第6話
送別会の代わり、と村井さんがアルバイト後に一杯ご馳走してくれたので二人で飲んでいると、つけっぱなしになっていた店のテレビがニュースを流していた。違法労働者の摘発である。他国からシンガポールへ正規の手続きを経ずに入国して働く人々と、彼らを低賃金で使う人々。偽造ビザや書類を作成し、不法入国と居住を手配する犯罪組織。経済成長に伴い状況はますます複雑になってきていた。シンガポールは半島の先端、海に囲まれて潜入しやすい地政であるが、政府と軍の警備も強固である。
そのことが頭をよぎったのだ。フェイは親戚にシンガポールの仕事を紹介してもらった、と言っていた。マレーシアにいる家族のことは何度も話に聞いたことがあるが、その親戚に会ったことはないし、実のところフェイの住んでいるところも知らない。いつも電話で待ち合わせ場所を決めていた。オレは日本で電柱の巡視点検をしていたが、ビルの外壁清掃の安全基準はどうなっているのだろうか。フェイはあれだけ働いていて、適正な賃金を受け取っているのだろうか。違う、違う、と冷えてくる頭を振る。悪いように考えては駄目だ、けれど一番怖いのは、フェイがそんな経済成長の狭間の深い穴に落っこちてしまったら、オレは術なく助けられないことだった。
柔らかな木漏れ日のなか駆けてくるフェイは珍しくスカート姿で、オレは驚いた。
「ごめん、遅れた」
うっすらと上気した唇には桜色のリップクリーム。ガーデンズ・バイ・ザ・ベイのサイン前で、オレはしばらく言葉が継げなかった。
「ええと……
オレの語彙などこの程度である。妙に緊張しているから、他に何を言えばいいかも分からない。今日こそ、来年には帰国することを伝えなければならないのに、また機会を失してしまいそうだ。伝えてしまえば、それきり関係は断たれてしまうだろう。フェイのことが好きだから、離ればなれになっても連絡を取り合いたい、とちゃんと言わない限り、一縷の望みも無い。けれどそんな告白こそ、オレにとっては絶望的に難しい。フェイは照れたように笑った。
「いっつも仕事着だから……今日晴れてよかった」
スーパーツリーの間を歩き回り、カラフルな花々を楽しんで、アイスクリームを食べた。フェイは仕事で庭掃除やガーデニングを手伝うこともあるらしく、意外にも植物に詳しい。
「ブラック・アンド・ホワイト・ハウスって言うの?
ああいうところに住むのって、どういう気分なのかなあ。小さくなったコーンを口に放りこんでフェイは言う。オーチャード・ロードのコンドミニアムだって何百万新ドル(数億円)するんだから、あんなお屋敷いくらするんだか見当もつかない。いくら働けば家が買えるのか、考えただけで気が遠くなりそうだ。やっぱり投資かギャンブルかな? 悪戯っぽく笑う目に呆れる。冗談だよ。私は父さんの娘だからね、そういう才能は無いの。
「もうすぐ学校に通えるだけの資金が貯まるから、資格取って働いて、自分の会社つくるんだ」
シンゴも一緒にやろうよ、副社長待遇にしてあげる!……なんてね。シンガポール・リバーにかかる橋をスキップするように渡る、フェイの背中を追いかける。仕事で鍛えられたしなやかな四肢に、スカートが翻って本当に飛んでいきそうだ。雨季の晴れ間、雲を貫いて輝くセントラル・エリアの摩天楼をふり仰ぐ。
「きっと空に連れていってあげるよ、シンゴ」
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