第12話

「……まずいとこを見られた」


 昨夜は、あまりよく眠ることができなかった。まさかよりにもよって、あのタイミングで愛菜に遭遇してしまうとはな……。冷静になったいま振り返ってみれば、あそこで変に動揺したりせず、何か気の利いた言い訳の一つでも話せれば良かった。親戚の子が遊びに来ているだったり、留学生をむかえることになったであったり、言い訳のしようはたくさんあったはずなのだ。しかし俺の頭の回転はそこまで早くなくて。何を思ったか、俺は動揺して慌ててその場から逃げ出してしまった。


 一応、昨日のうちに父さんとは話をしていて、父さんはしばらくの間うちで預かることになった親戚の子という設定になった。銀髪で碧眼であるのは、親戚の誰かがヨーロッパ系の誰かと結婚したということにした。付け焼き刃の設定であるが、他にまともな設定が思い浮かぶ気がせずその案で固まった。

 

 愛菜の前から逃げ出した俺たちは明らかに、何か隠し事をしているようにしか思えなかっただろうし、愛菜の俺たちへの印象はきっと最悪だ。それに今更、愛菜に付け焼き刃の設定を説明したところで、素直に受け取ってくれるかは微妙である。なんでそれをあの時言わなかったのか、ということが焦点になってますます状況を悪化させかねない。だからと言って、まさか美少女の正体が父であることを愛菜に話すわけにもいかず、俺は朝からそんなどうしようもない気持ちを抱えることになっていた。



「……行ってきます」

「ああ」


 寝癖で髪の毛がボサボサの父に見送られ、いつも通りの7時半ごろに俺は家を出発した。あの父の様子からして、おそらく父はこれから二度寝に洒落込もうとしている。別に二度寝でも何でもしてくれていいんだが、これから学校へ向かう俺からしてみれば実に羨ましく妬ましくて。

 まあ今までずっと父は仕事漬けの生活であったし、しばらくの間くらいはゆっくりしていて欲しいという気持ちもある。本当についこの間までは、寝る間も惜しんで働いてくれていたから。


 しかしずっと眠っているわけでもないだろうし、俺が学校に行っている間、父は一体何をしているつもりなのだろう。美少女化した父に当然仕事はないし、かといって父に目立った趣味もなかったはずだ。いきなり膨大な空白の時間を与えられても、手持ち無沙汰になって困ることだろう。


 なんて、父のことは父自身がなんとかするだろう。俺が心配するようなことではない。それより今は、愛菜のことだ。

 もし愛菜が昨日の俺の逃亡に腹を立てていて、俺が銀髪碧眼美少女と高級焼肉店でランチをしていた、という噂を学校に流していたら……。変わり映えしない日常に飽き飽きしている学生たちにそんな刺激的な噂が流れれば、よだれを垂らしながら飛びつくに違いない。

 愛菜に限ってそんなことはしないと信じているが、もしそうなれば非常に面倒くさいことになる。俺はいつも教室の隅で寝ているような人間であるし、その平穏を乱されると、俺の日常生活に支障が出かねない。できればその噂を流される前に、愛菜の認識を改めておきたいところだ。実際、愛菜はフラットなやつだし、こちらが誠意を持って話せばちゃんと話は聞いてくれるはずである。あとは俺の話術にかかっている。


 とにかく朝のうちに話せる機会があればなんて考えながら、ロビーへと降りるために自宅がある3階から俺はエレベーターに乗り込んだ。乗り込んだエレベーターは無事に下に向かってゆっくりと動き出したのだが、ロビーがある1階にたどり着く前に、なんと2階で途中停車した。それはつまり、2階から乗り込んでこようとしている住人がいるということで。


「おお。愛菜、おはよう」

「……お、おはよ」


 2階で途中停車したエレベーターは、なんと愛菜を中に迎え入れた。なんとタイミングのいいことだろう。やはり神様は頑張り屋さんの味方なのだ。エレベーターという密室に逃げ場所などなく、俺は愛菜と真っ向から対峙することができる。したがって、愛菜と落ち着いて話をすることができるのだ。これは昨日の言い訳をする絶好のチャンスと言っていいだろう。

 そうは言ってもまずは焦らず、世間話から始めよう。物事には順序というものがあるからな。


「愛菜っていつもこの時間じゃないよな?」

「う、うん。今日はちょっと寝坊しちゃったから、たまたまこの時間なだけ」

「そうか、珍しいな」

「うん、ちょっとね……」


 愛菜はいつものフラットな様子とはうってかわって、少し動揺しているように見えた。愛菜はあまり寝坊をするようなやつではないし、予定外の寝坊に愛菜も動揺しているのだろうか。


 まあいい。

 このまま昨日のことを話してしまおう。


「愛菜。昨日のことなんだけどな——」

「私、日直だから、ちょっと急ぐね」

「え?」

「じゃあテツ、また放課後のアルバイトでね」


 そう言った愛菜はエレベーターが一階に辿り着くと、あっという間にドアから飛び出して駆けて行ってしまった。俺が呼び止める隙さえ与えてくれず。


「……え」


 それは実に愛菜らしくない行動で。いいや、らしくないでは表現が足りていない。それが、俺が生まれて初めて、愛菜に避けられた瞬間だった。

 

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