第46話 朝ヶ谷ゆうと天ヶ崎舞羽


「ゆうーーーーーーーーーー!」


 この声が聞こえたら、天ヶ崎舞羽が降ってくる合図である。


「えっ、この声まさか……」


「見つけたーーーー!」


「やっぱりか……っておい! 待て! そんなところから飛ぶなよ!?」


 僕はギョッとして空を見上げた。スカートを押さえて降ってくる桜色のマシュマロが見える。いや、マシュマロではない。天ヶ崎舞羽だ。舞羽がビル3階分はあろうかという高さから飛び降りたのだ。


 周囲の息を呑む音がハッキリと聞こえた。空気がビシッと音を立てて固まり、誰もが、羽のように舞う姿に釘付けだった。


「間に合えーーーーーー!」


 文字通り最後の力を振り絞って舞羽の元に駆け寄るが、はたして、僕は間に合った。渾身のスライディングで何とか抱き留めると、そのまますべって木の根元に頭をぶつけた。「痛い!」


 頭頂部がジーンと痺れた。けれど、胸に抱いた暖かさは本物だ。天ヶ崎舞羽が腕の中にいる。そう思うだけで心まで温かくなるようだった。


「いつつ……大丈夫か? 舞羽………」


「ゆうーーー! 会いたかったよぉ!」


 舞羽が胸元に顔をうずめて額を擦りつける。女の子特有の甘い香りがフワッと鼻腔をくすぐった。この時をどれほど待ちわびたか分からない。舞羽の声を、舞羽の元気を、舞羽の暖かさを、僕はこれほど望んだことはない。離れ離れになっていたのは2週間ほどだけれど、もう何年も会っていないような気がした。


「危ないだろ、舞羽……」


「会いたかった!」


「会いたかったのは分かるけど! 危ない事をするなって言ってんだ!」


「ほぇ……?」


 僕は舞羽をどかして体を起こす。そして、周りを見ろと言って彼女のほっぺを両側から挟んでぐるりと見渡させる。


「見ろ。みんなたまげてるじゃないか。僕が間に合わなかったらどうするつもりだったんだ」


 他の生徒、教員、上を見上げれば彼女の両親や蝶までもが唖然あぜんとしていた。


「だって、ゆうが受け止めてくれるから………」


「そうじゃなくて、やめろと………」


「それに、スカートも押さえたじゃん!」


 舞羽の表情は真剣だった。


「…………………」


「大好きなんだから、しょうがないじゃん」


 舞羽の声は不思議な声だった。悲しいような怒っているような甘えるような、反省しているようで反省していないような、不思議としなだれかかる感じを思わせる声だった。


 僕はその声音に従って舞羽を抱きしめていた。


「大好きなんだよ、ゆうの事。私だって変わろうと思った。このままじゃ困らせるだけだって。ゆうも、蝶も、お父さんもお母さんも困らせるだけだって、知ってた。だから、ゆうと新しい恋をするために頑張ろうと思ったよ。甘えるだけじゃなくて、隣に立って一緒に前を向いて歩ける恋を、そんな新しい恋をゆうと始めたかった」


「……………………」


「でも、無理だよ……。私、変われない。ゆうに甘えてばっかり。私って本当にダメ人間だよ。嫌われないと前に進めないし、ゆうに酷い事しかできなかったし、離れ離れになって分かった事は、ゆうが大好きだってことだけ。ゆうの事を思い出すたびに悲しくなって、ああ、それくらい大好きなんだって、立ち止まっちゃうの」


「……………………」


「私のこと、嫌いになった………?」


 舞羽は自分から離れるとまっすぐ僕を見た。悲しいような瞳は恋慕の情に濡れたピンク色。満天の星空を覗いたらこんな綺麗なキラキラが見られるのではないかと思う。小振りな唇はさくらんぼのようにきゅっとして可愛く、目じりに伝う涙は宝石を思わせた。祈るように胸の前で組んだ手も、上目遣いの角度も、不安げな言葉とは裏腹にすべてが恋に濡れていた。


 恋をした女の子を全身で体現していた。


 僕はなんと返事してよいか困った。たった一言で良いと思った。長い言葉はいらない。とても短い、たった一言。言葉というのは不思議なもので、長く重ねれば重ねるほど言霊が薄れていくのだ。短いシンプルな一言がもっとも強いのである。


 僕が言いたい事は先に言われてしまったし、くだくだしく繰り返す必要は無いように思う。なら、僕がずっと舞羽に感じていた想いをそのまま伝えればいいのではないだろうか。


 僕は恋愛が下手だ。手練手管を弄してもぼろが出るだけだし、女の子がもっとも欲しいと思っている言葉なんか知らない。


 だけど、舞羽が欲しがっている言葉なら手に取るように分かる。それをそのまま伝えてやればいいのだ。


 僕は軽く首を振って否定の意を示すと、舞羽の目を見つめて言った。


「だから、好きなんだよ」


「え……………………」


「新しい恋がしたいなら、一緒に始めよう。一人で強くなる必要なんかないだろう。僕達はずっと一緒だったんだ。舞羽が感じた悲しさは僕が感じた悲しさでもある。嫌いになんかなるものか。むしろ、前よりも好きになったよ」


 ……予定よりだいぶ長い返答になってしまった気がするが、伝えたい事を我慢するのがこんなに難しいことだと初めて知った。それに舞羽も気持ちが溢れて言葉が出ないようであるし、おあいこだろう。 


「…………ゆう、ゆう、私、わたし………ふぁぁ、なんて言ったらいいんだろう……ダメ、言葉が出てこない………」


「はははっ、お前でもそんな事があるんだな」


「うぅーーーーー……………」


 僕はいくらか気分が軽くなった。そうして、僕がここへ来た本来の目的を思い出したのでそれも伝えた。


「あ、そうだ。誕生日おめでとう。プレゼント用意できなくて悪かったな」


「プレゼントなんか要らない。今貰ったら、私、死んじゃう。嬉しくて死んじゃう……」


「じゃ、来年のお楽しみだな」


「うんっ」


 舞羽は変わりたいと言った。新しい恋を始めるために変わりたいと。でも、僕には舞羽はもう前に向かって歩き出しているように見えた。


 彼女はちゃんと変わっている。なら、僕はこのままでいいのか?


 2人の関係を変える一言を言わなかったのはなぜだ?


 付き合おう、と、言えなかったのは、僕が停滞しているに他ならないからではないか。


 藤宮氷菓に恋をしたことを後ろめたく思っているからではないのか。


 いくらけじめをつけたとはいえ、天ヶ崎舞羽に隠しておくことは出来ないと思っているからでは無いのか。


 許してもらえなければ僕は前に進めないのではないか?


 僕がそうやって躊躇っている間に蝶がやってきた。


「ゆうくーーーーん! お姉ちゃーーーーーん! 大丈夫ーーーー?」


「だいじょーーーーぶーーーー!」


 舞羽が両手を大きく振ってアピールする。僕もその後ろで小さく手を振った。


 言わなければいけない。付き合ってから伝えるのは卑怯だ。舞羽は勇気を出した。なら、僕はいつ出すのだ?


「舞羽、僕は言わなければいけないことが―――――――」


「ほら! ゆうも旅行に行くよ!」


「はい? 旅行?」


「え、だって……? あ、そっか蝶の嘘ってこの事だったんだ!」


 舞羽がポンと柏手を打った。


「じゃ、一緒にお願いしに行こ!」


「えっ? えっ?」


 舞羽は僕の手を取ると走り出した。


 これは、チャンスを与えてもらったとみて良いのだろうか?


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