第5話 田中、署名する
「金額の方も問題ありませんでしたらサインの方、お願い致します。それともなにか不備がありましたでしょうか……?」
「い、いえ。これで大丈夫です。サインします」
こんなに貰って文句なんかつけようがない。
書類の内容も俺に不利なことは書いてないし、問題ない。
俺は三箇所ほどサインして、印鑑を押していく。すると書類の中に色紙のような紙が入っていることに気がついた。
「ん? これは……」
「あ、あの。よろしければ個人的にサインをいただけないでしょうか……?」
見れば葉月さんの顔は真っ赤になっている。
あまり公私混同するようなタイプには見えないけど、そこまでして俺のサインが欲しかったのか? うーむ、不思議だ。
まあ恥を忍んで頼んでくれたんだ、俺のサインに価値があるかは分からないけど応えないとな。
「サインですね、構いませんよ」
「ほ、本当ですか!? ありがとうございます!」
葉月さんは満面の笑みを浮かべて喜ぶ。
サインくらいでこんなに喜んでくれるなら書き甲斐があるな。
俺はこっそり練習したそれっぽいサインを色紙に書く。すると胸ポケットからリリが飛び出してきて、色紙の横に着地する。
「りり!」
「ん? どうしたリリ」
リリは俺の持つペンに絡んでくる。
もしかしてリリも書きたいのか? でも小さいリリにペンは持てないだろうし、どうすれば……と考えていると、俺は印鑑用の朱肉に目がとまる。
「これならリリにもいけそうだな」
俺はリリの手をつかんで、朱肉にその手先を置かせる。
そして赤くなったリリの小さな手を色紙の上にポンと置く。すると小さなリリの手形が色紙に残った。
「これならリリでもサインできるな」
「りりっ!」
リリは楽しそうに色紙の端の方にぺたぺたと手形を残していく。
満足したみたいでよかった……と、思ったけどよく考えたら葉月さんからしたらいい迷惑かもしれない。そう思い至った俺は彼女に他の色紙にもサインを書こうかと提案しようとするが、
「ま、まさかリリちゃんまでサインしてくれるなんてっ!! 嬉しすぎます! この色紙は家宝にじまずぅ!」
むせび泣きながら喜ぶ葉月さん。
そのあまりの喜びぶりに俺は少し引く。リリもなにが起きているのか分からないみたいで「り?」と首を傾げている。まさか自分の手形で感動しているなんて思わないだろうな。
「おい! 大きな声がしたけどなにがあ……って、なんでお前が泣いてるんだ!?」
そう言いながら入ってきたのはスーツを来た男性だった。
歳は五十歳ぐらいだろうか。葉月さんの上司に見える。
「ザインを貰ったら嬉じくなっでじまっで」
「そ、そうか。お前はファンだったものな……って、なにサイン貰ってるんだ! 仕事しろ!」
上司さんは最初葉月さんに押されていたけど、途中からそう彼女を叱る。
まあそりゃそうだ。普通はそう反応する。
でも今彼女は泣いていてそれどころじゃない、フォローしないとな。
「あの、サインぐらい構いませんからそう怒らないであげて下さい。えっと、他に欲しい方がいらっしゃったらいくらでも書きますんで」
「いやそうは言いましても……いや。ううむ……」
上司さんは唐突に考え込む。
どうしたんだろうか。
「…………では、あの、申し訳ないのですが、私にもサインをいただけないでしょうか? 孫たちが田中様のファンでして」
上司さんは眉を下げながらそう頼み込んでくる。まさか本当に追加サインを頼まれるなんて。
俺は「え、ええ。構いませんよ」と少し困惑しながらもサインペンを手に取る。そして上司さんにサインを書いていると噂を聞きつけたのか他の職員さんたちもぞろぞろとやってくる。
「あの、私シャチケンに憧れていて……」
「大好きです! 配信全部見てます!」
「ファンクラブ入ってます!」
「子どもがシャチケンさんのファンでして……」
俺の前に積み上がっていく色紙。どうやら職員さんたちは俺が来たと知って、ワンチャンサインを貰えないかと色紙を買ってきていたみたいだ。
リリは遊んでいいと言われていると思ったのか、俺より先に手形をペタペタと押している。
……仕方ない。リリも乗り気だし、時間も間に合いそうなので付き合うとしよう。
「分かりました。しかし一人一枚にしていただけると助かります」
「「「「「「「「「「ありがとうございます!」」」」」」」」」」
綺麗に下げられるいくつもの頭。
結局俺は職員ほぼ全員分のサインをリリと一緒に書くのだった。
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