窓の外。公園と我が家の間の道路を歩く綾人を見かけた。朝から薄々思ってたけど、あらためてそう思った。ちゃんと食べれてないんだな。


だから猫に構ってる場合じゃないってのに…


窓から見下ろす私に気づいた綾人は、軽く手を挙げた。私も小さく手を振る。


よく見ると、隣には綾人の妹もいた。でも彼女は気づいてない。いや気づかないふりかも。私はあの子にあんまり好かれてないから。


長い前髪に隠れて綾人の表情はわからない。本当はけっこう綺麗な顔立ちをしているのにな。もったいないな。でも前髪を伸ばしている理由もわかってる。それを知っているのは家族以外では私だけ。


私だけ。良い響き。


本当はもっと色々してあげたい。昼食くらいなら私が毎日用意するのに。なのに綾人はそれを嫌がる。人の負担になるのを過剰なほど気にする性格だから。自分の負担には無神経なくらい鈍いくせに。


綾人が私の負担になることなんてないのに。だって、私は綾人の一部だから。




相変わらず、でかい家だ。


ブロックが重なったような形の鉄筋コンクリートの2階建。デザイナーズハウスというやつなんだろう。ありふれた住宅街の、なんてことない公園の正面に建つには、やや場違いな建築。


窓から見下ろす祈に挨拶すると、右手がグイッと引っ張られる。


「ねえ、早くいこ」


夜の公園は暗い。その中で公衆トイレの灯だけがボウっと際立っていて、不気味だ。暗闇が苦手な妹にはおっかなすぎるんだろう。


いつの間にか握られていた手を離すことなく、スーパーまでの道を急ぐ。


思ってたより風が強い。昼間と違って撫でるような冷気を感じる。春のこういうところも苦手だ。


「はあ」


魂まで抜け出すような、重くていため息が出た。今日で何度めだろう。風に揺られた公園のブランコが、ギイギイと音を鳴らす。


すると俺の右手を握る莉子の左手が、ギュッと締まった。同時に子供の高い体温が掌を通して伝わった。


この小さな手が主張する熱は、いつも俺を繫ぎ止める。気がつくと現実から逃げそうになる俺を、なんとか踏みとどまらせている。


それが良いことなのか悪いことなのかは、正直微妙なところだ。


つい振り向いて、通り過ぎたはずの祈の家を見てしまった。彼女の部屋の窓から溢れる明かりに、不思議と励まされた。祈は、角度的に見えないけど、なんとなくまだこっちを見ている気がする。


祈は俺にとって特別で、たぶん祈にとっても俺は特別。気がつけば二人でいる。意識しなくても自然と寄り合う。小学校の頃からそうで、今に至るまで全く変わらない。それを不思議がる人は多い。


俺にも、どうしてなのかはわからない。わからないけど、気にならない。それくらい当たり前になっている。


でも、どれだけ親密であっても、どれほど心を許しあっていても、俺と祈が恋愛関係になることはこの先も絶対にない。




綾人の妹が、彼の手を引いてそそくさと行ってしまう。


あらあら、そんなに私が嫌なのかな。大好きなお兄ちゃんを取られたくないのかな。そんなに心配しないでいいのに。綾人と私はこれからも付き合わないんだから。


綾人と私はこれからも付き合わない。


自分の頭の中で生まれた言葉のはず。なのに飛んできたナイフみたいに突き刺さる。


「はあ」


今日初のため息。なんだか寒いな。


私は机から立ち上がり、ベッドの上に膝立ちで乗る。サイドにかけてあるパーカーを手にとって、羽織った。


サイズが大きすぎる紺のメンズパーカー。腕を通していない袖部分を胸に持ってくる。誰かさんの腕に、後ろから抱きしめられているみたいだ。


身を縮こませ、パーカーに包まれるような姿勢で、私はベッドに倒れこんだ。




俺の母さんはとにかく騒がしい人だ。


「綾人〜、たっだいまー!お誕生日おめでと〜!」


深夜1時過ぎ。仕事から帰った母さんは、ドアを開けるやいなや、リビングの机で課題をしていた俺に抱きついてきた。アルコールと香水と化粧品が混ざった匂いに、むせ返りそうになる。


「ありがと、ただもう少し静かにしてくれ」


莉子はとうの昔に寝ている。


「ごめんごめん」


「いやあ、本当に立派になって、母さん嬉しいよお」


と言いながら、俺の髪をガシガシと撫でた。


「そうそう、プレゼントも用意してあるんだあ」


おぼつかない手つきでカバンを漁る母さん。あれえ?どこだあ?と言いながらガサゴソやってたかと思えば、ついにはカバンの中身を床に出し始め、ようやく見つけたらしい。


「はい!!」


自信満々に渡されたのは、手のひらサイズの黒い箱。ブランドロゴが印字されているだけで、なんなのかパッと見でわからない。


箱の底側を見て、ようやくわかった。


「ヘアワックス?」


「あんた全然オシャレしないでしょ?たまにはこういうのつけてキメてみなよ〜」


「プロ仕様だからめっちゃいいやつよ!これでバッチリオシャレして、彼女でも作っちゃえよお〜」


肘ツンツンという古のウザムーブをかます母さん。


俺に彼女なんかできたら、一番困るのはあんただろうに。まあ曲りなりもお祝いしてくれているのだから、野暮なことは言うべきじゃないだろう。


「ありがと、機会があれば使わせてもらうよ」


まるで使う気がないことがモロバレな言い回しをしてしまったが、母さんは気にしてない。酔いが回ってきたらしい彼女は、背骨が軟化したみたいにグラグラと前後左右に揺れ始めながら言う。



「お水もってきて〜」



俺が席を立ち、戸棚からコップをだし、台所から水を汲んで振り返ると、母さんは今度は鼻をすすりながら、目に涙を浮かべていたのだった。


「ごめんねえ…綾人お。母さん、本当はいっじょににお祝いじかったけど、どうしても無理でさあ」


水を汲むために背を向けていた時間はせいぜい10秒。その間に何があれば、こんな状態になれるんだか。


それが酔っ払いという生き物なのだと、今は分かっているから、特に動揺はない。だがうっとおしいことこの上ない。


「か、母さん本当にダメな母親だよ、子供の誕生日も一緒に祝っでやれ“ないんだから」


反省して欲しいのは誕生日を祝えないことじゃなく、冷蔵庫の中身の件についてなんだけどな。


普段、自分が酒のつまみしか口にしないからなのか、小学生や高校生には「食事」が必要であることを、母さんは忘れがちだ。



「ごめんね、ごめんね、母さんダメだね、もっとちゃんとしなきゃね」


やや年甲斐のない濃いマスカラをつけているから、泣くとかなり悲惨な状態になる。黒く染まった涙のあとは、いつか観たホラー映画の怨霊を彷彿とさせる。莉子が夜中に見たら絶叫するレベルだ。


鼻をすすり、目をこすり、ユラユラとしながら、謝る母さん。なのに責められている気になるのはなぜだろうか?


母さんは騒がしい人だ。それはでかい声でよく喋るからじゃない。


そのジェットコースターみたいな気分の変化は、酒を飲むとさらに激しくなり、漏れ出す感情の波が、鼓膜も通さず頭蓋内に反響しているかのよう。


強い感情は騒がしい。


「仕事なんだから仕方ないよ」と俺が面倒そうに言うと


「あやとお、ありがどー、母さん幸せだよお」と喚きながらまた抱きついてくる


頼むからその顔で抱きつくのは勘弁してくれ。俺はまだ制服なんだ。


無理やり引っぺがすと、案の定ワイシャツが黒々としたマスカラの涙で汚れていた。すぐにもみ洗いしないとな。


深夜に増やされた余計な仕事を終えてリビングに戻ると、母さんは寝ていた。やっと静かになった。寝室から持ってきた布団をかけてやろうとするが、ふと手が止まる。


母さんのいかにもお水な巻き毛が前より少し明るくなっている。髪を染め直したようだ。たぶんこのワックスもそのついでに買ったんだろう。


見た目を気遣う必要がある仕事なのはわかっている。わかっているけど…


品のない音を鳴らしそうなった舌の代わりに、ゴクリと喉が鳴る。放るように布団をかけた。気をそらせたくて、母さんが床に並べたカバンの中身をしまおうとした。乱れた時は整える作業に限る。



リップとスマホとポーチが散乱する中、見慣れない長方形の箱が目に留まる。そしてそれがなんなのか理解したとき


「チッ」と舌が下品な音を鳴らした。せっかくさっきは飲み込んだというのに。


でも見なかったことにするしかない。床に散らばるリップとスマホとポーチ、そしてコンドームを鞄にしまい、母さんの部屋に放り込んだ。


洗面所に向かう自分の足音がドスドスと響く。ドアを閉める手も、脱いだ服をカゴに放りこむ手も、意図せず乱暴になる。


湧き立つ感情が頭の中に響いて、うるさい。強い感情は騒がしい。やや冷たいシャワーもこの苛立ちを冷ましてくれない。


ふと、もらったヘアワックスのことを思い出した。濡れた髪をあげて、セットしたらどんな感じになるのか、浴室の鏡で確認してみた。


「やっぱりまだ目立つな」


おでこの中心で主張する赤くて爛れた丸い跡とは、もう長い付き合いだ。ワックスで前髪を上げたら目立ちすぎるだろう。


「はあ」


ため息の自己記録を一つ更新して、誕生日を締めくくった。

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