第六夜 予見する人々
誰かの幸福を願う時、願う者は己も幸福であろうとしなければならない。
自らを不幸にして、誰かを幸福にしようとするのは傲慢なことだ。
自分の価値を低く見積ることで、相手を傷つけている。
無意識に傷つけながら、幸福であれと願うなんて思い上がりも甚だしい。
誰かを幸福にしたいのならば、まずは自分を幸福にしなくてはいけない。
こちらは何の心配もないから、貴方の幸福を追い求めろと伝えられなければならない。
貴方が幸福であるために、私も幸福であろう。
貴方の幸福のために、私の幸福がある。
†
着物を着た女が長椅子に寝そべり、窓から降り注ぐ光を顔面で受け止めている。
「おはようございます。まどか様」
声をかけると、彼女は瞼を閉じたままこちらに顔を向け「真紀か」と言った。
「どうした。珍しいな」
「本日の午後、お時間を頂くお約束になっておりますので、ご挨拶に参りました」
「ああ、朔が来る日だな。もうそんな季節か」
予定を思い出した彼女は、パッと顔を明るくしたが、それはやがて苦笑に変わった。
「全く。私の知らないうちに、時間はどんどん過ぎていくのだな」
物憂げな声色に返せる言葉が何もなく、私は光の中で気怠げに動く彼女を見つめることしかできなかった。
「さて、いつもの通り買い物を手伝ってやるのだろう? 早く行ってやれ」
私の心中を察してか、努めて明るい声を出した彼女は追いやるように手を振った。
「わかりました。それでは、午後に」
頭を下げて戻すと、彼女は再び日差しに顔を向けていた。
光を慈しむような表情に、少し心が重くなった。
知来家は代々『夢見』を担う一族で、世界の未来を予見してきた。
知来家と呼ばれてはいるが、家系つながりではなく組織的なもので、『夢見』の才がある者が知来という名と、当主の座を継いでいくことで継続している。
現在の『夢見』で、当主となっているのは、知来まどかと知来環のふたりだ。
私は、十五歳で知来家に保護されたのち、十八歳で知来まどかの養子となったが、『夢見』の才があるわけではなく、まどかと環のふたりが同じ予見をしたことにより、養子に迎えられた、ただの凡人だ。
自由には動けない当代ふたりの代わりに、あちこちを歩いて回る役割であり、月下部朔の管理者的立場となっている。
月下部朔は、『夢見』の才を持った青年で、私がまどかに初めて命じられた任務の対象者であった。後継者の保護という重大な役割であったが、出会った時にはすでに『ユオ』に見初められた後だったため、知来を名乗ることは無くなってしまった。
知来家は、一般的には信用されない状態の人々を保護する役割も担っているため、特殊な状態にある朔は知来家と関わりを持ち続けることとなり、その窓口が私の役目だ。
朔は『ユオ』と契約し、世界を産んだ。
世界を産むというのがどういうことなのかも、『ユオ』という存在がどういうものなのかもわからない。が、個人が知り得ることというのは、普遍的な何かであったとしても、そう多くはない。科学だろうとオカルトだろうと、信じるか信じないかの心ひとつで決まっている部分は大きい。
私にとって重要なのは、朔が『夢見』を継ぐことが無くなったということと、当代のふたりが朔の話を信じているということだけだ。ふたりが信じているのならば、それは私にとっての真実で、信じることである。
†
今年は残暑が長く続いたが、今月に入りようやく過ごしやすくなってきた。日中は汗ばむこともあるが、朝夕の冷え込みは冬の兆しを感じさせる。
だというのに、待ち合わせ場所に現れた朔は半袖に短パンという、季節感が全くない格好をしていた。本人は、自転車に乗っていると暑いぐらいだから大丈夫だというが、見ている側に震えが走る。
まずは衣服を整えようということになり、洋品店に入った。カジュアルラインの安価な店だが、これぐらいのほうが着やすくて良いと朔は言う。
「でも、青藍には、もうちょっといいヤツ買ってこうかな」
「おまえも、良い防寒着を買ったらどうだ。あちらは寒いんだろう?」
「一昨年買ったヤツがあるし、ずっといるわけじゃないから平気」
朔は十月の末に、自分が創った世界に帰る。
あちらには物がないため、毎年こちらで荷物を購入して持ち込んでいるのだが、朔が持てる量しか持ち込めないため、厳選しなければならない。そのためか、朔は自分のものをあまり買おうとしないのだった。
聞くところによれば、朔が産んだ世界はいつも雪が積もっているという。想像するにとても寒く、寂しいところに思えるが、本人は居心地が良くて気に入っているのだそうだ。
誕生したばかりの世界に存在する人間は、朔の他には墨青藍だけだ。
青藍は、魔物憑きとされた少女で、しばらく知来家に保護されていた。
日本刀のような美しさをもった少女だったが、その美しさが魔物を呼び寄せたのかもしれない。憑かれてからは成長が止まってしまった。永遠の十五歳となってしまった彼女を羨む人もいたが、生活するとなると不便がついて回る。他のことでも生きづらさを抱えていた彼女は、三年ほど前に、朔の世界へと渡ってしまった。
渡ってしまえば、こちらには二度と戻れない。
創造主であっても、世界を行き来することはできないとされているが、朔はそれを可能としていた。開かれてさえいれば、別の世界を渡ることができるという。
その性質を持つ人を『渡人』と呼ぶ。神隠しにあったり、異世界に行ったりする人は、『渡人』であることが多いとされているが、自覚的に行き来できる人はほとんどいない。大抵が一度きりの行き来であるし、戻れない人も多いのではないかと推測されている。
しかし、朔は毎年渡りを行い、春にこちらにやってきて、秋にあちらに帰る。
「食べるものに困らないのは幸いだよ」
茶葉専門店で香りを確かめながら、朔は言う。
「でも、食べたいものが食べられるわけじゃないんだろう」
現代人にとって、食事とは飢えを凌ぐだけのものではない。娯楽としての役割も大きいものだ。珈琲や果物、菓子類は嗜好品としての側面が大きいが、それだけに恋しくなるものではないだろうか。
「飢えないってだけで充分だよ」
「食事というのは、娯楽でもあるだろ」
「っていうから、青藍の好きそうな茶葉とチョコレートは持っていかないとな」
またしても、他人のためだ。それは悪いことではないが、自分自身についても、もうちょっと気にかけて欲しいところだ。そうでないと、担当者としての私の立場がない。
†
朔の捜索を命じられた時、私は内心穏やかではなかった。
当代ふたりから後継者候補の名前が出るたび、私は自分の存在価値の無さを突きつけられる思いだった。『夢見』の才が無い私が、いつまで知来家に、当代のふたりに必要とされるのだろうかと考えていたのだ。
自己確立の不安定さは、私が育った環境によるものだろう。
私が知来家に保護されることになったのは、両親の離婚が原因だった。両親は農業を中心とした共産主義的団体に傾倒しており、私はその中で生まれ、育った。両親と私は同じ部屋で寝起きはしていたが、基本的には組織の世話係に育てられたようなものなので、両親との親子的な関係はかなり薄かった。
私が中学生になった頃、組織がメディアに取り上げられ、そこから様々な問題が暴かれていき、最悪な犯罪が明らかになると、指導者及び幹部の逮捕に至り、結果として団体は空中分解となり解体した。
そうなったからといって、親子のつながりが強固になるわけではなく、若い母は私に対して拒否反応を示し、父は逃げるように別の団体に傾倒した。元々、愛情などなく、組織に命じられる形での結婚であった両親は、あっさりと離婚。母方の祖父母は同じ組織に所属していたこともあり、一家離散となった。
生まれ育ちが組織内であった私は、偏った教育下にあったということもあり、洗脳を解除する役割として事件に関わった知来家に保護されることになったのだ。
強大な組織ではなかったため、義務教育は一般的な学校に通学していた。それが幸いしたのか、思想に著しい偏りはなかったようだ。欠如していたのは一般常識と、家庭生活のあり方で、知来家で生活することで取り戻していくこととなった。
組織において、知識は不要なものであり、知識を求めることは富への執着であり、悪しきことであると教えられたが、私は読書や勉強が好きであったため、組織内で懲罰の対象になることも多かった。本性的に悪しき人間であると言われ、自分が悪い人間であることと組織の教えを大声で唱えながらの清掃を命じられるなどして、劣等感を植え付けられた。
そういった背景から、私は自分をどこか信じきれずにいながら、自分こそが正しいという矛盾した感覚を持っている。知来家にとって有用な存在でありたいと願い、『特別』でありたいと思う反面、何かや誰かにいいようにされることに強い反発を覚えた。
今となっては、それらの感情に大分距離を持って接することができるようになったが、十八歳当時の私は、矛盾する感情に揉まれ、朔を見つけるまではかなりの葛藤があった。
見つかった時の朔の状態は、想像していたよりも酷いようにも、マシなようにも思えた。
家族から見放された朔は、叔父にあたる人物に金儲けの道具として使われていた。
周囲にいる人や動物を歪めてしまう性質を持つ朔は、誰かと生活することや、一箇所に留まることができなかった。
朔の両親は、その性質の影響を受け、夫婦仲が悪化して離婚。引き取った母親はネグレクトになり、失踪した。引き取ったのは母方の祖父母であったが、朔と暮らし始めて三ヶ月も経つと、心身の不調や夫婦仲が険悪となり、幼い子を見る環境ではないと親戚の家に移されると、その家庭がおかしくなっていった。そのことから、朔に何かがあるのではないかと周囲が気付き始め、親族会議が開かレルこととなったようだ。
そこで手を挙げたのが、叔父であった。身持ちが悪く、あちこちで借金を作っているような男であったが、強い反対の声をあげる者は誰もいなかった。誰の目から見ても、朔が幸せになることはないとわかっていたが、叔父が不幸になる分には構わないと考えたようだ。そして朔は叔父に引き取られることになった。
叔父は、目星をつけた土地に朔を住まわせ、周囲の人々が不穏になった頃合いを見計らって、霊能者を装って近隣住民に近寄った。朔が別の土地に移動すれば不和は解消するため、自らの力で問題を解決すると囁き、金品を巻き上げるという手法で稼いでいた。
朔は各地を転々とさせられ、幼い頃から一人で暮らすことを強要された。水道も電気もガスも通っていないアパートに住まわせられ、叔父の仲間が時折持ってくる菓子パンや菓子を食べて生きていた。
私がアパートに踏み込んだ時、朔は天袋に隠れていた。頭から服を被って荷物に擬態し、靴や鞄を抱え、息を潜めてじっとしていた。発見されたと知っても、泣きもせず、助けも求めず、たった一言「叔父さんはどうなりますか?」とだけ言った。
同世代の子どもよりも痩せて、血行が悪く、瞳がやけに大きく見えた。髪はバサバサで不揃い、全ての手爪は噛みちぎられていて、歯の状態も悪く、現代であれば児童相談所に通報されるだろう有様だった。
知来家にとっては『特別な子』であるはずの朔のあり様に、まだ見ぬ朔に抱いていた嫉妬のような感情は消え去り、庇護せねばならない対象へと切り替わった。
感情の乏しい朔を知来の屋敷に連れて帰ると、身なりを整える間もなく、当代のふたりは朔との面会を望んだ。
畳の上に行儀良く正座した朔は、当代ふたりに「お願いがあります」と土下座した。
「ぼくが、長くここにいると、みんな不幸になります。なので、すぐ、どこかに追い出してください」
はっきりと言った朔に、環は目頭を抑え、まどかはため息をついた。
「あなたの意見はわかった。しかし、しばらくの間はここに居てもらう。あなたには年相応の生活というものを覚えてもらう必要がある」
「君の世話係は、君を迎えに行った真紀にさせよう。彼も君と同じく両親が失踪しているんでね、仲良くやれるだろ」
まどかの言葉に、朔が私を見上げてきた。
確かに、両親には捨てられているが、朔が置かれた状況とは、比較するのも烏滸がましい。何せ私は『特別』ではなく、ごく普通の生活を送れているが、朔はそうはいかないだろうことは、『夢見』としての才があるということからも決定的だった。
半年ほど知来の屋敷で過ごした後、朔は別の場所に移動することになった。
周囲に変化は起きていなかったが、日を増すごとに朔の精神が不安定になっていったからだ。独りになることよりも、周囲が不幸になることの方がずっと恐ろしいようだった。
当代が朔の生活場所に選んだのは、山深い土地の一軒家だった。
過疎が進んだ土地ならば、周囲に影響がないと考えた、というよりは、そこに住まう人物が目的だったのだろう。
「いらっしゃい」
迎えてくれたのは、知来の当代ふたりと並ぶ『夢見』の才があった、天蓋辰砂だった。
彼女が『夢見』にならなかったことについて、様々な噂が流れていたが、本人に聞いてみたところによると「朔と同じような性質だから」ということだった。周囲に影響を与えてしまうため、誰かと共存していくのが難しい性質なのだという。それがどういったものなのかは教えてくれなかったが、彼女に関わる人たちの様子を見ていると、なんとなくだが察するものはあった。
辰砂は山奥で、お守りを作りながら、自給自足に近い生活を送っていた。
お守りというのは、一般的なそれではなく、朔や知来家に保護されているような『特別』な人たちの症状を和らげる効果があるモノだ。木彫りの置物であったり、手織りの布であったり、小さな人形であったり、形は様々だが効果は絶大で、依頼が途切れることはなかったようだ。
当代のふたりも、辰砂の作るものに頼っていた。
未来を予見する『夢見』は、夢の中で彼岸を見るという役割を負っている。
常人が見ることができない世界を見るために、『夢見』は自分の視力を代償としていた。夢の中で彼岸を見るたび視力が衰え、やがて盲目となる。盲目となった後は彼岸を見続けることになるため、現実感が乏しくなっていき、最終的に気が触れたようになる先代もあったようだ。
外界から隔絶された屋敷で、夢を見て生きることを求められる。その夢は楽しいもではなく、見たくもないものを目の当たりにしなくてはならない。未来を見ることと引き換えに視力を失ってしまうという旨みのない取り引きに応じる人は、現代では稀有だ。朔や青藍や辰砂のように、普通の生き方ができない『特別』な人が、様々なことを天秤にかけた上で引き受けているようだった。聞いたことはないが、当代ふたりにも色々な事情があるのだろう。
それからしばらく、朔は辰砂の元で暮らし、十六歳になると辰砂の作ったものを持って、全国を歩くようになった。一箇所に留まらないほうが朔には気楽であったし、辰砂の作るものが必要な人は移動がしにくいこともあって、丁度良かったのだ。
その関係は辰砂が世界を産んで、渡ってしまうまで続いた。
†
買い物を終え、朔とともに知来の屋敷に向かった。
すっかり暗くなった空に、月の姿はない。屋敷が近づくにつれ、朔の表情が固くなっていった。
「おふたりの目の調子は?」
敷地に入る前、足を止めた朔が訊ねてきた。
「悪くなる一方だ。まどかさんは、もう見えてないだろうな」
今朝の様子を思い出し、私はそっとため息をついた。
出会った頃は見えていた目が、年を追うごとに見えなくなっていった。今では、光が追える程度のようで、意図的に音を出さないと近くにいても気付かれないことも多い。
「幸いなのは、後継者をその目で見ることができたことだな」
努めて明るい声を出せば、朔は「そっか」と息を吐いた。『夢見』の才を見出され、候補になったものの、世界を産むことを選択したのを気にしているのだろう。
私としても思うところが全くないわけではないが、仕方がないことと割り切ってはいる。私が迎えに行くより先に、朔は『ユオ』と出会っていた。無明の闇の中で、そばにいてくれた存在を何よりも優先したいという思いは理解できる。
朔を連れて、屋敷に入る。使用人が影のように近づき、当代が待つ場所を耳打ちした。
土間になっている通路を通り、突き当たりにあるエレベーターのボタンを押す。待つことなく開いたドアの向こうには、全身を映す大きな鏡がある。
並んでみれば、朔の年齢が止まっているのがよくわかる。そして、こちらにはいない黒猫の姿が映り込んだ。
鏡とは面白いもので、ドラキュラは鏡に映らず、照魔鏡は魔物の正体を照らし出して暴くという。今回は後者だろうか。こちらにいない猫の正体は『ユオ』のとっている姿だろう。此岸では猫の姿でいることが多いと朔が言っていた。
ドアが閉まると、エレベーターは操作せずに地下へと降りていく。到着を告げるベルを聞き、私は朔の斜め後ろに立った。
「おかえりなさいませ、月下部様」
知来家に仕える、身なりの良い老夫婦に頭を下げられ、朔はいつも通り、まごついた様子を見せた。毎年のことだが慣れないらしい。
「当代がお待ちです」
奥の間の前まで移動し、靴を脱いで襖が開くのを待つ。複数の鈴の音が一度になる音が響き、ゆっくりと襖が開かれた。
「お帰り、朔」
「――戻りました」
言いにくそうな朔を横目に襖の前に控える。奥に進むのは朔と、姿の見えない『ユオ』だけだ。老夫婦と廊下に残り、彼らの会話が終わるのを待つことになる。
再び鈴の音がして襖が開く。
出てきた朔の表情は暗く、疲れているように見えた。
「かなり、進んでるんだな」
毎日会っている私と違い、一年に一度しか会わない朔には、ふたりの視力が急激に悪化したように感じるのだろう。
「依頼は減らせないのか?」
朔が手にした巾着を振る。『強い感情』を吸い取った石が、ジャラリと音を立てた。
それらは、知来家に予見を頼みにくる人間の数と同じだ。その数が多いということは、それだけ『夢見』に負担がかかっているということだ。
「おふたりはできるだけお受けしたいようだ」
当代のふたりは後継者の負担を減らしたいと考えているようで、自分たちが背負おうとしすぎなのだ。
「新しい石の入手先も見つかったし、しばらくは保つだろう」
楽観的な観測を口にしながらも、私の心は沈んだ。
辰砂がいなくなった今、『夢見』の負担を軽減させているのは、石だ。
ひとつは朔が産んだ世界から持ってきたもので『強い感情』を吸い取る性質がある。それと同様に、『強い感情』から生じた石も進行を遅らせる効果があった。
石を身につけて寝ると彼岸を見ることはなく、石を産むほどの『強い感情』の景色を見ることができるのだそうだ。
私は石を産み出すことができない。どれだけ願っても『特別』にはなれないのだ。
私にできるのは、ふたりのために石を見つけることだけだった。
†
朔を連れて、借りているマンションに向かった。
免許証に記載している現住所はこちらのマンションになるのだが、基本的には知来の屋敷に寝泊まりしているので、いつになっても馴染みがないし、生活感というものが全くない。それでも、朔がこちらにいる半年の間は、彼の荷物置き場として活用しているので、少しは乱れて、人のいる気配がある。
「先に片付けよう」
帰宅するなり朔を椅子に座らせる。落ち着く前に、朔の伸びた髪を切ることにした。
美容師の免許はないので、大っぴらにすることはできないが、あちらに戻る前に朔の髪を整えるのは、毎年の習慣だった。
「――辰砂様には会えそうか?」
散髪ケープをつけると、朔は前髪を指で引っ張りながら首を振った。
「『魔女』にも協力してもらってはいるけど、正直、わからない」
魔女とは、世界を産み、『渡人』でもある、朔にとっては大先輩となる存在らしい。魔女は朔とは違い、思ったように思った世界に行けるのだという。自由自在の魔女に辰砂の世界への門を作ってもらえないかと頼んであるのだ。
「ふたりがこっちに来てくれればいいのに」
そうすれば進行が止まるだろうと朔は考えているが、ふたりが頷かないことは朔も私もわかっている。自分の運命を生きる覚悟を決めてしまっているのだ。
「幸せ、というのは難しいものだな」
私が思うふたりの幸せは、あくまで私の願望でしかなく、当人たちにとって願うものではないのだろう。数多くの他者の願いより、本人の願うことが尊重されるべきとは思うが、それでも、と考えてしまう。
まどかの瞳が光を追わなくなる日は、そう遠くはないだろう。
もし、ふたりが彼岸を見続ける日が来たら、気が触れてしまったら、儚くなってしまったら――ふたりのためにできることを失うということは、生きる意味を失うことではないのか――私は、どうするのだろう。
肩下まで伸びた髪を、肩口で整える。切り落とした髪が床に落ち積もっていく様は、私の心中に渦巻く不安のようであり、石の中で蠢く黒い点のようでもあった。
あと半月ほどで、朔はあちらに渡る。
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