File3
第1話
こぽり、と液体の中で泡が浮かぶ。
ガラス越しでその様子を見ていた白衣姿の女性は、眉を下げて目を伏せてからガラスに額をつけて息をする。まるで、何かを確かめているような素振りに意味があるのかは誰も知る由はない。
液体に満たされたガラスの中には、目を閉じた裸体の女性が入っている。それはまるで、フィクションで見かける培養室のようで不気味さがある。
「もう少し、待っていて頂戴」
額をつけた女性は、静かに頬を濡らす。
静寂な空間に響くのは無機質な機械音に、水泡が出来る僅かな音。
そして。
「誰よりも愛しい人」
白衣の女から紡がれる音だけだった。
この世は常に必要以上にストレスに塗れている。
環境的要因、心理的要因、身体的要因、社会的要因。要因としては四つほどあげられ、全て排除することは不可能に近い。そもそも、ストレスは悪いものばかりではない。
「異能課諸君!」
やや乱暴に開かれた扉から入ってきたのは、異能課担当の医者である鳴無圭。彼は、興奮気味に一枚の資料片手に異能課執務室へと入ってくる。この異能課は、良くも悪くも癖の強い人物たちの巣窟だ。鳴無の興奮した声だけで煩わしく思うものは居ない。ややオーバ気味に執務室に入ってくる人など少ないこともなく、ある意味で日常的な風景の一つということなのだろう。
自席で資料を纏めていた理玖はいきなりやってきた大きな声にびくりと肩を震わせてから首を傾げて、キーボードを打ち込んでいた手をピタリと止めてから不思議そうに鳴無を視界に入れる。
「
興奮気味で執務室にいるメンツ全員に話しかけるようなそぶりで声を上げる鳴無に対して、誰一人として反応を見せることはなく各々の仕事をしている。一部のメンツに限っては、ヘッドホンをつけて仕事をしているのでそもそも彼の声が聞こえていない可能性だって十分に存在している。
その中でも唯一反応を見せた理玖は、隣に座ってて慰めのように自席に置かれた小さめの折り紙で干支を作っている馨に向かってそっと耳打ちをするように話しかける。
「……甘羽さん、知ってます?」
「さぁ。私はテレビは見ませんし、仕事以外で一般的な情報収集もしないので」
「ゲームの攻略とか、最新情報は速いですよね。最近調べるより、甘羽さんに聞く癖が……」
「一応言っておきますけど、リーク情報はないですよ。……まぁ、確かにガチャスケジュールを考えるとちょっと覗きに行こうかなって思わなくもないですけど。ああいう情報はダメですからね」
苦笑をしながら告げる馨に対して、静かに頷く理玖。
ゲームの話はさておき、鳴無の告げた人物に心当たりもなく興味もないのか馨は再び折り紙へと意識を戻してしまう。この異能課は仕事がある時とない時で非常に差があるのだ。毎回仕事が山のようにあるということではなく、今回のように暇している時だって当然にある。そのような時、理玖はいままでの事件内容、それらに対する対応方法などを確認して今後に活かせることはないかを考えているのだが馨は違うのだろう。
現在進行形で、彼女は干支を折り紙で作っているのでそれはそれ、なのかもしれない。
「あ、ネットで調べたら出てきましたよ。なんでも、ストレス緩和についての研究をしている人らしいですね」
「ストレス緩和? まぁ、結構色々な人が研究してそうな分野ですよね。結論を言えば、緩和することはできてもゼロにすることは限りなく不可能である、という結論になるんでしょうけど。何を持って緩和した、と定義するのかも難しそうです」
理玖は業務パソコンを使って、各務早咲について調べるとその人物についてのニュースが多く出てくる。なんでも、その人物は若き天才と言われるほどの研究者らしい。いつになく、手術やそれらに対する術式。果てには病原菌などに対してしか極度に興奮してテンションが上がることがない鳴無が興奮している理由は彼女の研究内容にあるのだろう。
馨は、そっと視線を折り紙から隣にいる理玖へと向けてからパソコンの画面へ向ける。
「ストレスの可視化、そしてそれらに対する緩和を行う薬の開発が本格的に開始?」
「なぁんだ、二人は興味があるのか!? そうだろうとも、何せこれらは実用されればきっとさまざまなことがより良い方向へと向かっていくに違いない! ストレス値の可視化、だなんて誰もが考えついたがいかにして基準を設けるか、どのように数値化するのかという壁があり誰もできなかったことでもあるんだ! この研究はきっと未来を良くするに違いない!!」
二人が各務早咲について調べていたことをすぐさま察知した鳴無は、扉近くにいたはずなのに音もなく二人の後ろへと移動してきては楽しそうに話している。先ほどまでの、音量とは違い二人が近くにいることもあってか声量は至って普通の会話をする時の音量まで抑えられている。
「先生がそこまでテンション上がっているということは、医学的にも何か役に立つってことですかね」
「まぁ、多分ね。どんな感じに出来上がるのかわからないからなんとも言えないけど、一種の基準として用いることはいいことだろうと思っている。まぁ、正直分野が違うから見解も違うのかもしれないけど。数値化、というか。見えないものが見えるようになる、というのはいいことだろう」
まるで、子供が褒めて欲しいがためにさまざまな知識を披露するような雰囲気だ。
馨は、「フゥン」と告げるだけでそれ以上のことを話さずに静かに画面を見ている。彼女は何か思うことでもあったのか、それでも言葉にすることはなく再び折り紙での干支作成へと意識と視線を全て戻してしまった。
「でも、見えないものを可視化するっていうのはいいかもしれないですよね。自分の限界とかがわかるってことでしょう?」
「確かに、高砂くんの言う通り! まぁ、それの良し悪しは実装してからのお楽しみってことになりそうだけど。何せその人の限界値が分かるということは、だ。裏を返せば、限界まで動かすことが出来てしまうからね。これは企業側というか、雇用する側の倫理観の問題になってきそうだけど」
鳴無の言葉に対して「なるほど」と小さく声を漏らし頷く理玖。
実際に実用性が出てからでないと分からないことは、よくある話だ。使い方次第では、良いシステムでも悪いものに変わってしまうこともよくある話なのだろう。
「なんだか、ゲームみたいですね」
「だよねぇ。まぁ、昔は人の見えないものを数値化して可視化する眼鏡の開発とかあったみたいだけどおじゃんになってる。これにより外部と連携してカンニングが出来る可能性があったからね。あとは試験問題の流出とか、問題は山積みだったらしい」
過去にあった類似事例について話す鳴無は、うんうんと一人で頷いていた。理玖は最初は興味ありげに話を聞いていたが、類似事例があり頓挫したと聞いたあたりから興味が薄れてきたのだろう。適当に相槌をしながら、鳴無の話を右から左へ聞き流す。
あらかた話して満足したのか、鳴無は「じゃあ!」と元気よく告げてからその場から居なくなる。おそらく、彼自身の持ち場である医務室へ戻ったのだろう。
「嵐のような人でしたね……」
「ナキ先生はああいう人だからね。一に手術、二に病原体、三四に興味、五におしゃべりな人だから」
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