第8話 血走る。
声のしたほうへ目を向けると、カラフルな汚れの白衣をまとった30代ほどの男性が立っていた。
ところどころ癖っ毛で、髭も生やしている。引きこもり一歩手前のような見た目をしているが、まさか先生なのだろうか?
「
「えっ……はい。クラスは違うけど、同級生です」
突拍子もなく聞かれたものだから、答えるのに数拍の間ができてしまった。僕が答えると、彼は続けざまに質問をした。
「土曜日に司と遊んだ?」
「なんで知ってるんですか?」
「てことはキミが山本くんか」
頭にハテナが増えていく。質問の意図が分からないまま、彼の中で点と点がつながっていっているようだ。
「ま、とりあえず今日も始めましょうかね。お絵描きのセンセーなんでねぇ」
お絵描きの先生……やはり顧問の先生なのか? そもそも、なぜ今の質問で僕の名前が分かったのか?
謎が謎のままであるうちに、彼はドアを開け放った。
教室の中にキャンバスがいくつか見えた。教壇のあるこちら側に、深海魚のようなものを描いた青い絵と、ただ真っ赤に塗りたくったような絵がある。
「おっ、今日はちゃんと描いてるな〜?」
絵を見つめながら教室へ踏み入れると、「お絵描きの先生」が声をあげたのでそちらに視線を移す。
彼の言う通り、司くんはキャンバスに色をつけている最中だった。
「うるせぇ。描きたくなったから描いてるだけ……え、山本くん?」
司くんは何やら悪態をつきながら振り返り、僕を見て目を丸くした。お絵描きの先生もこちらを振り向いた。
「どうやら山本少年は、本格的に
「へっ?」
間の抜けた声が出た。確かに好奇心からここまで来てしまったが、美術部に入るつもりは最初からなかった。
「そうなの?」
「えっと、今さら言いにくいんですけど……入部したいから来たわけじゃなくて、たまたま司くんを見かけたから、思わず付いてきただけで……」
「なんだ山本少年、キミはカルガモのヒナだったのか」
「はい?」
「そういうことなら仕方ない……職員室に行って、入部届を書いたほうがいい」
ダメだ。この人が何を言っているのかよく分からない。混乱していると、司くんがフォローしてくれた。
「ごめんな山本くん。何言ってるか分かんねぇよな。部員を増やしたくて必死なんだよ、このおっさんは」
「センセーに向かっておっさんはないだろ。おじさんと呼びなさい」
同じじゃないか、おっさんもおじさんも。
僕がそう思っていると、2人は意外なことを口にした。
「学校でおじさんはおかしいだろ。親戚の集まりじゃないんだから」
「ま〜ね。そもそも普段『カズにい』って呼んでるしな!」
「今は呼んでねぇけどな」
和気あいあいと話している。やけに距離感が近いし、親戚とかカズにい? とか……
もしかして。
「あの、司くんと先生って……」
「叔父で〜す」
「……甥っ子」
「この子のパパの、弟ってワケ! ちなみにボクはこういう者です」
そう言うと彼は、白衣の懐からネームプレートを取り出した。よく見ると首元に青い紐があった。
【スクールカウンセラー
「そう、スクールカウンセラー!」
無意識に小声で読み上げていたらしく、黒澤先生はネームプレート片手に胸を張った。
「こんなやつにスクールカウンセラーが務まるのかって、毎回不思議に思ってるよ」
「でもまぁクビにはなってないし? クビになったらそんときはそんとき〜みたいな?」
「ずいぶん適当ですね……」
適当ではあるけど、こうやってユルい生き方をしている人だからこそ頼りたくなるのかもしれないな、とも思った。
「それで〜? 入部届は出さないのぉ?」
「だからその、興味本位で来ちゃっただけで入部までは……そもそも僕サッカー部だし」
「運動部と文化部は同時にできるよ? 校則に書いてあるし!」
まずいな。どんどん入部する流れに持ち込まれている。
「あの、入部するかどうかは後でちゃんと考えますので、今日のところは——」
後ろから肩を掴まれてアプローチを受け、必死にその場を取り繕っていたときに、前触れもなく現れた異様な感覚に口をつぐんだ。
股からドロッとした熱いものが出てきて、ナプキンがそれを吸い込んだ。ナプキンって、本当にサラサラしているものなんだ。
それよりも、このタイミングで粗相するはずもない。確実に「そのとき」が来たのだ。
固まった僕を見て、黒澤先生は「ん?」と顔を覗きこみ、司くんも椅子に座ったまま困惑していた。気まずくて、気づかれたくなくて、そして何よりもパンツの中を確かめたくて、いても立ってもいられなくなった。
「今日のところは帰ります……」
「どうした〜?」
「ごめんなさい、また明日……!」
2人がどんな顔をして、どう思ったのかを考える余裕もないまま、僕は部屋を飛び出した。近くのトイレに駆け込んで、個室の中で少しの動悸を落ち着かせ、ベルトとチャックをほどいた。
徐々に目を開けて確認したときには、溜め息とともに力が抜けて、そのまま座り込んでしまった。
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