脱刻のゾウトロオプ

青時雨

脱刻のゾウトロオプ

 わたくしを家族だと思って、優しく抱きしめてくれる人はいません。

 長男が生まれる前に生まれてしまった長女いらない子

 両親はまるで私のことを、睫毛を凍らすような冬の冷たい風のように嫌がるのです。そして私をおいて、弟と一緒に温かい場所へと行ってしまう。

 私にあるのは、乳母との思い出くらいのもの。その乳母は二年ほど前に亡き人となってしまった。



 私に友人はいません。

 私の持つ名誉や地位に惹きよせられ友人になったとしても、構わないわ。

 ただ、少しずつ時間をかけて、私自身のことも見てくれたらとは願ったの。

 けれどそれは叶わぬ夢のよう。



 私を愛してくれる人はいません。

 私をめとろうとお考えになっている方々は皆さん揃ってこう仰います。


『貴女は美しい。どうか妻になってほしい』


 私は輝く石ころや、職人の大変な技術を用いて作られた装飾品ではありませんの。

 添い遂げるということは、この若く美しい私もいつか必ずお傍で老いていくということなのです。

 不老不死などという御伽噺おとぎばなしを私に求める方は滑稽ね。巷で紳士だと専らの噂が流れ、女性からの憧れの眼差しを浴びている方でも同じ考えだなんて。

 失望してしまう前に、瞼を閉じることにしている。見えるは暗黒、けれど虚しくなっていく心の小さな隙間からは目を逸らすことがどうしてもかなわないのです。



「フェデリア、あんたにこれを贈ろうじゃないか」



 名前も知らない、見覚えもない不思議な女性。

 私はそんなこの人に安らぎを覚えてしまうほどには、孤独だった。

 乳母が亡くなった頃から時々私にガラクタを持ってきてくれるのです。

 それもただのガラクタではありません。あの人のにかかれば、ガラクタも私の心の隙間を埋めてくれる大切な何かに。



「あんたがこんな胡散臭いあたしを心の拠り所にしてたのはお見通しさ。そんなんだからどうせ今まで心のこもった贈り物のひとつもらったことがないんだろう?」


「ええ…ええそうね。なんて悲しいことなのでしょう」


「フェデリア。嗚呼、可哀想な貴族の娘。あんたにあたしの心がこもった贈り物をやろう」



 女がフェデリアに渡したものはゾウトロオプ。年季の入ったそれを、女のによって手を加え蘇らせたガラクタ。



「まあ、ありがとう。嬉しいわ…大切にします」



 ゾウトロオプを回すと、子気味良い音をさせながら中の絵が動き出す。

 こちらもつい頬が綻んでしまいそうなほど、楽しくそして愉快に。けれど切れ長の瞳はどこか憂いを帯びていて危うげな男がバイオリンを奏でる絵。

 滑らかに動くそれにフェデリアは魅入られた。



「……この方は?」


「私の描いた絵だからね。実在しているのかそれとも幻か。あんたはどちらを望む?」


「もしこんな素敵な方がいたら…とは思います」


「会ってもいない男に素敵もクソもありゃしないと思うけどねぇ?」


「こんな素敵な音を奏でることが出来る方はきっと心根の素敵な方だと思います」


「…あんたこの音が聞こえるんだね」


「?…ええ、素敵な音だわ」


「そうかい。そうだね、この男の名前はランチェストだ。地位も名誉もないどころか、どこから来たのかどんな奴なのかもわからない。容姿もこの通り平々凡々。だがバイオリンを手に取ると不思議と惹きつけられる華がある」


「ふふ、面白い方ですね。今お作りになったデタラメなんでしょう?」


「あんたは、こうして意味のない会話が出来るあたしすら失うんだ。孤独を埋めるために、このゾウトロオプを使えばいいさ」


「どういう…ことでしょうか」


「人の縁なんてそんなもんさ。なあに、今のあたしみたいにこの絵の男にデタラメな幻想を見ればいい。夢を見ている間は、孤独じゃないだろうよ」


「そんなこと…現実に引き戻されて、もっと虚しくなるだけだわ」


「いいかい、フェデリア。夢を見続けられた者が勝ちなんだよ」



 女は何かを思い出すように目を細め彼方を見やった。

 別れ際にはいつも、「じゃあね。…ところで夕食の残りなんかはあるかい?。こんなわけのわからない女には上等なワインでいいよ」と変わらない冗談を言った。




 女が姿を消した日から、フェデリアは毎日女からの贈り物であるゾウトロオプを眺めた。

 バイオリンを規則正しく奏で続けるランチェスト。

 フェデリアは孤独感に眠れなくなる夜、ゾウトロオプの中に見るこの男の絵に物語を紡いでいった。

 毎晩毎晩、少しずつランチェストという幻想の男に物語を紡いだ。

 彼が生まれたのは、私が生まれたあの厳しい冬を二度遡る頃。

 彼が好きな食べ物は、ちょっとだけ顔を顰めてしまうような酸っぱい木苺。決して美味しいとは言えないそれを好むのは、それを食べた自分の顰めた顔を見て笑ってくれるから。

 彼がバイオリンと出会ったのは…そう、ガラクタ集めのあの人にもらったから。私があの人からこのゾウトロオプをもらったように、彼も元はガラクタだったバイオリンをもらったの。

 魔法にかかってしまったように、嬉しくて、泣きそうで、不気味で、可笑しな、人を魅了する音。きっとそのバイオリンは彼の心の写鏡。



 屋敷の端にある自室、そこに籠るようになったフェデリアを気にする者はいない。

 彼女は孤独だから。

 そこに巣食う歪な恋心にも、芽生え始めた禁忌にも。誰も気がつかない。



 フェデリアは今日もゾウトロオプを見つめていた。

 どんなにランチェストさんを想っても、所詮彼の存在は私の幻想。

 月の光に現実に引き戻された時、虚しいけれど孤独ではなかった。

 ランチェストの人生を、私も隣で歩めているような気がしたから。

 家族じゃなくてもいい。恋人じゃなくてもいい。友人でなくてもいいわ。

 ただ、彼の織りなす暖かな世界に、私も混ぜてほしいだけ。

 フェデリアは自分の体を眠らせることさえ億劫になり、次々と思い浮かぶランチェストの物語を歌うように口ずさんだ。

 眠ることを忘れ

 食べることを忘れ

 生きていることを忘れた。


 ランチェストが今、この絵のような姿を見せるまでの物語を紡ぎ終え、再び孤独を恐れるようになっていたある日。

 ゾウトロオプに異変が生じた。ずっと聞こえていたバイオリンの音が聞こえない。

 今まで同じ動きで繰り返し、バイオリンを奏で続けていたランチェストが、いなくなった。

 ゾウトロオプはそういうものではないとわかっていたからこそ、フェデリアは困惑した。

 怖い、とさえ思った。

 けれど彼女はもうゾウトロウプから目を離すことが出来なかった。

 回るゾウトロオプの中に見える白紙の世界に、線が生まれた。

線は絵を描き、絵はゾウトロオプを一周回しても同じ絵を繰り返さなかった。

見えているのは、フェデリアが紡ぎあげたランチェストの人生。

フェデリアは、自身の考えた彼の空想の人生を絵としてはっきりと目にした。

それはまるで本当に生きているようで…





 生きているようで?





 ゾウトロオプの中のランチェストがこちらに手を伸ばしてくる。

その手は次第にゾウトロオプの隙間をもこえて、彼女の心の隙間に入り込む。

彼女の中で規則正しくカタ、カタと鳴り続けていた二本の針をへし折った。

もう音はしない。

カタ、カタと鳴る音も、心臓の音も。




「フェデリア」


「なあに、私の愛するランチェスト」



 心から抜かれた手は、フェデリアの頬を愛おしげになぞる。



「ここから先の僕の人生を紡がなかったのはなぜ?」


「私は貴方を愛しているの。貴方の人生を紡いでいるのは私だから、貴方と誰かを結ばせてあげることがどうしてもできなかった。だってそうしたら、私はまた蚊帳の外…孤独だわ」



 ゾウトロオプから聞こえるはずがないランチェストの笑い声。

頬から離れた彼の手は、フェデリアの手を取る。



「可笑しな女性ひとだね。君が僕と一緒になることは考えなかった?」


「貴女は私の中で確かに生きていたわ。私の勝手な気持ちを押しつけることなんて出来ないもの」


「優しいんだ、君は…もう孤独じゃないよ。僕と一緒だからね」



 柔らかな声音に相反して、彼女の手を引く手には抗えぬ力が籠る。

フェデリアは耐えられず、涙を流した。

それはもう、恐れなどではない。



「貴方の手、温かいわ」












 屋敷に閉じこもって長い時を過ごしているフェデリアを初めて気にかけたのは、父の後を継いだ彼女の弟──コルバートだった。

 コルバートにもフェデリアへの愛情はなくただ食事にも出てこない姉が、死に、腐り、屋敷から異臭が出るのを懸念しただけのことだった。

けれど、彼女の自室は異様なほど静か。

 コルバートは彼女の部屋を苛立たしげにノックする。が、どうせ自分からは出てこないだろうと考え、ドアノブに手をかけた。



「おい、生きているんですかフェデリアお姉様」



 異臭もしない。

 厨房からくすねたパンの欠片もない。

 ベッドの中に、永眠したフェデリアの姿もない。



「…?」



 コルバートの目に止まったのは、テーブルの上のゾウトロオプ。

妙に惹かれて触れようと手を伸ばすと、まだ触れていないのにも関わらず禁忌の魔法による痺れが指先を刺激する。



「やめな。フェデリアはここにはいない」


「ッお前、何者だ」


「さぁ?。少なくともあんたよりはあの子のことを知ってるもんだよ」


「フェデリア姉様をどこへやった」



 コルバートは言葉とは裏腹に、こんな状況ですら姉の心配などしていなかった。

 親族に禁忌の魔法に手を出した者がいたとなれば、家名に傷がつく。自分の代でそんなみっともないことになれば生き恥だと、自分の心配ばかり。



「正しくは、この世界にはもういない」


「お前が殺したのか」


「人聞きが悪いね。あの子は長い時を苦しんで生きてきた。生きてきた時間に比例しないほどの苦痛と孤独を抱えていた。そんな娘を幸せにしてやりたいと思って何が悪い」



 女はゾウトロウプを回し、顎で中を覗くよう促す。

仕方なく覗いたコルバートは息を呑んだ。

美しく、いつも孤独だった、愛されない姉。

そんな姉は、回るゾウトロオプの向こう、滑らかに動く絵の中に囚われていた。

それは繰り返される、刻のない世界。

禁忌の魔法が色濃くかかった、ゾウトロオプ。



「どうだいあたしのは」


「吐き気がするッ…この魔女めが。とっとと出ていけッ」



コルバートの投げつけたゾウトロオプを、他の部屋に引かれた豪奢な絨毯床とは大違いの木の床に落ちる寸前で女は受け止める。

中空にふわふわと浮かせたゾウトロオプを、人差し指を動かし自らの手元に引き寄せる。

女は愛おしそうにゾウトロオプを回し、そして眺めた。



「これでまたしばらく退屈しないかねぇ」



 誰に向けたのかもわからない言葉を残して、女は屋敷を去った。



女が大事に抱えた、独りでに回り続けるゾウトロオプ。

刻から脱したその世界の中では、バイオリンを弾く男の傍らでフェデリアが生まれて初めて見せる心底幸せそうな顔が描かれていた。

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