第45話 朝ヶ谷ゆうの疾走



 さて、僕を乗せたタクシーは渋滞に捕まり進むことも戻ることも出来なくなっていた。


「あそこに見える建物がね」と運転手が話しかけてきた。


「あそこに見えるのが青陽高等学校だよ。あと3~4キロってところだと思うんだけど、このペースじゃあ1時間以上かけても着かないかもなぁ」


「………困ります」


「だよねぇ。いやぁ、本当に申し訳ないなぁ。友達がいるのかい?」


 運転手が指さして教えてくれた建物は小高い丘の上に建っていた。コンクリート製の四角い建物で、水平連続窓やピロティなどの近代的な様式が遠くからでもよく見える。


「友達というか……まあ、そんなところです」


 僕は焦りと不安から嫌な汗をかいていた。別に間に合わなければどうこうという話ではないけれど、16時に着くと連絡した手前、それを守れないのは気骨ある男を自負する僕からすれば言語道断。強迫観念のような焦りが僕を支配していた。


「そうかぁ。でも、見たところ君も高校生だろう? こんな時間に私服で何をしているんだい? 学校は?」


「……青春的愚行です。大人になればこんなバカなことは出来ないのだから、出来るうちにルールを破っておくことも人生経験として必要だと思いまして」


「あっはっは、なんともしかつめらしい不良だよ。いいねぇ。君のような子は案外社会に出ても成功するものだ。きっと大きなことを成し遂げるだろうね」


「ありがとうございます」


 この運転手は話し好きと見えて少し車を進めるたびに話しかけてきた。僕には世間話に付き合っている余裕などなかったが、ふと、自分で言った青春的愚行という言葉が頭に残った。


 できるうちにルールを破る。学校をさぼり一人で電車に乗って東京に来た僕が渋滞ごときで足止めを喰らっていていいのか?


 藤宮の気持ちを断って水無月から自転車を借りてまで来たというのに、渋滞に掴まって舞羽に会えませんでした。なんて言い訳をするつもりか? 僕は格好悪い男になるために東京まで来たのか?


 いや、否。断じて否。僕は天ヶ崎舞羽に会うためにここまで来たのだ。時計を見れば今は15時50分。4キロなら全力で走れば間に合うはずだ。


 僕は料金メーターに表示されていた5000円を財布から取り出して運転手に渡した。「運転手さん。ここまでで大丈夫です」


「大丈夫って、君、どうするつもりだ?」


「走れば間に合うでしょう」


「待ちなさい! 危ないことは止めるんだ!」


 運転手がすっとんきょうな声をあげるが気にしない。僕はタクシーから飛び出すと車を縫うように走りだした。


 僕はあの天ヶ崎蝶に勝てなかったとはいえ負けなかった男である。4キロの全力疾走。男を磨く鍛錬として申し分ないではないか。


「待ってろ、舞羽!」


 愚行上等。


 僕はとにかく腕を大きく動かした。口は少しでも多くの酸素を取り込むために大きく開けて、脚を少しでも大きく伸ばす。今にも死んでしまいそうな瞬間が永遠に続くようだった。喉の奥がすぐに酸っぱくなって、吐く息がからく感じる。でも、走った。すべては天ヶ崎舞羽に会うために。彼女の笑顔を見るために僕は走るのだ。


 読者諸君、見たまえ。これぞまさしく青春的愚行。愚かだからこそカッコいいことが世の中には存在するのである。


 いったい、人生の中で全力で走る機会が何度訪れるというのか? 何も考えずに走り回っていた小学生時代。第二次性徴を迎えて素直になる事を恥じらい始める中学生時代。大人になれば走る事すらも無くなるだろう。もし、一生に一度の力を出す機会がその中にあるとしたら、いま、この瞬間をおいて他に全力を出す機会があるだろうか。


 大切な人のために全力を出せないで、何が気骨ある男だ。


 そして僕は丘のふもとに辿り着いた。しかし、絶望した。


「どうなってんだよこの上り坂! ここまで来てまだ走れっていうのか!」


 学校へと続く道は見た目以上に勾配がキツいようだった。もう一方に伸びている階段は幾重にも折り重なってとても走って登れるものではない。さすが生徒中の不評を買っているだけはある。


「だけどここまできて諦めるものか。例え心臓が破れようと走り切ってやるさ!」


 時刻はちょうど下校時と見えて、坂の上からまばらに生徒が下りてくる。僕の事を不審そうに見る人がほとんどだったが、いまさらそんな事を気にしていられるか。僕はそう唾棄だきしたが、ランナーズハイのような状態だったのだろう。アドレナリンがドバドバ出ている僕の目には、ゴール前で歓声を送る観客のようにも見えた。


 しかし「もうひと踏ん張りだ!」と、再び走り出そうとしたとき、僕はたしかに聞いたのである。聞き覚えのある舌ったらずな甘い声を。僕がずっと聞きたかった彼女の声を。


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