第8話:女上司が職場内で結婚を迫ってきたんだが

 カーテンの隙間から入る日差しに苛立ちを覚えつつも、湊はベッドから起き上がる。昨晩は映画を見ながら、途中で気を失ってしまったようだ。

 床に落ちた動画視聴専用のタブレットを取ろうと、手を伸ばしてみると——。


「あれ……? 何か絡んでる」


 湊の手には長い黒髪が絡まっていた。

 自分のかと思うが、長すぎる。

 一体誰のものかと思うものの——。


「やべえっ! 仕事行かないと!!」


 時計を確認し、湊は急いで支度を終わらせ、会社へと向かうのであった。


◇◆◇◆◇◆


 嫌な予感がした。漠然としたものだ。

 それに気付いたのは通勤電車内で、吊り革を握っていたときだった。


「あれ……こ、これバグか??」


 LIMEの通知表示が狂っていた。

 異常な数が出ていたのだ。

 数万レベルの通知表示が……。

 アプリを開こうと思えど、フリーズして中々開くことができない。


 格安SIMを愛用する湊にとって、回線が遅いのは日常茶飯事。電磁波の影響で、データ回線に異常があったか。

 と、考え、深くは考えなかった。


「ごめんなさい。昨日のことは」


 その原因を知ったのは、出社後だ。

 湊が自分のデスクへ座った瞬間に、驚異的な美貌を秘めた上司が話しかけてきたのだ。顔色は悲壮感が漂い、若干だが、塩らしさが感じられた。


「突然結婚とか迫られても困るよね? 私みたいな年増女から言われても何も嬉しくないよね。私、キモかったよね?」


 芸術的な美しさを持ち、仕事をテキパキと熟す才女——葉月美乃梨。


 多くの男性から言い寄られる姿は何度も目撃されるも、特定の男性とお付き合いしているという噂は、今まで皆無。


 一体、どんな殿方と付き合うのか。

 一体、どんな男と結婚するのか。


 そんな噂話が囁かれる彼女が放った『結婚』というワードは、他の職場仲間も気になるようだ。


 カタカタと断続的に鳴り響いていたキーボード音が止まった。全員が全員、聞き耳を立てて、二人の姿を見ている。


「でもね、冗談じゃないから。遊び半分であんなことは絶対に言わない」


 視線を奪う美しさを誇る彼女は一拍置き、周りにも聞こえるような大きさで。


「私は心の底から湊くんが好きだよ」


◇◆◇◆◇◆


 男の噂が全くない超絶美人——葉月美乃梨が好意を持つ殿方が現れるなんて。

 更には、自分から結婚を迫っただと。

 そんな噂が忽ち広がり、葉月美乃梨が選んだ男性——間宮湊を一目見ようと、女性は疎か、男性さえも見にきている。


「ったく……面倒なことになったな」


 壁にかかった時計が12時を指し示し、謎の鳥たちが「ぽっぽーぽっぽー」とお知らせしてくれる。休憩時間が始まる。


「湊くん。一緒に食堂行こうよ」


 葉月美乃梨が誘ってきた。

 間宮自身も言いたいことがあった。

 だから、逆に誘われるのは好都合だ。


「……いいですよ。少し話があります」


 二人揃って、社員食堂へと向かう。

 その姿は美男美女カップル誕生だという視線で集まっている。

 就業中も、二人が付き合っているのか、どんな関係なのかという話で持ちきり状態であった。やはり気になるのか。


「今日は私が奢ってあげるよ」

「いいですよ、自分で払います」

「別にいいのに……」

「タダより怖いものはありませんから」


 共に、日替わりランチを選んだ。食堂内唯一の限定食で、一番安い値段設定。


 本日はおろしハンバーグ定食。

 ご飯、味噌汁、野菜のおかわり自由。

 その癖、値段は350円という低価格。


「「いただきます」」


 二人は近場の席に揃って座り、午後のために英気を養った。ぽかぽか日向が差す中、たらふく栄養を摂取した胃袋を休ませながら、眠気と格闘する至福の時間帯。


 湊は膝上で拳をギュッと握りしめてから。


「で、葉月さん。昨晩のアレは何ですか? あんなものを送るのはやめてください。普通に迷惑ですッ!」


 湊の元に届いた数万通の通知。

 アレは全て葉月美乃梨が送っていた。

 内容は『ごめんなさい』の文字で埋め尽くされていた。素直に鳥肌が立った。


「湊くんに謝りたかったの。私の失態を謝罪したかったの。で、昨日は全く寝れずに……ずっとずっと送り続けてたよ」


 彼女の目元にはクマが薄らとある。濃ゆめの化粧で隠しているが、寝不足が一目瞭然。ただ、幸薄そうな感じで、自然と保護欲が湧き出てしまう。


「私ね、湊くんのことで頭がいっぱいなんだ。湊くんのことを考えるだけで幸せになれる。湊くんさえ、この世界にいれば、それだけでいい。ただそれだけで……」


 保護欲は一瞬にして消え失せた。

 この場から逃げたいと、湊は強く思う。

 だが、逃げられない。足が竦んで動かないのだ。ニコニコと微笑む漆黒色の瞳に意識を吸い込まれ、次なる行動を取れないのだ。


「湊くんが笑顔になると嬉しくなる。湊くんが他の女と喋ってるとイライラする。湊くんがウソを吐いたら悲しくなっちゃう。湊くんの側にいるだけで楽しくなっちゃう」


 暗黒の髪を持つ妖艶者の瞳に炎が宿る。

 目が語っている。次の言葉は本気だと。

 だからさ、と強気な口調で呟いてから。


「——私と結婚してよ。幸せにするから」


 結婚しろと迫って反省していたはずだが?

 それでも同じようなことを言うとは……。

 多少呆れつつも、湊は返事を出した。


「無理です。まだ俺には結婚は早すぎる」

「そうだよね。そういうと思ってたよ」


 反応は鈍かった。その手は既に見破っていたぜとでも言うぐらい、冷めたものであった。神秘的な魅力を放つ美女は続けて言う。


「だからさ、湊くん。養われてよ、私に」

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