第13話

——愛菜視点——


「まずいまずいまずい……寝坊だ寝坊だ……」


 目覚めた時、いつも6時45分を表示してくれているはずのスマホが、今日は7時ちょうどをお知らせしていた。ちゃんといつもの時間にアラームを鳴らしておいたはずなのだが、寝ぼけたまま無意識に自分でアラームを止めてしまい、二度寝をしてしまったみたいだった。昨日の夜、うまく寝つけなかったのが原因だろう。


 15分の寝坊は致命傷ではない。

 しかし私は普段あまり寝坊などしないので、心臓がバクバクいってうるさかった。冷や汗をかきながらも、まだ十分に間に合う時間だと焦る自分を落ち着かせて、私は身支度を素早く行なっていく。

 あれもこれも、テツのせいだ……。


 結局、いつもの時間より10分ほど遅れて家を出ることになった。この分なら学校へ遅刻せずに済むとそっと胸を撫で下ろしながら、エレベーターに乗り込もうとしたのだが。


「おお。愛菜、おはよう」

「……お、おはよ」


 私が乗り込もうとしたエレベータにはなんと、テツが乗っていた。正直、ここでテツに会うのは予想外であったし、私はらしくもなく動揺してしまった。テツの前ではいつもフラットに振る舞う私だったが、今日ばかりはフラットに振る舞えるような気がしなかった。


 テツとは幼馴染で、本当に長い時間を一緒に過ごしてきた。テツの恥ずかしいエピソードはいくつも知っているし、逆に私の恥ずかしいエピソードをテツはいくつも知っているだろう。お互いがお互い以上に、お互いのことを知っている。幼馴染というのは、そういうものだ。いや、そういうものだと思っていた。つい昨日まで。


 ——そう。テツが銀髪碧眼の美少女と、高級焼肉店から出てくる場面を見るまでは。


「愛菜っていつもこの時間じゃないよな?」

「う、うん。今日はちょっと寝坊しちゃったから、たまたまこの時間なだけ」

「そうか」


 テツはいつもこのギリギリの時間でマンションを出ているらしいが、私はもう少し早く家を出ている。私は余裕を持って登校したい派であるので、いつも哲とは別の時間に登校しているのだ。

 しかし今日珍しくも私が寝坊してしまったために、テツがいつも登校している時間に被ってしまったのだ。できれば気持ちの整理がつくまで、テツの顔は見たくなかったのだが、なんとタイミングの悪いことだ。


 するとテツがもじもじとしながら、口を開いた。


「愛菜——」


 瞬間、私はテツが昨日のことを話そうとしているのを察した。テツとは長い付き合いだ。それくらいのことは雰囲気でなんとなく分かる。私は昨日、テツが銀髪碧眼ですごく可愛い女の子と、高級焼肉店から出てくるのを偶然見かけてしまった。私と目が合ったテツは、まるで私を避けるようにその場から逃げ去っていった。


 あの場面から推測するに、きっとあの可愛い子はテツの彼女さんなのだろう。あの微妙な距離感は間違いない。まったく休日に学生カップルで、高級焼肉店なんて行っちゃって……。そんな子に育てた覚えはないのに。

 私が思うに、昨日は彼女さんの誕生日か何かだったんだと思う。テツはちょっと阿保というか大袈裟なところがあるし、彼女さんの誕生日を祝うために、彼女さんを高級焼肉店へ連れて行ってあげたんだろう。最近になってテツはアルバイトを始めたし、懐事情もあったかいことだろう。高級焼肉店でお祝いという背伸びも、不可能なことではないはずだ。いいや、もしかすると、彼女さんのお誕生日を祝うためにアルバイトを始めたのかもしれないな。


 一体どこであんな可愛い子とテツが知り合ったのか、それにはまったく見当がつかなかったが、テツに可愛い彼女ができたことを正面から祝ってあげるべきなのだろう。私はテツの辛い過去を知っているし、今日までテツが様々なことに頭を悩ませてきたことを知っている。

 テツは幸せになるべき人間なのだ。だから私はテツを素直に祝ってあげるべきで……。そう頭では分かっているのだけれど。


「私、日直だから、ちょっと急ぐね」

「え?」

「じゃあテツ、また放課後のアルバイトでね」


 私はたまらなくなって、その場から駆け出してしまった。テツは一体どんな顔で駆け出して行った私のことを見ているだろう。

 駆け出していった私は、テツの前で見せるフラットな私とはまったく異なるものだとわかっていたけれど、どうしても今の心持ちじゃテツと向かい合って話すのは辛くて。なによりそのままでいたら、心臓が張り裂けてしまいそうだった。いくらいつもフラットに振る舞っている私でも、フラットに振る舞えない時だってあるのだ。



 

 正直に告白すると、私はフラットな性格でもなんでもない。テツの前でだけは、フラットに見えるように振る舞っているだけだ。ではなぜそんなおかしなことをしているのか——。 

 そうするようになったきっかけは、5年ほど前に遡ることになる。テツのお母さんの病気が発覚して、残酷にも残された時間を宣告された頃だ。


 その頃のテツは毎日とても辛そうにしていて、暗い顔をしている時間が長かった。元々明るい性格でもなかったテツの口数はみるみると減って、私が話しかけなきゃテツは口を開こうとさえしなかった。そんなテツを側で見ていると、テツの助けになってあげたいと私はいつからか思うようになって。けれど幼い頃の私には、自分がテツに何をしてあげられるか分からなかった。非常にデリケートな話題であることは幼いながらも分かっていたし、その頃の私は幼く圧倒的に無力だった。だから簡単には行動に移せなくて、自分の無力を責めるしかなくて。


 やるせない毎日を過ごしている、そんな時だった。私の母の付き添いでテツのお母さんのお見舞いに行った際、ふとテツのお母さんと2人きりになった瞬間があったのだ。その時、テツのお母さんは私にある頼み事をしてきたのだ。


『愛菜ちゃん。愛菜ちゃんにこんなことを頼むのもおかしな話かもしれないけど、一つお願いを聞いてくれるかしら。その……愛菜ちゃんだけは、これからどんなことが起こっても、いつも通り哲に接してあげて欲しいの。きっとこれから哲は、いろんな人に哀れみの視線を向けられて、いろんな人に気を使われることになると思う。そんな毎日を過ごすのは、とても辛いことだわ。だから哲の一番近くにいる愛菜ちゃんだけは、これからも哲にいつも通り接してあげて欲しいの』


 そのテツのお母さんの言葉は、私の心にスッと染み込んだ。雲の切れ間から差し込んだ日の光のように自分のやるべきことが見えたし、右も左も分からなかった自分の役割を理解することができた。

 それから私はテツのお母さんに言われた通り、テツにフラットに接した。気になることがあってもそれを腹の底に蓄えてきたし、極力感情を抑えてテツとは関わってきた。結果的に、私は今日までテツの側に居続けることができている。


 しかし、その出来事が私をずっと縛り続けているのもまた事実で。あれから私はテツの事情に、深く追及できなくなってしまった。テツのお母さんはきっと、自分が亡くなってからしばらくの期間の話をしていたのだろうが、私はフラットを切り替えるタイミングを見失ってしまったのだ。


 深く追求して、テツに拒まれるのが怖い。

 深く追求して、テツに嫌な顔をされたくない。

 本当はテツのことが気になって仕方がないし、もっとテツのことを知りたいと思っている。テツとは古くからの付き合いであるし、今後もその付き合いを継続させて、もっと深いものにしていきたい。


 しかし、その癖はいつになっても抜けなかった。それがいつかこんな事態を引き起こすと、薄々私も勘付いてはいたというのに……。

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