第6話 書簡

「さて、お前は飲まず食わずで生きていられるのか?」先人が「さて」と口にしたのは、この場が次のステージであると互いに認識する必要があったからだ。『根』の少年は気にも留めないだろうが、先人は細かいことを幾分か重く考える性質があった。実際にどの程度の質量を持たせるのかは自身の状態に左右されるが、今回はというと、既に何度も音を上げていた通りで悪い。

「たぶん。僕の場合、直接口にしなくてもエネルギーを得ることはできる。また、必要な栄養素というものも分からない。人のことは何となく分かっても、被験者が僕であったデータはどこにも存在しない…もちろん、似たような記憶なら山ほどあるけど、それは僕であって僕じゃない、何十年も前の、遠くて曖昧な記憶しかない、と思う。断言ができないのは、確信というものを何一つ持ち合わせていないから、と言うより記憶そのものが曖昧なのかな…これが自身に関することなのか、他人のことなのか、区別がつかない。それと、たぶん、と言ったのは僕があと何年生きられるかも分からないから。今が酷く不安定な状態で、病気なのか、健康なのかも分からない。痛みはあっても何に基づくものか、答えられる者もいない。でも、それが不安という訳でもない、生きてても死んでても何も感じないというのが正解だけど、きっと、死に直面すれば抗うようには出来ているのだろうか…」少年は時を確かめるように左手を軽く握り、甲に視線を重ねた。「それが僕にとっては少し怖いのかも知れない、その時の僕はもう僕ではなくなってるだろうから。でも、僕はそれを証明しなくちゃいけない」

「俺が見る限りではどこにも異常はない。俺は医者ではないが、不規則や変則には幾分か慣れている。この場に於いての不規則ってのは、まぁ、病気とかのことだと思ってもらえればいい」少年は先人の言葉を聞いて、やはり安心も不安もない完全な無という表情を見せた。


二人は図書館にいた、陸屋根は『根』の巨大な質量によって潰され、真っ二つに引き裂かれたような格好となっているが、それ以外に目立った瑕疵はない。風雨に晒されたものの、すべての本が朽ちた訳ではなかった。この少年に今必要なものは単純に情報であり、文字を学習するとしても大した手間とはならないと踏んでいた。先人は散乱した本のタイトルを追っている。文字も大切だが、絵の方を優先すべきか、適当な本をいくつか手にした。少年は椅子の背もたれに本を引っ掛けてページを捲っていた。文字の順序も知らないが、先人の誘導もあり、意図だけは理解できるようになっていた。


「ところで、本体の記憶はどこに存在する?」

「本体というのは『根』のこと?」少年は先人が頷くのを確認すると続けた。「所謂、記憶媒体はないと思う、けれど情報はお手玉のような状態でずっと中空を漂っている。僕の言葉だけでは上手く説明できないけれど、僕が情報を受け取った際のイメージはそれに近い。言葉が手に入れば、その時は説明ができると思うけど、知らないことの範囲さえ分からないから、どれだけの時間が掛かるかは分からない」

(記憶はない、か…こいつの脳がどういう状態にあるのかは分からないが、結果だけを見れば記憶が蓄積するのは間違いなさそうだ…場合に依っては、彼女に破壊されててもおかしくはなかったが、そうしなかった理由はいくつかに絞られる。読み違いは必至、だが、文句ばかりも言っていられない。まず、脳に代替する器官は持っている、それが破壊された脳の一部機能であるかは判別できない。『根』のオルガノイドなんてものは、この場では考えたくはないが…)先人は情報を整理し、教育方針なるものを思案した。そのためにいくつか必要な情報が欠けている。


「その言葉の選択の基準はなんだ?微妙な違いなど分からないだろう?」

「容姿と状況に拠るかな、この姿に近いのは僕とか俺とか…そういう場面を沢山見てきた。あの頃は本当の意味でただ見ていただけなんだけど、それ以外の方法を知らなかったから。事象を理解するのに、感情もない僕にはすべてが遠く追いつく暇がなかった。けれど、今は違う。僕にはあの頃の景色を残らず掴むことができるから。おかしな言葉だけど、生きないことに必死だったんだと思う…この目に映るすべてに心を奪われ、手を伸ばしたところで手に入らず、それでもひたすらに手を伸ばして…それは何にもならず、決して何も生み出しはしなかった。記号だけが空へと浮かんではゆっくりと消えてゆく、そして、また光の粒を吸い込んでは半自動的に組み分けされて、僅かな違いこそあれど、似たような、価値のないものを受け取り続けてきた。そう、それはあの時まで数十年間は続いた。」

「先の発言もそうだが、数十年の根拠は何だ。『根』が落ちたのは11年前のことだったか…」先人は現時点では発言の真意が読めなかった。確かに、『根』が存在したのはその前からだろうが、同一個体という訳ではないからだ。

「僕には時間の感覚が薄いのかも知れない…けど、計算ができるようになった今だからこそ、よりはっきりと感じる、それだけ退屈であったことの反動、若しくは、別の世界の記憶や思い出なのかも知れない」少年には表情や、それに付随する喜怒哀楽といった感情はなかった。理由としては、やはり目的がないからだろう。ただ生きゆく存在というだけで、その他には何者も存在しなかった。先人に痛みを与えられ、思念の渦からは脱却できたように思える、しかし、現状ではそれだけであって自ら歩き始めた訳ではなかった。但し、決定的に足りないと思われた意思の中にも一つだけ価値あるものを手に入れていた、それは声だった。少年はその声を歌のように認識していた。音程やリズムがあればそれは歌と変わらないのだろう…尤も、今はそれすら忘れているだろうけど、いずれ思い出す時が来るのだろう。その時が、どう転ぶのかをできる限り計算しておく必要はある、それこそが先人の仕事と言っても差し支えない。


「彼女のことは何も覚えていないのか」忘れていることは分かっていた、この場合は確認ではなく、彼が情報を引き出す手段を見ておきたかったに過ぎない。

「声の在り処、暗闇の中で何かを聞いた気がする。時間的には『根』の切断を試みた人物と同一だろうか」

「切断は不可能だろうから、別の目的があったと考えるべきだ。例えば、お前と『根』を切り離した、とか」

「その場合の彼女の目的は…」少年は遠くを見つめたまま動かなくなった。微動だにしないため、一瞬機能が停止したのかと思ったくらいだった。どうやら、記憶している?膨大な景色に一致しなければ論外なのだろう…現状では推察することすらできない様子。先人に迷いはあったが、現状の説明をすることにした。問題は少年が理解できるかどうかではなく、興味を失ってしまうかどうか、だった。

「彼女の目的は一つだけだ。この国に『根』が落とされた、その真相を探ることだ。お前もその時の事故に巻き込まれた被害者の一人だろうが、彼女もまた被害者に数えられるかも知れない、彼女は兵器として造られた存在だからな。つまり、攻撃したのが誰で、されたのが誰か、こんな簡単なことさえ分からないから、軍部や首脳部は煮え切らない不安に十年以上も頭を抱える羽目になった。真相より下らない感情に感けた一部の連中が兵器の封を解いた。確かに、手っ取り早い一つの解でもある。但し、破壊に破戒を重ねた悪手ではあるがな、ここまでは理解できたか?」

「一部、不透明な部分もあるけど、大体分かった。でも、彼女の本分というのが分からない。僕と一緒でそれ以外の目的は存在しないのだろうか」

「それは彼女に直接聞いてみないと分からない。無論、軌跡から推察することは可能だが、どうあっても答えとはならないからな」理解は早いが、感情がなければ言葉の重さが伝わらない。概ね先人の予想通りではあったが、感情に関しては後から重ねれてやれば良い、こいつにはそれができるだろう。とりとめのない会話と学習は続いた。


「そうだ、こいつを渡しておこう」先人は少年が読書に夢中になっているのを確認してから、とあるリストを渡した。20枚程度のレポート用紙がピンで留められている。

「これは?」少年は連なる文字を追いながら答えた。「ああ、僕はここに在るってことかな」

「予めリストアップしておいたが、それでも数百人はいるか。ミサイルを撃ち込まれたってのに戦死者ではなく、事故死扱いだ。これを見せたとこで何がある訳でもないが、思うことはあるか?」

「これかな」少年はリストの一部を指差した。

「ユウ・シノグカワ…この名に覚えがあるということか」

「覚えはないけど、分かるんだ。もしかしたら、消去法かも知れないけど、これしかない。知りたくも何ともなくても理解してしまう、そんな感覚かも知れない」

「同姓が4人ということは家族だろうか…成人であればそれなりの情報は手に入るが、そうする理由は残されていない、か」先人は少年の方を一瞥するが、同情するまでもなく少年には何を思う心がない。草木のように眠るだけが正しい姿なんだと、突きつけられた現実を直視せざるを得ない。転義の天秤はどちらにも傾かない、この場に於ける、あるべき姿には既に成っていたということ。つまり、月日が天秤を揺らした。それ以上の理由が存在するのだろうか。

「そう、僕は死んだんだ。望みはなくとも、この身体は動く。今はそれだけが僕の全部なんだ」少年は指先を僅かに震わせてみた。何かを確かめたかったとしても、動機がないから動けない。「心が足りない。僕にとっての命の定義は決まったけど、理由は存在しない」

「それじゃ、何故俺に付いて来た?」

「断る理由もなかったから。でも、今は違う、その理由ができたから。僕は最初からこうすべきだった」少年の瞳に光が刺さる。眩しさを感じることはない、動くだけの理由もないのに、認識だけがすべてを先行する、それも凄まじい勢いで。そうした環境には同情せざるを得ない、だが、それで何が変わる訳でもない。彼はまだ生きている、その点に疑問は必要ないが、起点だけは与える必要があった。

「とりあえずだが、目的地さえあればいい、そこには俺も居るだろうからな」少年に安息は得られない、『根』から受け取る情報の波を如何に対処すべきか、それだけの存在だろうか。現時点では到達し得ない"境地"はあるが、困難で険しい道となる。感情はただの道具に過ぎないのか、天秤を傾けるのに足る理由が付加されるのならば、喜んで協力するだろうに。

「俺もまた目に飛び込むすべてに欺かれている」先人が呟く。但し、この場に於いてはそれが相応しいような、図書館に吹き抜ける風が静かに肯定していた。

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